第四章 警官
「ちょいちょいちょいちょいちょいちょい!」
今週使うはずだった「ち」と「ょ」と「い」を全部使って、鋼は泉里を追い続けた。
鋼の言葉に機嫌を悪くした泉里は、街につくより前にモノレールを降りていた。この駅は地下に潜っており、地上のJRの駅と隣接している。駅同士をつなぐ専用の階段、通路があり、車道に出ることなく乗り換えが可能なため、通勤通学の要所となっている。
泉里はスピードの遅いエスカレーターを嫌い、何かにせかされるように階段を駆け上った。
「ちょいちょいちょいちょいちょいちょい!」
来週分の「ち」と「ょ」と「い」も総動員して、鋼はピッタリ後ろをついていく。
泉里はノンストップで歩き続け、高架に繋がる階段を駆け上り、九十度右へ方向転換した。そこには、JRの駅まで続く、歩道橋のように長く伸びた通路がある。
「何をそんなに急ぐんだ……?」
自分が避けられているからだ、と認めたくない入川鋼だ。
ぜえぜえ言いながら追いかけていると、通路の中ほどに、地縛霊のようにへばりついている女の子を見つけた。
「……あ?」
とんでもなく暗いオーラだ。服装も、紫のセーターに黒くて長いスカート、かなり暗いイメージだ。じっとりと眼下の車道を見つめているわりに、瞳には動きも光も無い。極めつけは、かなえた願いが――
「まさか、飛び降りようってんじゃないだろうな」
女は落下防止の手すりをぎゅっと握りしめている。鋼がどうするべきか悩んでいると、なんと泉里が、暗い女にツカツカと近づいて行った。相手の顔を覗き込むように、優しい声で話しかけている。
「あの」
うつろな表情だった女は、泉里の天使のような声に、ゆっくりと振り向いた。
「え……私?」
「そうです。ごめんなさい、急にお声かけして」
「いいえ、そんな、私なんか……毎日、こんなところで……」
女はうじうじと何かを言っている。鋼の位置からはよく聞き取れないが、どうやら、自分の生まれや運の無さを愚痴っているようだ。ああやって暗くなるばっかりの人間が、鋼は大っ嫌いだった。イライラして、つい、後ろから声をかけてしまう。
「あんた――」
「あの」
鋼が無礼な言葉を言わないうちに、泉里は声を上げた。
「この近くに、交番ってありませんか?」
「え?」
「ご存知でしたら、教えていただけませんか?私、困ってて……」
女は虚ろな目をさまよわせ、声を出そうと何度か喘いだ。最終的には声を出すことを諦め、セーターの裾から覗かせた人差し指で、泉里が来たのとは逆方向を指さした。
「あっちの方に……たしか……」
泉里が振り向くので、鋼もそれにならって振り向いた。女が指さした方向には、天下のファーストフード店や、激安ファミリーレストランが見える。その奥に、ということだろうか、件の交番は。
かなり不十分な説明だったが、泉里は微笑んだ。女の両手をはしっと握りしめ、ザクロ色の瞳を輝かせた。
「ありがとう!」
女は度肝を抜かれ、しばらく、呆けたように自分の両手を見つめていた。
女の後ろでエレベーターの扉がチン、という音を鳴らして開いても、そこから出てきたがっちりめの外国人が、手を取り合う女二人を驚いたように見つめても、その外国人がポケットをまさぐり(忘れ物でもしたのだろうか)、エレベーター横の階段を下りていっても、女は微動だにしなかった。
「あー……えー……」
どうしていいかわからず、鋼は高架下に目線を移した。さっきの外国人は、階段下に止めてあった黒いバンに乗り、どこかへ走り去っていく。どうやら、ただ単に迎えが来たってことらしい。
「どうして……私なんかに……他の人に聞けば……」
長い氷河期だった。ようやく凍結を解除した女は、虚ろな目で泉里を見つめた。
「優しそうなお顔だったから、きっと教えてくれると思って」
「え……?」
「あなたのおかげで助かりました。ありがとう!」
女に手を振り、泉里は颯爽と歩いて行った。女の瞳に光が宿ったのを、鋼は見逃さなかった。
なんとなく、泉里の行動を理解し始めていた。
「あ……」
泉里の後姿を目で追い、女は何かを言いかけた。しかし泉里は、既に下りの階段にさしかかっている。
