第七章 焦がれて
泉里は、本当にびっくりしていた。
何の躊躇もなく、鋼は川に飛び込んだ。
気温が一けたになろうかという寒空の下、ポシェットが見つかるまで、優に三十分は水の中にいた。
そして、泥まみれになりながらも、女の子にとって一番の宝物を取り返してきた。
鋼が、あんなに失礼で、無遠慮で、自分のことしか考えていないと思い込んでいた願い探偵が、一人の女の子のために、ここまでするなんて。
階段下に放置されたコートを拾い上げた。泥水につかり、ずっしりとしていた。
泉里は、本当にびっくりしていた。
ちょっと見直すなんてレベルをあっさりと超え、悪くないかも、さえ飛び越し、まさか、鋼のことを、一人の立派な男として見る日が来ようとは。
鋼の背中は、とても大きかった。後姿は初めてだった。
泉里は、本当にびっくりしていた。
自分から声をかけるだなんて。破廉恥だわ、私。
女の子は満面の笑みで帰っていった。鋼も同じ表情だったのが、自分のことのように嬉しかった。
「あの」
おずおずと話しかけると、鋼はしかめっ面で振り向いた。
「あぁ……すまん」
声をかけてきたのが泉里だとわかると、鋼は片方の眉をつり上げ、どぎまぎしながらコートを受け取った。泉里が拾ってくれるなんて思ってもいなかったのだ。
「あなた……いい人だったんですね」
「バカやろう、オレはいつでもいい人だ……あーあ……名刺が……」
左の内ポケットを確認すると、ふにゃふにゃになった名刺が五十枚ほど出てきた。鋼はがっくりと肩を落とし、しかたなくコートを絞った。
足元で跳ねる水を見ながら、泉里はもじもじとしていた。自分がどうしたいのかよくわからない。金縛りのような、奇妙な感覚だった。
「げっ!財布まで……」
別のポケットをまさぐり、鋼はがっくりと肩を落とした。せっかく稼いだ一万円札四枚、全部びしょ濡れだ。あとで乾かさなければ、使えやしない。
パタパタと財布を振っていると、足元を見つめる泉里が目に入る。なぜか切羽詰まった表情だ。なんでそんなに切なそうな顔をするのか、鋼にはさっぱりわからなかった。そんなことより四万円を乾かすことが忙しかった。ていうか寒い。
「っくしょい!……はぁああぁ……さっび……」
手をパタパタさせながら、歯をカチカチ言わせながら、足をブルブルと震わせた。鋼は、自分の肺が凍ったような錯覚を覚えていた。
「早くシャワー浴びて、着替えないと。風邪ひきますよ」
「わーってるよ……」
「じゃあなんで帰らないんですか」
「家がねえんだよ、オレは」
「住むところもないんですか⁉」
泉里の大声で、付近にいた鳩が一斉に飛び立った。それくらいの大声だった。
「あぁそうだ。悪かったな」
少しだけ劣等感を感じ、鋼はそそくさと歩き出した。
「いや、別に悪いとかそういうんじゃ……」
泉里がぶつぶつ言っているのが聞こえたが、相手にしている暇はない。このままだと体温が下がる一方だ。鮫島かマスターのところに行って、風呂を借りるしかない。
鮫島は嫌がるだろう。漫画コレクションに泥がつく。
マスターもさすがに顔をしかめるだろう。店先に泥の水たまりができちまう。
しかし、背に腹は代えられない。髪先からしずくが落ちているこの状況では、どこの銭湯に行っても門前払いを受けてしまう。鋼には、どちらかに頭を下げて、入れてもらうしか選択肢が無かった。
「あの」
ザクロのような色さえ感じなければ、天使の誘いだと勘違いしただろう。泉里の声は美しすぎる。
しめった福沢諭吉を四人抱えたまま、鋼はあんぐりと口を開けた。
「うちに来ます?」
温かい水に打たれながら、鋼は困惑していた。
小さなユニットバスだ。あちこち染みだらけの、古めかしい。
体の震えは止まった。表面から順番に、少しずつではあるが、芯の方まで熱が伝わってくる。
「ふう……」
シャワーの栓を開きっぱなしにしたまま、シャンプーでも使おうと手を伸ばした。
「あ……?」
よくわからないのは、シャンプーだかリンスだかコンディショナーだか知らないが、何種類もの整髪料が、キープボトルのごとき陳列状態にあったことだ。オシャレさしか追及していないグニャグニャの書体のせいで、ボディーソープですら見分けがつかない。
「はあ……」
数うちゃ当たるの理論で、右から順に、片っ端から試していく鋼だった。
鼻の穴や爪の隙間に入った泥まで綺麗に落とし、鋼はユニットバスを出た。生き返った気分だ。
