第五章 新規の依頼
サイモンは不機嫌だった。
なにせ、ここ三週間の間、生業としている人身売買がうまくいっていないからだ。決して、この悪臭漂う廃倉庫が原因ではない。
だから今日も、短い金髪を怒らせ、細く切れた青い目を怒らせ、死人のような白い肌を怒らせていた。
「おいペッグ、また失敗か?」
のこのこと帰ってきた部下に、サイモンはため息をついた。ペッグの後ろの方には、さらに八人の部下がアホ面をひっさげて待機している。どいつもこいつも、使い物にならない。
「……」
ペッグは無口な男で、長年付き合いのあるサイモンでさえ、まともに声を聞いたことがない。確かなことは、この男が、腕っぷしだけならサイモンに負けず劣らず強いということだ。
がっちりした二の腕、胸筋……足先に至るまで、筋肉の塊だ。サイモンよりも長めの金髪は逆立ってツンツンしており、太い顎がフランケンシュタインのようだ。それでいて、緑色の目がどことなく優しさを感じさせるのが、こいつの厄介なところだとサイモンは思っていた。大抵の人間は、この目に騙される。
「はぁ……」
言うことが無くなり、サイモンはため息をついた。
廃倉庫には、錆びついた重機や役目を終えたコンテナが大量に置いてある。フォークリフトが四台と巨大コンテナが六つ、その上に小さなコンテナが八つだ。
そのうちの三つのコンテナには、既に商品が入っている。サイモンはその三つの壁をガンガンと叩き、中身が腐っていないか確認した。息を飲む声や悲鳴が聞こえ、鮮度が良好であることが示された。
「いいか、ジェレミーのとこはひと月で十四人あげた。十四だぞ。俺たちが半年かかってやってきた人数を超えやがった。それなのに……俺たちは、三人ぽっち」
ペッグは緑色の目をぎょろりと動かした。眼球の裏まで筋肉で埋まってそうだな、とサイモンは思った。
「こっちに来てからだ。この不調は……原因を探れ……!原因を……!」
イライラを押さえる時は決まって煙草だ。日本に来て一つだけよかったことは、うまい煙草があるということだ。
「ピース……平和すぎる。なあ……俺たちの商売まで平和に終わっちまったら、何の意味もねえぞ!」
サイモンは平和の叫びをあげ、巨大なコンテナを、フォークリフトも何も使わずに持ち上げた。害悪な煙で肺を満たし、ペッグの方に投げつけた。
巨大な音が廃倉庫の壁を揺らし、天井から無数の埃が落ちてきた。コンテナはペッグの真横で跳ね、後ろで待機していた男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……女だ」
ペッグはコンテナの轟音に身じろぎもせず、突然、貫禄のある声で喋った。サイモンはピースを噛みつぶし、久しぶりの声に聴き返した。
「なんだと?」
「女だ」
「どういうことだ。女とは」
「決まって必ず、女がいる」
「職場にか」
「そうだ」
ペッグの話は要領を得ない。普段喋らないせいか、順序立てて説明するということに慣れていないようだ。
サイモンは煙草に火をつけ、自分を落ち着かせるように一息吸い込んだ。
「はぁ……それは、いつも同じ女なのか?」
吸い込んだ煙を肺の先端まで押し込み、廃倉庫の窓に吐き掛けた。
「わからない」
サイモンは目の前の窓ガラスをぶち破りたい衝動と戦わなければならなかった。破壊衝動とイライラを必死に押さえつけ、声を震わせて言った。
「なら探れ。どこのどいつか、突き止めるんだ……!」
思いっきり窓ガラスを叩いたが、サイモン程度の力ではビクともしなかった。
鋼がストーカー疑惑をかけられて三週間。季節はいよいよ冬に差し掛かり、肌寒くない日を探すのは、非常に困難になってきた。
「よう」
重たい扉を開いた鋼。髭をそり、さっぱりとしている。この扉は、いつも世話になっている鮫島邸の玄関だ。
挨拶をしても返事がこない。それもそのはず、うず高く積まれた漫画本のせいで、鋼の言葉が全て跳ね返ってくるのだ。
