第八章 デート
「んー!今日も終わりっ!」
大学での講義を終え、泉里は大きく伸びをした。
「ねえ泉里、お昼どこか食べに行かない?」
隣で参考書を整えていた雪歩は、ウサギのようにふわふわした笑顔で言った。
「あー……んと、ね」
いつもなら喜んで食いついてくる親友だったが、妙に歯切れが悪い。
しかし、こういう反応になる理由を、雪歩は薄々感付いていた。
右手には眼鏡、左手はカバンから何かを取り出す途中で、恐らく、コンタクトレンズの箱を握っている。
「……鋼さん?」
さすが親友は、その一挙手一投足で全てを見抜いた。天然系の雪歩でも、恋愛関係に鋭いのは女性の十八番だ。
「へっ⁉いや、あいや……違う!違うの!ちょっと……!そう、ちょっと用事が……!」
泉里は慌てて左手をカバンに突っ込み、コンタクトを握りしめながらカバンの底をぶん殴った。痛む左手をぷらぷらさせながら、今度は右手の眼鏡を顔に押し付ける。
「いたたたた……!」
「ふふふ……楽しみなんだね。行ってらっしゃい!」
「ち、違うってば!」
ペッグは黒いバンの後部座席に揺られていた。サイモンからの催促はこれで九度目だった。
〔これ以上は待てんぞ、ペッグ〕
「……」
無言の返事を返し、通話を終了した。
「ペッグさん、次の予定地に行きます」
「……」
運転手にも無言の返事を。
「もうすぐ着きます。あの女の子……あっ」
運転手が急ブレーキを踏み、ペッグは前につんのめった。目の前の助手席に鼻を打ち、鼻血が飛び出してくる。
「す、すいません!大丈夫っすか⁉」
「……」
無言の返事を返し、ペッグは車の外を見た。原因がすぐに分かった。
「あのー、落とし物じゃないですか?」
「えっ……?いえ、私のじゃないです」
大きな木の下に一人立っている女子中学生に、見慣れた女がハンカチを差し出している。
「そうですか、すみません」
「いえ……」
いつも仕事を邪魔される女だ。女子中学生に手を振り、どこかへ離れていく。
ペッグは用意周到だった。ペッグというより、標的を決めているサイモンが用心深いだけだが。
まず、対象となる人間の行動パターンを調べ上げ、実際に数日、数週間をかけて確認し、狙いを定める。そして、対象が必ず一人きりになる時間、場所を見つけ出し、誰の目にもつかないところで誘拐する。そうやって、実績を上げてきた。さらった人間たちは、もの好きな政治家や経営者に売り飛ばしたり、内臓だけを取り出して、ブローカーに売りつけたりする。
だが、このところ空振りが続いている。他でもない、ハンカチ女のせいだ。
毎朝、登校前に人気のない公園を通る女子高生、毎日午後三時、自殺願望があって、橋の上から飛び降りるか悩んでいる女、毎夕、友達と塾に行くために、大きな木の下で待つ女子中学生……実際にはもっといるし、このまま放置すればもっと増えるだろう。
目撃者がいたら困るペッグ達をあざ笑うかのように、ふらりと現れては消えるのだ。
『はぁ……それは、いつも同じ女なのか?』
サイモンの言葉を思い出し、ペッグは遠ざかっていく女の背中を見つめた。
『なら探れ。どこのどいつか、突き止めるんだ……!』
バンのドアを開き、外へ出た。大きな体をしなやかに動かし、気配と音がほとんど出ないように気をつけた。
「ぺ、ペッグさん⁉」
運転手は驚き、反対車線にいた別動隊のミニバンが慌ただしげに揺れた。
「……」
ペッグはミニバンに向かって手の平を見せ、下手に動くなと示した。続いて、一人だけ降りてこい、と手招きを追加した。
最後まで無言だったのが、果てしなく不気味だった。
ぐるぐる巻きにしたマフラーを手で押さえながら、泉里は小走りでやってきた。辺りを漂っている粉雪が、ふわふわと道を開ける。
「すみません、遅れちゃって」
鋼はコートに突っ込んでいた両手のうち、左手だけを出し、時間を確認した。
「五分遅刻だ、罰金!」
ニヤリと笑う願い探偵に、泉里は唇をとんがらせた。
「落とし物した人がいて、拾ってあげてたんですぅ」
「知ってる。いいよ、五分くらい」