時を同じくして、興梠泉里は脱衣所に足を踏み入れた。
「うわっ!」
「きゃあ!」
泉里はコンビニのビニール袋で顔を隠し、脱衣所を飛び出した。
鋼は足を滑らせ、もうすぐでこけるところだった。
「出るなら出るって言ってくださいよ!」
「入るなら入るって言えよ……」
なんでオレが悪いことになってるんだ?鋼は納得いかない気持ちで、足ふきマットを踏みしめた。
ユニットバスを出てすぐのところにある洗濯機が、ゴウンゴウンと唸りを上げている。その上には、真っ白なバスタオルが。鋼はそれを取り、体を拭き始めた。
「あの……」
脱衣所の入り口から――カーテンが張ってあるだけの、簡素なものだ――ビニール袋を持った右手だけが差し込まれる。大手コンビニチェーンのロゴがまぶしい。
「……なに」
「下着です……服は私の貸しますけど、下着までは持ってないので」
意外なものだ。ストーカーのためにシャワーを貸し、パンツを買ってくる被害者。鋼は今、意味不明の真っただ中を生きている。
「あっ……そう……ありがと」
一応、礼を言っておくところだろう。鋼は持ち前の洞察力で礼儀を尽くし、コンビニ袋からパンツを取り出した。そしてため息をついた。
「いやぁ……白ブリーフはないだろ」
「えぇ⁉いや、私っ……」
「おっさんじゃねえんだから……」
「し、仕方ないじゃないですか!私、男の人の下着なんて、まじまじと見たことないんですもん!」
「それとこれとは別だろう……」
「むっ……!私が、どれだけ恥ずかしい思いをして、それを買ってきたと思ってるんですか!」
脱衣所外の廊下で、泉里は赤面した。年頃の女子大生が、何を好き好んで異性の下着を買うものか。アルバイト店員にジロジロと見られるあの数十秒間。穴があったら入りたい気分だった。
「わーった、わーった!オレが悪かったよ!ありがとさん!」
このままだと泉里が怒鳴りこんでくる。色んな危険を肌で感じ取った鋼は、とっとと袋を開け、真っ白なブリーフを取り出した。
「むう……」
ブリーフを履いても、まだ試練が残っていた。バスタオルを取った後、洗濯機の上に残されていたのは、女物のスウェットパーカーだった。色こそグレーだが、胸にポップな英字が躍っており、右半身には、デフォルメされたパンダが、顔の上半分だけを覗かせている。
「他の服はないのか」
「それしかないんです。サイズが大きいのは」
泉里は脱衣所と接している壁に背をつけているのだろう、天使のような声が、廊下の壁に反射して返ってきた。少々、ムスッとしていた。
「はあ……」
洗濯機のランプは、まだ〝洗い〟の項目で光っている。すすぎ、脱水、そして干す……鋼の服が息を吹き返すのは、まだまだ先の話だ。
覚悟を決めて、泉里のスウェットに袖を通した。窮屈な首元で数秒つかえたが、無理やり引きおろした。
その瞬間だった。
香りに包まれ、鋼の心臓がはねた。
「……っ!」
自分の反応に自分で驚き、鋼はスウェットを見回した。
鋼の嫌いな人工の臭いとは違い、甘すぎず、主張しすぎない。それでいて、落ち着くような、急き立てられるような……感情のパレードが始まってしまい、制御が効かなくなっていく。
「……むぅ」
思わず、袖口を顔に近づけ、すんと匂いをかいでしまった。感情のパレードは爆速で動き出し、観客席に突っ込みそうな勢いだ。
「ちょっと!匂い嗅いでません⁉」
泉里は恥ずかしすぎて顔から火が出そうだった。男の人に私服を着られただけでなく、匂いまでかがれるなんて!今すぐひっぺがして、衣装ケースの一番奥深くにしまってしまいたかった。
「えっ?あっ、すまん……」
鋼は我に帰り、素早く手をおろした。
何をやっているんだオレは⁉
激しい嫌悪感と恥ずかしさがこみあげてきた。それに紛れて、もうちょっと嗅いでいたい、という思いがこっそり湧いてきた。
静まりたまえ。鋼は二十回くらい呟いていた。
〔――まぁった行方不明ですよ、今月に入ってもう六件目〕
そわそわしながら、鋼は小さなテレビを見つめていた。昼のワイドショーは、今はやりの行方不明事件で持ちきりだ。心はここにあらずだ。
なにせ、この部屋は泉里の香りで溢れかえっている。床にしかれたカーペット、背もたれ代わりのベッド、果てはカーテンに至るまで、スウェットと同じ匂いをまき散らしている。湯冷め防止につけられたエアコンの風が、それらを余計に循環させている。この部屋狭すぎやしないか。