結局女は、胸の前で両手を握りしめ、泉里の背中をずっと見つめていた。
感謝の念を込めた無言というものを、鋼は生まれて初めて見た。あまりに珍しかったので、根が生えたように立ち尽くし、見入っていた。
人一倍回転の速い鋼の脳みそを使わなくとも、明らかだった。
どう見ても、自殺しようとしていた女を、泉里が思いとどまらせた。
そして、泉里が人を救うのは、これが初めてではない。
これは果たして偶然か?鋼は生まれてこの方、死に瀕した人間を一日の間に何人も救った、という経験が無い。救うどころか、死に瀕した人間を見たことすら稀だ。
ここに来て、泉里の願いがなんなのか、急速にまとまりつつあった。読めないのなら、こうやって、動かぬ事実から導き出すしかない。
「……うわっと!ちょっと!待てって!」
考え込んでいるうちに、泉里はかなり遠くまで行ってしまった。鋼はなんとか自らの本分を思い出し、大跳躍を見せた。世界記録級の幅跳びで階段に足をかけ、ほとんど転ぶように降りていった。
「おい!おい、今の――」
「もう、今度はなんですか?」
前を行く泉里の肩に手をかけたが、泉里は心底嫌そうに振り払った。
「言っておきますけど、観察ならお断りです。ついてこないでください」
「いや、いや、そうじゃない。あんた、じゃない、興梠さんの願い――ちょっとだけ――わかった気がする」
鋼の言葉に、泉里は立ち止まった。目の前には大きな交差点がある。横断歩道が設けられておらず、反対側に渡るには、地下道を通るしかない。
「あんたの願いは、人を死から救う、違うか?」
確信というには、それはあまりにも拙いものだった。鋼の言葉は、発した本人にもわかるくらい震えていてた。
泉里は無言で歩き出し、地下道へのスロープを進んで行った。
鋼はすぐさま食らいつき、必死に自分の考察を並べた。
「さっきの女がかなえた願いは、〝リストカットをしないように〟だ。深い理由なんざ知ったこっちゃないが、あの女はたぶん、人一倍強い自殺願望があって、なんとかそれを回避しようとしてたんだ。だが、結局死にたい気持ちは抑えきれず、リストカット以外の方法を探していた。そこを、あんたが止めた!」
人通りの少ない地下道に、泉里の足音がコツコツと響く。鋼のバタバタという音が、それをかき消すようについて行く。
「だったら朝の女子高生はどうだ?あんたが声をかけなきゃ、あの狭い道で、あの黒いバンに轢かれて死んでいた!違うか?」
泉里は何も答えない。もう、鋼の声を聞くだけでイライラが止まらないのだろう。怒ったフグのように頬を膨らませ、昇りのスロープを早歩きで通った。
「そうだ――轢かれて――昨日!ゲームに夢中だったサラリーマンをあんたは助けてた!あんたは、二日で三人も救ってる!この行動が証明してる!」
自分に言い聞かせるように、鋼は声を張り上げた。
願いはわかる。
自分の中にあるアイデンティティを失わないために、必死だった。それ故、泉里がどこに入ろうとしているのか、全く気付かなかった。
「そんな簡単に言わないで。私のこと、何も知らないくせに」
交番の扉に手をかけ、泉里はきつい口調で言った。
また挫折を味わうことになろうとは。鋼はショックで目の前が真っ暗になった。
「何度も言ってるが、オレはストーカーじゃない。OK?」
交番の応接室で、鋼はイライラしていた。なんで自分が四十代後半の警部補に事情聴取されなくちゃならないのか、本気でわかっていなかった。
「でもねぇ、鋼君。昨日の夜に出会った女性を、何度も追いかけちゃってるんでしょー?」
新道という警察官は、くたびれた帽子を両手でもてあそび、あくびをかみ殺しながら言った。
「だからそれは、あいつの願いが読めないからで――」
「『来るな』と言われたのに、何度も追い続けてるんでしょー?これはストーカー、なっちゃうよー」
「オレの話を聞け!」
来客用の机の上には、鋼の名刺と、鋼から聞いた話をまとめたメモが置いてある。
それらを見ながら、新道は短く整えた黒髪をなでつけた。