鋼はすでに、泉里が人助けをすることに慣れていた。二人で会う時には、ほぼ必ずと言っていいほどその状況に出くわす。理由は謎のままだが、泉里はいつも、死に近づいた人間に気付き、手を伸ばしてきた。デート前に終わってくれただけ、今日はましな方だ。
「願い探偵鋼と人助けの泉里。売り文句としてはいいじゃん」
「売り込みませんよ!私、ただの大学生ですから!」
楽しそうに笑いながら、二人は繁華街に消えていく。
「タルコナ……?」
鋼に連れてこられた、大きな通りから三本離れた裏路地。そこにある雑居ビルの二階で、泉里は立ち尽くしていた。こじゃれたバーに、乙女心が自然とうずく。
「そう。オレの行きつけだ」
重たい木の扉を、鋼は片手で押した。空いた方の手で泉里を中へとエスコートする。
「わぁ……」
思わず、感嘆のため息が漏れ出た。
オレンジの間接光が泉里を優しく、温かく迎え入れ、店の奥にある古いダーツが、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。カウンターにはタキシードをビシッと来たマスターがいて、透明なグラスをきゅっきゅっと拭いている。その後ろには、渋いつやを放つボトルの数々……
「素敵……」
思わず、感嘆のため息が漏れ出た。
「どうぞ、こちらへ」
たっぷりの黒髪を、ワックスでオールバックに固めているマスター。年は四十くらいかしら、この人も素敵な方……泉里ははにかみながらカウンター席に腰掛けた。
「ん」
あとから入ってきた鋼が、右手を差し出してくる。
「あっ、ありがとう……」
泉里は少し遅れて気付き、上着を手渡した。
鋼が泉里の上着をハンガーにかけている間、その持ち主は店内を隅から隅までじっくりと観察していた。カウンター席は泉里たち以外に誰もいないが、テーブル席にはちらほらと客がいる。いずれも、中年以上の――金を持っていそうな――大人たちだ。
自分のような小娘には場違いな気がして、泉里は肩を縮こませた。
「なぁに緊張してんだ」
泉里の様子を見て、からかうように鋼が声をかけた。さりげなく隣に座ってきたが、泉里はむしろ、ちょっと安心した。
「だ、だって……!なんだか高そうなお店……!」
「高そうなお店……?アッハッハッハッ!」
突然に笑われ、泉里はムスッと膨れた。おかげで緊張はほぐれた。
「高くはねえよ。まあ安くもねえけどな」
目じりに溜まった涙を指先でぬぐい、鋼は笑いをこらえた。
「こちら、タルコナのマスター」
「坂出敦史です。興梠泉里さんですね、お待ちしておりました」
マスターはグラスを置き、右手を差し出した。何気ない動作一つとってもダンディだ。
「私のこと、ご存知なんですか?」
「ええ、鋼君は最近、泉里さんの話ばかりしますから」
「あー!うー!」
「聞いた通り、かなりの美人とお見受けしました」
「あぁぁぁぁ!うぅぅぅ!」
鋼は一生懸命サイレンを鳴らしていたが、店内の注目を集めた以外に、特に効果は無かった。
泉里は頬が熱くなるのとにやけそうになるのを、必死に隠さなければならなかった。
「ゔぅん!いいからマスター。いつもの」
「はいはい」
マスターは泉里にウインクし、スコッチの準備に入った。どろりとした茶色の液体を、磨き上げたグラスに注いでいく。
「え、えっと」
コホンと咳ばらいをして、まんざらでもない表情をひた隠し、泉里は鋼に聞いた。
「それがおいしいんですか?」
「あん?いや――」
スコッチを受け取るや否や、鋼は一気に飲み干した。照れ隠しだったのがバレバレだったので、泉里もマスターも、乾杯はしないのか、と突っ込みはしなかった。
「――カクテルを勧められるんだが、オレはあんまり、ってだけ」
鋼は肩をすくめ、おかわりを要求した。
困り顔でスコッチを注ぎながら、マスターは言う。
「おすすめは絶品カクテルなんですけどね。鋼君は飲んでくれなくて」
「だってまじいじゃん」
「ま、マズいんですか?」
失礼だとは思いつつも、泉里は聞かずにいられなかった。だって、お金を払うのにマズいものを飲みたい人間はほとんどいない。
マスターはクックッと笑い、首を振った。
「いいえ。私は神様に、おいしいカクテルを作れるようにお願いしています」