「入るぞ」
どうせ聞こえていないんだ。適当に呟いて、鋼は中に入った。
鮫島邸には、靴を脱ぎ散らかすスペースすらない。鋼は靴をひっくり返し、手近な本の山の頂上に乱暴に置いた。その衝撃で山が崩れ、鋼の靴は本の海に飲まれた。
「おいぃ!また崩しただろ!」
居間と台所の間にある山から巨体を覗かせ、鮫島は吠えた。
鋼は背後をチラリと振り返り、肩をすくめてみせた。オレの靴だって餌食になったのに、ちょっとは掃除したらどうだ。とは、口が裂けても言えない。
代わりに、右手に持っていた紙袋を掲げた。
「いつも世話になってる鮫島君。今日は、感謝の気持ちを持ってきた」
「む」
窮屈そうな眼鏡の奥で、鮫島の目がギラリと光った。品定めするように、小さな紙袋をジロジロ見ている。
「新型のキンドルペーパーホワイトだ。しかも32GBモデル!欲しかったろう?さらにアマゾンギフト券一万円付き。これで約一年、アンリミテッドに登録できる!」
鮫島の元までは、漫画が邪魔でたどり着けない。鋼はキンドルの箱を取り出すと、つま先立ちになり、体を目いっぱい伸ばして差し出した。
鮫島も目いっぱい手を伸ばしたが、本が邪魔で届かない。しばらくの間、小さなアパートの中で、二人の男は必死こいて手を伸ばし続けた。
鋼の手がぷるぷると震え、鮫島の手が八回空を切った時、ようやくその時は訪れた。鮫島はたどりついたキンドルをひったくるように取り、しげしげと眺めた。鋼はアマゾンギフト券も同じように差し出し、鮫島はまたもやひったくるように受け取った。
数秒の間、鮫島は嬉しそうによだれをたらしていた。しかし、すぐに緊張した面持ちになる。
「なんだこれは。買収か?何かの始まりか?」
「いや、いつも世話になってたからな。羽振りのいい時くらい大還元セールだ。じゃっ」
鋼は右手をパッと開き、その場で回れ右した。漫画の海から靴を救助し、玄関を出てから足にはめた。
扉が閉じてもなお、鮫島はぽかんと口を開けていた。
「マスター、スコッチ」
「はいはい」
今日もダンディなマスターは、ドロリとした茶色の液体をグラスに注ぎ、カウンターに滑らせた。
鋼はグラスを手に取り、香りを楽しむことなく口に含んだ。体を温めなければ、鼻先についた霜が取れない。
「プレゼントは、うまくいったの?」
新しいグラスを磨きながら、マスターは聞いた。
「あぁ――」
グラスを掲げ、おかわりをねだりながら、鋼は答えた。
「ちゃんと渡してきたよ」
「そっか」
磨き終えたグラスを置き、スコッチの瓶を手に持ち、マスターはニヤッとした。
「せっかく、真面目に働いて稼いだんだもんねぇ。喜んでくれるといいね」
茶色の液体がグラスの半分ほどまで注がれるのを、鋼はむずがゆい思いで見ていた。
「あいつは不愛想だからな。真相は闇の中さ」
グラスを傾け、オレンジの間接光でスコッチを照らした。粘り気のある水面をひとしきり眺め、ぐいっと煽る。
「新しい依頼は?」
「来てるよ。三件ほど」
あの日以来、新道を経由して、警察から依頼が届くようになった。
新道曰く、
『仕事に追われていれば、彼女のことを考えなくて済むでしょ』
とのことだ。余計なお世話だと思ったし、結局、新道はオレの話を信用してなかったのかと腹も立ったが、これが案外、ちゃんとした金になる。公的機関からの仕事なので、支払いが滞ることもない。
マスターはスコッチを棚に戻し、カウンターの下に置いてあるバインダーを取り出した。警察からくる依頼は秘匿案件が多く、元々備え付けてあった一般用バインダーとは別にしてあるのだ。
「えー、中央署から、人さらい関係の調査と、スリの連続発生に絡んだ調査。それと、南署から逮捕予定の被疑者の行動確認が取れない、って」
「刑事を撒けるように願ってんのかもな。回避できる方法を探ってくる。人さらいの方はどうだろうな。どこまで力になれるか……まぁ、スリの話だけでも聞きにいかねえと……」