「信じてあげたいよ、おじさんも……。鋼君、近くに親族は?誰か親しい人とか、いないの?」
「なんでそんなことを聞く」
ぶすっと天井を見上げ、鋼は足を組んだ。なんとなく右足を上にしたい気分だった。
「いやー、今日はさ、家まで送ってってあげるから」
新道はひょうひょうと言っているが、善意だけが理由ではあるまい。鋼は抜け目なく耳をそばだて、外のカウンターに意識を向けた。
ドアの隙間から、若い警官と話しをしている泉里が見える。ザクロ色の瞳をせわしなく動かし、警官が提示している文書を読んでいる。
「警察としては、口頭注意をしたり、裁判所から接近禁止の命令を出せるようにすることもできます。こちらは法的な拘束力もあって――」
「そこまでは大丈夫です。もう近づかないように、注意していただけますか」
泉里はどうやら、本気でストーカーの届け出をだすらしい。つまり警察は、鋼を好意で送るのではない。泉里の後をつけられないよう、無理やり送り返すということだ。気に入らないもんだ。鋼は足を組みなおし、ドアの隙間から泉里を睨みつけた。
鋼の視線を感じ取ったのか、泉里もドアの隙間に目を向けた。
お互いの視線が交錯し、奇妙な時間が流れた。鋼は泉里のしかめっ面をこれでもかと見つめたが、結局願いを読み取ることはできなかった。
「新道警部補―、こちらは帰っていただいても――」
「んー、いいよいいよ、また何かあったら、こっちから連絡するから」
「はい、ありがとうございました」
泉里は新道と若い警官にお辞儀をすると、踵を返して出て行った。
「鋼君」
新道はコガネムシのような目で、得体のしれない探偵を慎重に観察していた。そして、聞き分けのない息子をあやすように、どうしようもなくため息をついた。
「君の話、おじさんは信じてあげたい。でも、住所不定で無職。刑事さんを納得させるにはちょっと弱いんだよ。君の経歴とか、色んなことが」
「無職じゃない。探偵だ。願い探偵」
「探偵事業の登録、してないんでしょー?もしかして鋼君、もぐりー?」
新道の口調は優しかったが、幾分かの脅しを含んでいた。そこには一切の揺らぎが無く、鋼はもろ手を挙げて降参するしかなかった。
「はあ……わかったよ」
大きな道をグングン進む、小さなパトカー。新道のハンドルさばきを、鋼は後部座席で感じていた。
「ごめんねえ、ミニパトだから、クラウンほど乗り心地よくないでしょ。で、どこに行ったらいい?」
「……タルコナってバーに。知り合いのバーテンがいる」
交番で押し問答をしているうちに、気付けば夜中だ。流れていく街の灯りを見て、鋼はどこか寂しい気持ちに浸っていた。
「まだ真っ直ぐかい?」
「あぁ」
窓枠に肘をつき、鋼は相槌を打った。ついでにため息もついた。
「やっぱり不満?彼女の後をつけるな、ってこと」
「不満だ」
「それは――彼女のことが好きだからかい?」
「違う」
もうストーカー扱いはごめんだ。鋼はぐるりと目を回し、新道の願いを読み取った。さっきから、ミニパトは一度も停車していない。タルコナまでは車で三十分ほどかかる。それだけあれば、道中に必ずあれがあるはずだ。なのに一度も停車していない。
「〝絶対に信号に引っかからない〟そんなくだらない願いをかなえた警官に注意されるほど、屈辱的なことはない」
見事に言い当てられた新道は、ミラー越しに驚きを覗かせた。後部座席でぶすっとしている鋼を見て、嬉しそうに笑った。
「へえぇ、すごいね。本当にわかっちゃうんだ」
「みんなそう言う。あの女以外は」
「なるほどねぇ。すごい力だ。確かにねぇ」
「オレにとっては普通だ」
鋼はイライラして、唇を思いっきり噛んだ。
それっきり、車の中には沈黙が流れた。
ミニパトは相変わらず信号にかからず、小さな車体には似つかわしくないスピードでぐんぐん進む。
とは言っても、残りは十分以上ある。沈黙を嫌う新道が、口を開いた。
「おじさんさあ、赤信号が嫌いだったんだ。なんだか、時間を無駄にしてる気がしてね。たった数分の差かもしれないけど、何十年もある人生の間、それを積み重ねていったら、いったいどれだけの時間になるのかな、って。だから神様にお願いして、絶対に信号待ちしなくていいようにしてもらった」