人差し指をピン、と立て、自信満々に言ったかと思った次の瞬間、マスターはテキパキとした手つきでジンとオレンジジュースをシェイカーに入れた。カラカラと二十回ほどシェイクした後、冷えたカクテルグラスに注いでいく。最後にハート型に切ったオレンジの皮をそえ、柔らかな動作で滑らせた。
「サービスです。きっと、満足しますよ」
泉里はドキドキしながらグラスをつまみあげた。鋼の言うこととマスターの言うことが正反対なため、どっちを信用していいのかわからないのだ。不安げに揺れるザクロ色の瞳が、いざスコッチを飲もうとしている鋼を捉えた。
「ふっ」
悪ガキのような笑みを浮かべると、鋼は飲みかけだったグラスを突き出した。
泉里もつられてグラスを差し出す。
「新たな犠牲者に、乾杯」
「かんぱ――犠牲者なんですか?私」
もう、冗談なのか本気なのか全くわからない。困り顔ではにかみながら、泉里はオレンジジュースにしか見えないそれを迎え入れた。
「……おいしい」
マスターの名誉のために言っておくが、マズいと身構えてからのおいしさにびっくりしたのではなく、あまりのおいしさにびっくりしたのだ。泉里はぷるんとした唇を手で押さえていた。
柑橘系のフレーバーと、すっぱすぎない甘さ、控えめに感じるアルコールが、するんと喉を通り、お腹の中に落ちていく。ちょっぴりアルコールを含んだオレンジジュースと言えば子供っぽいが、お酒を飲めるようになって一年ちょっとの泉里でも、とても飲みやすく、おいしいものだった。
もう一口、オレンジの香りで喉を潤し、泉里は微笑んだ。
「すごくおいしいです!……鋼さんがおかしいんじゃないですか?」
「んなっ!なにおう!」
空になったグラスを叩きつけ、鋼は憤慨した。
二人の様子を見て、マスターは嬉しそうに笑った。
「なんていうお酒なんですか?私、初めてで……」
「オレンジ・ブロッサムと言って、禁酒法時代のアメリカで生まれたと言われています。質の悪いアルコールが出回ったため、少しでも飲めるようにと、オレンジジュースと合わせたとか」
シェイカーを手入れしながら、マスターは渋い声で言った。
「現在では、ドライジンとオレンジジュースで作られます。泉里さんにお出ししたものは、少しオレンジジュースを多めにしているので、マイルドな味わいに仕上がっていると思いますよ」
「へぇ……お酒がこんなに美味しいものだったなんて……私、知りませんでした」
「それはよかった」
マスターのウインクを見た泉里は、目をキラキラさせ、最後の一口を飲み干した。カクテルの色合いも、グラスに添えられたオレンジの皮も、マスターの気遣いも、全てが素晴らしかった。これをマズいという鋼は、とんでもなく失礼だと思った。
「ていうか、神様のお願いが効かないなんて、鋼さんはやっぱり神様に嫌われてるんじゃないですか?こんなにおいしいのに」
「ちぇっ!嬉しそうに飲むこと!オレは色々あんの!」
鋼はさらなるスコッチを要求し、ぐいっと煽った。
「マスター、例のあいつは?」
少々のアルコールが回ってきたころ、鋼がおもむろに切り出した。
ピンク色のカクテルをちびちび飲んでいた泉里は、はてと首をかしげた。例のあいつとは、どこのどいつだろう。
マスターは店の壁にかかっている時計をチラリと見て、頷いた。
「まもなく」
と、言うや否や、カウンターの裏にある、従業員用の出入り口がパッと開いた。
「えっ――⁉」
泉里は目を疑った。
出てきた男は、泉里にも見覚えのある人物だった。
「どうも、杠京司です」
以前と比べると、別人のような清潔感を放っている杠京司。肩までかかりそうだった茶髪は黒に染め直され、小ざっぱりした長さに切りそろえられている。右耳にしていたはずのピアスも外し、マスターのタキシードに似た黒いスーツを、ビシッと着こなしていた。大きな二重まぶただけが、あの時のままだった。
「どうも、こんばんは」
右手を体の前に持ってくると、杠はさっとお辞儀した。そして、体を起こした時には、右手にバラの花を握っていた。
「あの時はお世話になりました。ようこそ、あなたに。一夜限りのショーを」