「南署が先かい?連絡はしておくよ」
「あぁ、よろしく」
鋼は席を立ち、トレンチコートから財布を取り出した。
当たり前のようにカウンターを叩き、鋼はタルコナを後にした。
カウンターの上には、千円札が置かれていた。
鋼は握り飯をはみながら、大きな二階建ての家を見つめていた。ちらりと腕時計を見る。すでに六時間。ここまでの経路は――自宅兼事務所――黒塗りのセダンで七キロ走り――郊外の牡蠣小屋――また自宅兼事務所だ。
男の顔写真をもらい、あらかじめ願いの内容は読んでいる。今日はその確認だ。実際に確認をしないと、刑事は納得しない。
「えぇ、えぇ、ですから、覆面パトカーに近づかれないという願いをしてるんです。いつしたのかまでは分かりません……。行動確認をするなら、レンタカーを借りた方がいいかと――えぇ、えぇ……そうです。いつもの口座に。では」
南署の刑事に電話し、鋼は中央署へ向かった。玄関をくぐり、受付にいる警察官に挨拶する。
「入川鋼です。願い探偵」
「あぁ、どうぞ、二階へ」
受付にいた警察官はにっこりと笑い、鋼を刑事課へいざなった。
中央署はかなり古い建物だ。新道のいた交番と同じく、警察には中々建て替えの予算が下りないらしい。古すぎる造りを補うため、窓の外に耐震強化のための鋼鉄の柱が追加されているくらいだ。
茶色にすすけた階段を上っていると、途中で非番の新道とすれ違った。
「おーっ!鋼君!今日も仕事?」
「おかげさまで」
鋼はイーっと白い歯を見せ、唸るような、笑うような、複雑な表情を見せた。
「精が出るねえ!」
新道は満足そうに階段を下りていった。
鋼は新道の後姿をじろりと見て、一歩踏み出す前にもう一度見て、首をかしげて歩き出した。
木枠とすりガラスで区切られた刑事課に近づき、これまた木製のドアをノックをし、中に入った。
鋼の前には、三人の男の写真と、防犯カメラ映像を流すパソコンの画面がある。
「その三人が容疑者なんだが……」
刑事の説明を聞きつつ、三人の男の顔を見比べつつ、防犯カメラの映像を見る。なかなかに忙しい。
「ここ一週間で、スリが連続多発的に発生してる。この付近で十一件。うち六件の現場に防犯カメラがあり、その三人は、六つ全部に映ってる」
「よく調べましたね」
「あぁ――もう――帰りたいよ」
大あくびをかます刑事は、目の下に大きなクマをこさえている。なるほど、徹夜のしらみつぶし、すなわち最悪という名の大海原を越えてやってきたのだ。
「映像が映ってるなら、何か証拠があるんじゃないですか?」
目の前に映し出されているのは、客でにぎわう休日のパチンコ店だ。休日でなくとも客でにぎわっているが。
パチンコ台の一つに座っているのが、今回の被害者だと言う。
「それが、何も映らない。三人とも、被害者の傍を通るけど、それだけなんだ」
「なるほど……もしかしたら、何か特殊な願いでもしている……ってことですか」
「あぁ……」
鋼は三枚の写真をじっくりと眺めた。一枚ずつ、じっくりと。
本人と直接対峙した方が、願いを読み取りやすい。それは鋼が、その人の見た目だけでなく、雰囲気や立ち振る舞いなど、様々な要素をくみ取るからだ。
顔写真さえあれば、ある程度のところまでは読みとれるのだが……。
「うーむ……それぞれ名前とか、色んなあれそれは?」
「一人目は大迫康則。窃盗の前科が十四件ある、生粋の盗人だ。ただ、こいつの本業は空き巣で、スリは一度もしたことが無い。二人目は児玉慎之介。こいつはスリだ。二年前に東京で捕まってる。その時は初犯で、罰金ですんでる。三人目は杠京司。まー、こいつはないと思うけどな……前科前歴無し。補導歴さえなかった」
鋼は写真を順番に見回した。一人目は初老、二人目は三十前後に見えた。二人とも生意気な目つきで、カメラを睨みつけている。
