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第三章 謎の女

 日本酒をおちょこで二杯、ビールをグラス半分しか飲んでいないのに、鋼の目覚めはなんとも頭が痛かった。

「いてっ!」

 実際に頭が痛いのは、上から落ちてきた漫画本によるところも大きい。落ちてきたのは手塚治虫全しゅ――

「あーっ!」

 太った男特有のくぐもった唸り声。そう、諭吉先生とおさらばした鋼は、結局鮫島の家で寝ることとなっていた。

「気をつけろって言ったのに!なんで落とすんだ!」

 片手にダン・ブラウンの天使と悪魔上巻を持った鮫島が、こちらを指さしていた。しかも翻訳版でなく、原語版だ。

「おはよう鮫島君。それは何かの当てつけかい?」

 なんで今日に限って小説を読んでいやがるんだ。頭が痛い。

 漫画の大海原をクロールで泳ぎ、鋼は脱出した。




「なーんであんなに怒るかね」

 こじゃれたバー、タルコナのカウンターに突っ伏し、鋼は唸っていた。

「彼、好きだもんねぇ、漫画」

 マスターは今日もタキシードをビシッと身に着け、スコッチ用のグラスを磨いていた。

「いや、今日は小説読んでいやがった。天使と悪魔だってよ、しかも原語版」

「ふうん、珍しいこともあるものだねぇ。僕は映画しか見たことないけど……トム・ハンクス、いいよねぇ」

 どろりとした茶色の液体をグラスに注ぎ、マスターはさりげなく差し出した。

 鋼はグラスを手に取り、中身を右左に傾けた。

 茶色……。これにもうちょっと赤みを足せば、あの女の目の色だ。ザクロみたいな……。

「昨日はうまくいったの?」

 傷心の鋼と見て、マスターは優しく声をかけた。古い付き合いなので、だいたいのことは見ただけで分かる。

「いやぁ……しくじった」

「おや、珍しいねぇ。あいにく、新規の依頼は入ってないよ」

 バーに備え付けられているバインダーには、願い探偵への依頼を書き込むことができるようになっている。ここまでの物語を見てわかる通り、鋼はその日暮らしをしているため、明確な拠点がないのだ。マスターに頼んで受付をやってもらい、生計を立てている。

「そっか……なあマスター」

「んー?なあに、そろそろつけを払ってくれる気になった?それとも、ついに、僕のカクテル飲んでくれるの?個人的にはそっちの方が嬉しいかなぁ」

「いや……願いが読めないやつが現れた」

 鋼の告白を、マスターは目をまん丸にして聞き入った。古い付き合いなので、だいたいのことは見ただけでわかると思っていたが、やれどうした、全然わかっていなかった。

「そうなんだ……どこで?」

「依頼現場で。意味がわからねえ」

「ふうん」

 マスターは相槌を打つと、カクテルの準備に入った。愛用のシェイカーに氷を入れると、ピナクルウォッカとドライベルモットを、四:一で。小気味の好いリズムで、シェイカーを振る。

「なんだ、ジェームズボンドか」

「そう、ステアではなく、シェイクで」

 かの有名なカクテルをグラスに注ぎ、最後にオリーブを添えた。マスターはそれをカウンターの上に滑らせ、鋼がもてあそんでいるスコッチの横に並べた。

「映画の話が出たから、ちょっと作ってみたよ」

「いや、いいって、まじいもん」

「心外だなぁ」

 マスターは屈託なく笑った。

 鋼は、スコッチとは違う、透明な液体をじっと見つめてみた。飲む気分になれない。いつものようにスコッチを手に取り、自分の方に引き寄せた。

「鋼君。人間という生き物には、必ず新たな出会いがある」

 シェイカーの手入れをしながら、マスターがおもむろに言った。

「未知との遭遇か」

「それもいい映画だね。最初というものは怖いし、わからない。怖気づいてしまうこともある。でも、いつだって、困難を乗り越え、未知なる世界を開拓してきた。それも人間。いつもそこに、意味を見出してきた」