ニコリと微笑みかけられても、泉里は戸惑うことしかできない。もちろん、どこからバラが出てきたのか気になっているわけではない。どこから杠が出てきたのかが気になっているのだ。
「え?え?……えっと」
鋼を見てみたが、つまらなそうな顔をしてバラを睨みつけている。マスターを見ても、新しいカクテルの準備をしている。
目の前に差し出されたバラから逃げるように、泉里は体をのけぞらせた。
「あれ、ちょっとクサかったですか?」
杠は残念そうに微笑み、目にも止まらぬ速さでバラを消し去った。これが超人的な器用さということだろうか。
「くっさ」
「そりゃないっすよ鋼さん!」
吐き捨てるような鋼の評価に、杠は崩れ落ちた。悔しそうに顔をゆがませている。
「俺、一生懸命考えたんすから!」
泉里は混乱のさなかにいた。目の前にいる青年は、どう見ても連続スリの被疑者として捕らえられた男だった。それから約一か月、処分云々がどうなったのか聞いたことはなかったが、まさかこんなところで出会うとは。しかも、鋼もマスターも、杠がここにいることがさも当たり前のようにふるまっている。いったいぜんたい、どういうことなのだろうか。
「気を取り直して。バー、タルコナ、マジックショーの始まりでーす!」
杠はカウンターから出て、テーブル席の方へ歩いて行った。常連と思しき客が拍手で迎え入れ、トランプマジックが始まった。
泉里はグラスの足を必要以上に撫でまわし、気持ちを落ち着けようとした。若干の貧乏ゆすりも加えながら、杠の背中を見ていると、鋼が説明してくれた。
「余罪も全部正直に話して、被害弁済をしたんだ。初犯ってところも考慮されて、不起訴処分で出てきたんだと。新道のおっさんから聞いた」
「そ、そうなんですか……」
「今はマスターが余興要員で雇ってる。まっ、弁済の肩代わりしたのもマスターだから、しばらくはタダ働きだが」
それだけ言うと、鋼はテーブル席で行われているトランプマジックに目を移した。
泉里はようやく落ち着つき、飲みかけだったカクテルをつるんと飲み干した。そしてグラスを返し、マスターにお代わりをねだった。
「マスターって、すごくいい人なんですね。杠さんを雇ってあげるだなんて。お店はおしゃれだし、お酒もおいしいし。鋼さんとお知り合いなのが信じられないくらいです」
「私ですか?いいえ」
カクテルをよく知らない泉里のため、飲みやすいメニューは何かと考えながら、マスターは首を振った。
「え?でも、鋼さんが――」
「ああ」
合点がいったとばかりに、マスターは眉を吊り上げた。
「いよっ!いいぞ!」
鋼が華麗なトランプマジックに拍手を送っていることを確認すると、マスターは泉里に顔を近づけ、鋼には絶対に聞こえない声量で、こっそりとささやいた。
「鋼君が気にしていたんですよ。面会に行ってやれ、金を出してやれ、最後は――そうです――マジシャンとして、雇ってやれと」
泉里ははっと振り返った。鋼はまだ、杠のマジックに拍手を送っていた。
マスターは付け加えた。
「杠君が真面目に頑張るということを、鋼君は信じているんです。だから、手を差し伸べたかったんですよ。私に頼りっぱなしというのはいただけませんが」
鋼はまるで、同級生を茶化す悪ガキのように笑っていた。その顔が泉里にはまぶしかった。
穴が空くほど見つめていると、鋼が胡乱そうに振り返った。
「あん?なんだよ」
「別に」
泉里は舌をぺろりと出した。
「鋼さんって、無茶苦茶だなーって」
「はぁ⁉」
会心の笑顔で言われ、鋼は憤慨した。なんで嬉しそうなのか、そもそも、話の筋だって全く見えていない。
マスターはクックッと笑い、そこに参戦した。
「たしかに、鋼君は往々にして無茶苦茶です。ですが、そこが彼のいいところですよ」
ルビーのような色のカクテルを滑らせながら、マスターが意地悪く言った。
「ふふふ、間違いないですね」
「けっ!言ってろ言ってろ!」
「えぇ~、事実ですもん」
泉里は嬉しそうに笑い、カクテルを飲んで誤魔化した。それ以上鋼の顔を見ていたら、色々口走ってしまいそうだった。
「楽しそうですねみなさん。さて、マジックはどうですか?」
鋼と泉里の後ろから、テーブル席でのショーを終えた杠がやってきた。