三人目だけが、真正面から取った写真ではなかった。警察に捕まったことが無いのだから、当然被疑者写真もないということだ。杠の写真は、どこかのコンビニの出入り口の、防犯カメラ映像を抜き出したものだ。
その、杠の写真を見て、鋼は訝しんだ。
「三人とも、住所だとか仕事先とかは?」
刑事は頷き、ドッチファイルにはせてある大量の書類をめくった。パラパラという音が心地よい。
「大迫と児玉は把握してる。杠はまだだ。真人間ほど情報が少ない」
「じゃあオレが調べます。後の二人は、そちらで」
まったくのノーマークだったのだろう、刑事の顔から、一瞬で眠気が消え去った。
「え――?じゃあまさか、こいつが怪しいって――?」
「確証はありません。調べてくるんで、また連絡します」
刑事のプライドを逆なでしないよう、低姿勢に努めて部屋を出た。木製の扉をくぐり、茶色にすすけた階段を駆け下りた。
「えぇ~?困るよハガちゃぁん……個人情報中の個人情報じゃあん、それ……」
ハゲかかった頭を、丸刈りで誤魔化したコンビニオーナー、和達大蔵は唸っていた。
「正義のためだ、オヤジ。誰のおかげで、ここら一体のコンビニ覇権争いに勝てたと思ってんの」
和達の経営しているコンビニの一つに、鋼は乗り込んでいた。
何を隠そう、杠の写真は、和達の経営しているコンビニで撮られたものだった。おまけに、コンビニの制服を着ているときたもんだ。
「えっとねぇ、向かいの通りの店舗で雇ってる子……だと思うよ。ちょっと待ってね……」
「なんだ、従業員の顔くらい覚えとけって」
「ハガちゃんのおかげで、十店舗以上持ってるからさ。アルバイトの子まで全員覚えられないよ」
マウスをカチカチ言わせながら、和達はぶーぶー言った。各店舗に従業員は――正社員、アルバイト含め――七、八人以上。街の中心部に近づけば近づくほど、その数は増えていく。それが十店舗少々あるので、軽く見積もって百人ほどだ。全部を覚え切れるほど、和達は若くない。
「あーうー……あっ、この子かな、ほら」
和達の示したパソコンの画面を見て、鋼は手元の写真を確認した。
そして頷き、素早くメモを取った。
赤く染まったモミジが、運命のように枯れていく。
鋼がやってきたのは、のどかな田舎町だった。山奥にあり、人口は数百人。バスも通っておらず、高齢者は乗り合いタクシーを利用するんだとか。
ちなみに、ここにたどりつくまでにはかなりの時間と手間を要した。JRとバスを乗り継ぎ、田舎町の一歩手前まで、一時間四十六分かけてきた。そこからさらにタクシーを使い、乗車賃4850円を支払った。領収書をもらうのだけは、死んでも忘れまいと思った。必要経費だ。あとで警察に請求してやる。
人口の少ない田舎に行けば行くほど、よそ者の存在を過敏に感じ取る。タクシーを降りた瞬間、鋼の後頭部と左肩と右足に、突き刺さるような視線が浴びせられていた。
だがしかし、そこは願い探偵入川鋼。どんな逆境でも乗り越えてきた――泉里の件は特例として除外だ――誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない男だった。人懐っこい人格で町にとけこみ、あっという間に杠の実家を特定した。
「京司君の家はあの向こうじゃ。杠さんちは八軒くらいあるけえの。一番山の方よ」
「ありがとう、入川鋼だ。入川鋼をよろしく」
「だー!はっはっ!」
入れ歯を吹き飛ばしながら笑う爺さんと別れ、大きな山のふもとへ向かった。
どれだけ面白い話をしていたのかは、割愛しておく。
タクシーを降りてものの三十分で、鋼は〝杠〟の表札を眺めるに至った。純和風の日本家屋だ。重たそうな瓦で、若干傾いてはいたが。
「どうも、私、入川鋼と申します」
玄関先で、鋼はうやうやしくお辞儀した。そこには、驚いたように目を見開く、五十手前の女性がいた。
鋼はいつも通りトレンチコートと格闘して、自己紹介カードと化した名刺を取り出した。
「願い探偵です」