別に女に免疫が無いわけではないが、鋼がいつも相手にしてきたのは、小汚い女がほとんどだった。依頼主や、調査対象がほとんどだった。好意で招かれたことなど一度もなく、どう対処していいかわからない、未知の体験だ。不思議の国に迷い込んだアリスはこんな気分だったのだろう。あるいはナルニアに引き込まれたペベンシー兄弟か。
〔そうなんですねぇ。各紙一面で報じています――〕
そわそわしながら、泉里は小さなテレビを見つめていた。また行方不明が発生したようだ。いつもなら胸が痛むところだが、心はここにあらずだ。
なにせ、男を部屋に誘ったことなどないし、男の服を洗濯機に入れことだってなかった。そして今、その男が、たった三センチ隣で膝を抱えて座っている。しかも自分の服を着て。この部屋、ちょっと狭すぎるわ。
別に男に免疫が無いわけではないが、泉里は真面目な女子大生だ。たまに先輩に連れられて合コンに顔を出し、その場限りの交友関係を築くことはあっても、勉強が第一だった。故に、男と付き合ったことは一度もなく、どう対処していいかわからない。未知の体験だ。姉二人にらんまを押し付けられたあかねの気分――いや、それだと許嫁になってしまう――違う、突然やってきたバズ・ライトイヤーにとまどうウッディの気分だろうか。
未知の横顔をちらりと盗み見ると、どうやら鋼は部屋中を見回しているようだ。
それもそのはず、鋼は、いつ始まるともわからない感情のパレードにびくびくしていた。
少しでも気を落ち着かせなければ、たった今始まった貧乏ゆすりで床をぶち抜いてしまいそうだ。あぐらになってみたり、膝を抱えてみたり、体勢をころころ変えてみるが、一向に収まらない。鋼は部屋をぐるりと見回し、何か話の種でもないかと探しまくった。
「あの」
鋼が落ち着きを失っていく様を、泉里は目ざとく注意した。服の匂いと同じく、部屋を隅から隅まで見られるのは死ぬほど恥ずかしい。
「あんまり、ジロジロ見ないでもらえます?」
天使の声で話しかけられ、鋼はビクッと肩をすくめた。
「あん?あぁ……」
妙な強制力を感じながら、おもしろくもないワイドショーに視線を戻そうとした。その途中で鋼は光明を見つけた。
「あんた、本好きなのか」
部屋の奥にある本棚には、大きな本がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「ええ……まぁ……」
「ドラゴンライダーシリーズだ」
クリストファー・パオリーニの傑作ファンタジーだが、本も物語もかなり分厚い四部作だ。ハリー・ポッターほどとっつきやすいとは言えないだろう。
「女が読むにはけっこう血生臭い――いや、なんでもない」
こういうことを言うと、絶対に泉里は怒る。言った後で気付き、鋼はぱっと口を閉じた。
当然、カチンときた泉里は言い返す。
「女性だってファンタジー好きな人はいます!鋼さんこそ、文芸作品に縁がある人とは思いませんでした!」
泉里は鼻先をつん、と天井に向けた。その表情に見とれないように気をつけながら、鋼は泉里の横顔をじっと見ていた。
「オレの知り合いに、本が大好きなやつがいてな。暇なときに、そいつの蔵書を読んでる」
「本に埋もれてる、って人でしたっけ」
「あぁ、本の虫といっていいな」
ザクロのような色がこっちを向き、鋼は泉里と見つめあう形になった。その状態になったのがあまりにも自然だったので、二人とも、顔が近付いていることに気付いていなかった。
「鮫島っていうんだが、よく寝泊りさせてもらってる。このアパートと同じくらいの部屋だが……本が多すぎて足の踏み場が無い。なんで床が抜けないのか、あの部屋の物理法則は歪んでるとオレは思う」
泉里はふふ、と笑った。
「それ、もしかして神様にお願いしたんじゃないですか?床が抜けませんように、って」
「ハハハ、ある意味惜しいな。でも、あんたの読み通り、あいつは本を読むために願いを使ってる――あいつは、あらゆる言語を、超高速で読み取る力をもらってるんだ」
「ふうん」
「おかげで読む速度は人智を超え、どんな言語でも理解できる。面白いのは、読むことに関してだけ、ってところだ。書いてある文章にしか、この願いは適用されない。英語だろうがドイツ語だろうが中国語だろうが、なんだって一瞬で読めちまうのに、外国語で話しかけられても、一つもわかりゃしない。話すのも書くのも、日本語オンリーだ」
「うふふ……そうなんですね。不思議……何でも読めちゃうのに、喋れないなんて」