泉里は両手でグラスを持ち、振り返った。ちょっぴり杠をドキリとさせながら、大人びた視線を投げかける。
「えー。じゃあ、うぅんとびっくりさせてくださいよ?」
鋼は肩をすくめ、早くやれと目配せした。
杠は肩をほぐし、気合を入れた。ハードルを上げられるほど、マジシャン冥利に尽きることはない。
「お任せを!杠京司、とびきりのマジックをお見せしましょう!」
杠至極のマジックの数々を、泉里は時間を忘れて見入っていた。消えるトランプ、瞬間移動するコイン。どうやったのかわからない技を近くで見せられ、なんとかタネを見破ってやろうと、躍起になった。
ショーと共に出されるマスターのカクテルは、どれもこれも絶品で、普段あまり飲まない泉里も、次々とグラスを空にしてしまった。気が付けば、鋼よりもたくさん飲んでいた気がする。もちろん、アルコール度数の高いスコッチと、マイルドさ重視のカクテルでは大きな差があるが。
「いいですか?ダーツの投げ方の順序は、ユーミング、テークバック、リリース、そしてフォローの四つに分けられます――」
「はあい」
ほろ酔い状態になった泉里は、マスターのダーツ指南を受けていた。
一通り説明を聞いてから投げてみたが、もちろん狙いは定まらず、矢は円の外に当たった。
「むー。難しいです」
「泉里、飲みすぎだ」
ふらりと揺れる泉里の体を、鋼がさっと支えた。
「んー、マスターは、うまく投げられるんですかぁ?」
鋼の胸に鼻をこすりつけながら、泉里は聞いた。
「私ですか?最近はあまりやってませんが……どれ」
マスターは見事な投擲を見せ、的のど真ん中に命中させてみた。
「きゃあ!すごーい!」
鋼は、腕の中ではしゃぐ泉里の胸に触れないよう、最新の注意を払いながら支え続けた。
「泉里、泉里……」
「んー……鋼さん……」
店を閉める時間が近づいていた。鋼は泉里の肩を何度もゆすったが、ザクロ色の瞳を閉じてしまった女子大生は、カウンターに突っ伏したまま目覚めない。すべすべとした頬がオレンジの間接光に照らされ、柔らかそうな質感が増している。
「白雪姫ですね。鋼君のキスが必要ですか?」
グラスを磨くマスターの言葉が、鋼の頭に強烈に引っかかった。
「マスター?」
「ジョークですよ」
マスターはそっとグラスを置き、新しいのを磨き始めた。
いや、今の目は半分本気だった。突っ込むべきか否か悩む鋼だったが、余計にからかわれる気がしたので黙っておいた。
「鋼さん、タクシー来たっすよ」
階下から上がってきたのは杠だ。鋼に感謝の念を感じているこの青年は、今となっては、鋼のためなら何でもする子分のようになっていた。
「おう、サンキューゆず。ほら、泉里、帰るぞ」
「んー……」
鋼は泉里の肩に上着をかけ、少し強引に引っ張り上げた。泉里は眠たそうに目をこすっていたが、素直について来た。もっとも、足元がおぼつかないので、鋼にすがってはいたが。
「泉里さん、お気をつけて。また来てくださいね」
「次のマジック、用意しとくっす!」
「はい……ありがとうございました……」
泉里がぐにゃりとお辞儀したのを確認して、鋼は歩き出した。
「鋼君、きちんと送ってあげるんだよ」
「わーってるよ。マスター、また今度払うわ」
タクシーに三十分ほどゆられた後、鋼は泉里のアパートにたどりついた。
「ついたぞ、ほら」
「はあい……」
泉里を引っ張り出し、アパートの入り口まで、一緒に階段を上る。さて、たどり着いたはいいが、泉里のふらふらはまだ続いている。いささか心配だ。
泉里に代わり、カバンの中から鍵を取り出した鋼は、入り口ドアをカチリと開錠した。
「まったく、もっとしっかりしてると思ってたのに、大丈夫か?」
心配して気にかけたつもりだったが、少々言い方が悪かった。こういうとき、酔いの度合いに関わらず憤慨するのが人間だ。泉里はぶすっと頬を膨らませ、鋼の胸に頭突きした。
「うぇっ!」
色んな意味で息がつまり、鋼は追い詰められた。冬の星座の下で、願い探偵は泉里と壁に挟まれている。
「なんだ、どうした……」
しばらくの沈黙が流れた。鋼はもう、どうしていいかわからない。