鋼は話す気分ではなかった。五十手間のジジイの身の上話など、これっぽっちも興味が無い。聞こえなかったふりをして、もう一度目玉を回した。
新道はその様子をミラー越しに見ていたが、気にせず話をつづけた。
「若気の至りってやつさ。今思うと、もったいなかったかなぁ……待てない性格だったからなぁ、あの頃の自分は責められないよ。あ、でもね、警察官的にはすごくいいんだよ、これ。自分の進む道が絶対青になるからさ。ギリギリで突っ込んでくる信号無視が増えるんだ。おかげさまで、切符には困らなかったよ」
クックッ、と、人のよさそうな声で新道は笑った。新道的には、忘年会での鉄板ネタなのだが、いかんせん鋼は不機嫌だ。
新道はしばらく一人で笑い、ミラー越しに鋼の顔を確認した。
「鋼君は、後悔って、したことある?」
鋼はやっぱり、話す気になれない。三度目の目玉回しをして、無言の抗議を示した。
「やっぱりさ、願いって一つしかかなえられないから……おじさん、今では後悔してるんだよね。信号なんて待てばよかった。あの時こうしていれば、いや、ああやってれば……ってね」
「そりゃそうだろう。誰が聞いたってくだらない」
「願いがたった一つしかかなえられないように、人生もたった一度しかない。ストーカーの疑惑をかけられて、台無しにするなんてもったいないよ。鋼君はいい子だからさ、後悔の無いように生きて欲しい」
タルコナの前にミニパトをつけ、新道は後部座席に振り返った。
「フン、お世辞ならいらない」
「お世辞じゃないよ。だって鋼君、いい目をしてるもの。その目は、女の子の後をつけよう、って人がする目じゃない」
その顔は、真剣そのものだった。
なんでそんな顔をするんだ。鋼は口の中でつぶやいた。
ついさっきまで、泉里の追跡を邪魔する警察を目障りに感じ、強引に送り返そうとする新道をバカにし、うっとおしいとさえ思っていた。
しかし、新道は出会って数時間の鋼のことを、心の底から心配してくれている。
警察官として、人として、まだ若い鋼の将来を、一生懸命考えてくれている。
出会って数時間の人間に対して、どうしてそこまで気を回せるのか。鋼にはわからない感情だったし、ありがた迷惑だった。
「……そうかよ」
「鋼君――」
「わーった!わーったわーった!。あんたの言うことを守るよ。興梠泉里にはもう近づかない。これでいいか?」
これ以上抵抗しても、この警察官は一生諦めない。そう判断した鋼は、潔く身を引くしかなかった。
悔しいが、願いを読めない謎の女は放置するしかない。そうしなければ、この警察官はタルコナの中までついて来るだろう。スコッチをゆっくり嗜むことさえできやしない。
「……うん。おじさん信じてるよ。鋼君」
運転席のヘッドレストの横で、新道は優しく頷いた。息子を見守る父親のような顔だった。
こりゃあ、一刻も早く、しめった心をアルコール消毒しなければ、明日からやっていけない。鋼はそれ以上車中にいることが耐えられなくなり、手早くドアを開けた。
ところが、この警察官、鋼の神経をとことん逆なでしてくる。
新道はまず、にっこりと笑った。そして、拳をそっと差し出した。
「じゃあ……男の約束、ね」
ドアから片方の足を投げ出したところで、鋼は固まった。
「グータッチか?よしてくれ、子供じゃあるまいし」
温かい車内と肌寒い外気の境目にさらされ、股関節を境目に、左足だけが急速に冷やされていく。タルコナはもう目と鼻の先なのに、なんで足止めを食らわなきゃならん?
「難しいことじゃない。男の約束だよ、鋼君。男の――」
「わーった!わーった!やるよ!やるやる!男の約束!ほら!」
鋼はかたくなに動こうとしない右手の指を、左手で一本ずつ折り込んでいった。そしてぶきっちょな拳骨をつくると、新道の拳を殴りつけた。
「あいたたた……さすが、若い子は強いねえ。じゃっ」
手をぷらぷらと揺らしていたが、それでも新道は満足そうだった。
ミニパトはするりと発進した。角の交差点にある信号が、狙いすましたかのように青になった。