「だよなあ!どうせなら、言語の壁を超える、とか願えばいいのに。あいつは本と漫画を読むことしか眼中にねえんだよ」
「そうですね。ふふ……鋼さんはすごいです。願いに関しては、右に出る人はいないんじゃないです――か――」
「いいや、そんなことは――ない――」
夢中で話していた二人は、お互いの吐息がかかる所でようやく気が付いた。相手の顔が、もうすぐ目の前まで迫っていることに。
鋼は泉里の瞳に吸い込まれそうだった。部屋に戻ってから、眼鏡を外していたザクロ色の瞳。悪魔のような恐ろしさは鳴りをひそめ、ただただ、魅力的な輝きを放っている。ぷるんとした唇が切なそうに半開きになり、白い歯が少しだけ顔を出している。あれになら、噛みつかれてもいい。よくわからない感情が湧いた。
泉里は鋼の顔立ちに見とれていた。綺麗な、ビー玉みたいな瞳と、シュッとしている眉毛は、いつまで見ていても飽きない。ちょっとくせっ毛になっている黒髪が、シャワーの後で少し湿っているのが、やたらとセクシーだった。日本人にしては高い鼻、あれなら、体中の匂いをかがれてもかまわない。よくわからない感情が湧いた。
〔――界初の長編アニメーション映画といえば、誰もが知るあの名作、白雪姫ですよね〕
〔白雪姫!私のモデル仲間でも知ってる人結構いて……ほら、ディズニー好きの子は特に〕
〔絵本でもありますもんね。眠りに落ちたお姫様が、王子様のキスで目を覚ます。現代でも通用する、普及の名作です〕
いやいや、そんなわけない。鋼はワイドショーのエンタメコーナーに無言で突っ込みを入れた。真っ昼間からなんてもん流しやがる。
いいえ、そんなはずないわ。泉里はワイドショーのエンタメコーナーに、無言の抗議を入れた。お昼から破廉恥だわ、信じられない。
とは言いつつ、二人して古い映画のキスシーンに見入ってしまっていたその時、洗濯終了の音が静寂を切り裂いた。
「「はっ!」」
二人は同時に息を飲み、肩が跳ね、飛び上がった。
「お、終わったみたいですね!私っ、見てきます!」
「お、おう……」
鋼は生えかけの短い髭を、じょりじょりと撫でた。撫でれば撫でるほど、自分が落ち着けているという錯覚に陥っていった。
「ん……しょ……」
辛そうな泉里の声が聞こえ、はっと我に帰った。洗濯物の中には、鋼のコートも入っている。水を吸えば相当な重さになるはずだ。
鋼はすぐさま立ち上がり、脱衣所から出てくる泉里に駆け寄った。両手で抱えている洗濯籠に、手を伸ばす。
「持つよ」
「いえ、大丈夫です。座っててください」
「いや、自分の服くらい自分で乾かすって」
「大丈夫ですって……!」
「いいんだ!オレの服――」
親切の押し付け合いをした結果、二人で洗濯籠の小さな持ち手を奪い合う形となり、それは必然、鋼の大きな手と、泉里の小さな手が触れ合うという結末をもたらした。
「あっ!」
泉里はびっくりして手を引っ込めた。電撃が走ったかと思った。洗濯籠は真下に落ち、あわれ鋼の右足に直撃した。
「あぅ……った……!」
痛すぎて声にならない。鋼は息がつまり、右足を抱えてぴょんぴょん跳ねた。
「あっ、ごめんなさい……ごめ……!」
怯えるウサギのように飛び回る鋼を、泉里は両手で受け止めた。このまま放っておいたら、転げてしまうかと思ったのだ。
失敗だったのは、二人の大人が立つには、ここの廊下が狭すぎたことだ。鋼を支えるだけのつもりだったのに、泉里の方から抱き着くような恰好になってしまった。背中は壁に押し付けられており、前にも後ろにも逃げ場がない。
「あぁ……っおう……」
今まで感じたことのない柔らかさに、鋼の思考は停止寸前だった。
「あー……えっ、と……」
今まで感じたことのないたくましさに、泉里の頭は爆発しそうだった。
二人して固まったまま、ひと時見つめあった。
「……ぷっ」
こらえきれなくなって、泉里は吹き出した。メルヘンチックな空気が、自分には不似合い過ぎた。なんで、忌み嫌っていた探偵と、洗濯物の取り合いをしているのだろう。
「……っはは……なんだよ……」
鋼は右足をついて、自分の腕に巻き付いている泉里の手を優しく下ろしてやった。相変わらず体は密着したままだが、息詰まった感覚は無くなっていた。
「あはは……だって……なぁに?こんなところで。足、痛いです?」
「いてえよ!ははは!あ~あ、オレの服が!」
鋼も大声で笑った。
狭いアパートの中は、二人の笑い声で溢れかえった。