泉里は鋼の胸に顔をうずめたまま、ぽつりと言った。いや、いくら酔っぱらっていても、うずめていなければ言えなかった。
「マスターが悪いんです。おいしいお酒作るから」
何かと思えばそんなことか。確かに、少なく見積もっても七、八杯は飲んでいた。鋼はため息をつき、泉里の肩を持った。
「わかった。じゃあマスターに言っとく」
そのまま肩を押し、密着状態を解消しようと思っていた。
しかし、泉里は頑として動こうとせず、さっきとは別の言い訳をし始めた。
「違います。杠さんが悪いんです!面白いマジックショー見せるから」
「はぁ?じゃあ杠に言っとく――」
「違います!」
「はぃ⁉」
とうとう意味が分からなくなった鋼は、降参して両手を上げた。なんだってんだ一体――
「……鋼さんが悪いんです」
ささやくように泉里は言った。星が瞬く音にさえ負けてしまいそうな、小さなちいさな声だった。
「ふーん……えっ、オレ?」
さっきまでのノリで聞き流そうとした鋼だったが、ちょっと待て、自分の名前が聞こえた気がして思いとどまった。
泉里は声を詰まらせ、もう一度言った。
「そうです……。鋼さんが悪いんです。一緒にいると楽しいから……」
「あぁ……え……?」
天使のようだと思っていた泉里の声が、いやに甘酸っぱかった。鋼は目を白黒させながら、辺りを見回した。
「えっと」
自分が登ってきた階段の方を見てみたが、特に何もない。
「えー……」
反対側に目を向けてみるが、やはり、特に何もない。強いて言ったとしても、隣の部屋の扉が見えるくらいだ。
どれだけ待っても返事が来ないので、泉里はいてもたってもいられなくなり、叫んだ。声色はやっぱり、痺れるほど甘酸っぱかった。
「鋼さんが悪いんです!」
意を決して、顔をくっと上げ、泉里は訴えた。オリオン座があれだけ煌々と輝いていたら、きっと、頬が真っ赤になっているのだって、すぐ気付かれるのに。
「一緒にいると楽しいから!お酒だって飲んじゃいますよ!」
鋼は思わず見とれてしまった。ちょっぴり涙目になっているのが、たまらなく可愛かったからだ。
それでも、その場の雰囲気と酒だけで流されるような男ではない、というのが鋼にとっての紳士像だった。相手は女子大生、こっちはいい大人。沸き上がる感情を抑えるのが慎みというものだ。
「わかったわかった。オレが悪かったよ……でも今日はもう遅い。ほら……」
泉里の肩にそっと手を置き、自分の体から引き離すと、玄関ドアに向けて方向転換してやった。
「はあ……」
泉里はぶーぶーと不満を口にし、ため息をもって玄関を開錠した。そりゃ、最初に出会った時、強烈に拒絶したのはこっちだけれど……この扱いはあんまりだ。まるで、駄々をこねる子供をあやすみたいに……破廉恥でもなんでも構わないから、もうちょっと、こう、色々あって欲しかった。
「あの」
このままおやすみの挨拶を交わし、ベッドに直行するのは簡単だが、鈍いことこの上ない探偵を手ぶらで帰らせるのは、かなり癪だった。
真っ赤になった顔を玄関ドアで半分隠し、ギロリと悪魔の瞳を覗かせた。
「なんだ」
泉里はデートのネタを探し出すため、脳をフル回転させて今週のイベント情報を思い出した。
「明日、えーと……うーと……その、そうだ!モトクロスの大会があるんです。一緒に見に行ってください」
「モトクロス?なんだいきなり、そんな趣味が――」
「一緒に行ってください!」
「……はい」
逆らうことのできない圧を感じ、鋼は大人しく従った。
「それじゃあ……また明日」
泉里はようやく満足し、すごすごと奥に下がっていった。自分の要求を通した途端、安堵感と恥ずかしさがいっぺんに襲ってきたのだ。
「おう――」
鋼は返事を言いかけたが、まだ途中のところでドアを閉じられ、尻切れトンボになってしまった。右手も上げかけたのに、これでは中途半端な招き猫だ。
「……ゔうん!」
真夜中に一人で手を上げているというのは、とんでもなく格好がつかない。誤魔化すように咳ばらいをし、鋼は家路を急いだ。
「鋼さん」
アパートの階段に差し掛かったころ、キィ、と音が鳴って、か細い天使の声が届いた。
「おやすみなさい」
鋼は立ち止まり、後ろに振り向いた。
「あぁ、おやすみ」