 シェイカーを置き、タオルを置き、マスターはウォッカマティーニを鋼の方に近づけた。

「この出会いにも、必ず意味はある。おいしいお酒で、気分が高揚する、とかね」

 マスターはパチンとウインクした。ワックスで固めたオールバックが、オレンジの間接光できらりと光った。

「ようこそ、新たな出会いへ」

「新たな、出会い……」

 鋼は、無意識のうちにマスターのセリフを呟いていた。自分で口にすることで、急に、目の前のマティーニが威厳のある飲み物に見えてきた。

 震える声で、その先を言う。

「必ず、意味がある……!」

 息を飲み、立ち上がった。すかさずグラスを傾け、スコッチを一気に飲み干した。

「さんきゅーマスター!行ってくる」

 口を拭い、鋼は飛び出した。新たな翼を授けられたような気分だった。

「鋼くーん!」

 マスターの声が階段まで追いかけてくる。鋼は声を張り上げ、それに応えた。

「つけといてくれ!」

「いや……カクテル……」

 さすが、マスターはズッコケ方までダンディだった。




 大学へ行くため、泉里は朝早くに起きた。スマホのアラームを止めると、顔を洗い、タオルで拭き、眼鏡をかけた。手狭なキッチンに移動すると、トースターに食パンを入れ、レバーを下げた。フライパンに油を引き、冷蔵庫から卵を一つ、流し台の端で優しく叩いた。

 チン、という乾いた音と同時に、小ぶりな目玉焼きが出来上がった。こんがりと焼き目のついたパンにマーガリンを塗り、その上に目玉焼きを落とす。別に温めておいた牛乳に、カップスープの元を溶かせば、温かい朝食の出来上がりだ。昨日は最悪だった。少しでも、心と体を温めなくては。

〔――たしても行方不明です。昨夜、岡山県倉敷警察署に――〕

 なんとなくつけたテレビからは、物騒なニュースが流れてくる。原稿を読むアナウンサーの顔も、どことなく暗い。

〔――相次いでいる行方不明者の増加に、警察庁は――〕

 香ばしい香りのトースターと、ぷるぷるした白身を一口かじり、泉里はじっくりと噛んだ。胸が締め付けられるような感覚にさいなまれ、食事が喉を通らない。

〔――政府は抜本的な対策を――〕

 気分が悪くなり、テレビの電源を切った。行方不明に殺人、強盗、窃盗……なんでも願いがかなうはずなのに、どうして人は犯罪に手を染めるのだろう。泉里には理解できない悪意で、世界は溢れかえっている。そのうち、空気を入れすぎた風船のように、パチンとはじけてしまいそうだ。

「はあ」

 皿とマグを両手に持ち、キッチンへと戻る。蛇口をひねり、冷たい水に両手をさらす。

「いたっ!」

 冷えすぎた指は、時としてひび割れる。人間は土から作られたという話を、泉里は時々、本当なのではないかと勘繰ってしまう。

「もう……」

 右手の人差し指を咥え、ひんやりとした舌先で癒した。

 人差し指を離し、自由になった唇に、今度はブラウンのベージュリップを当てた。大げさな色に塗りたくることはしない。チークとマスカラも、控えめに。

 季節は冬に片足を突っ込んだ秋。泉里はスカートではなく、ぴっちりとしたパンツを選び、薄めのカーディガンを羽織った。最後に、鏡で自分の姿を確認すると、茶枠の眼鏡を鼻の上にかけ、勉強道具が満載の肩掛けカバンを手に取った。

 長い黒髪を肩の上にかけ、反対側の肩にカバンをかけ、泉里はアパートのドアを開いた。


 そして閉じると、ドアの影に鋼が立っていた。


「はっ!」

 悲鳴を上げることさえできない恐怖。探偵とは、ここまでプライベートに踏み込んでくるのか。泉里は口を押さえ、胃が飛び出すのをかろうじて防いだ。

「おはよう興梠泉里さん。入川鋼だ」

 壁も天井もないアパートの外廊下。鋼は朝日に負けない輝かしさで営業スマイルを見せ、片手を上げて握手を求めた。

「信じられない……あなたどこまで……!ていうか、どうやって……!」

「君と同じ大学の学生にちょっとつてがあってね。その人から昨日の先輩に、先輩から君の住所を――無償で依頼を受けると言ったら、すんなり教えてくれたよ」

 やはり、真に恐ろしいのは人の悪意。願いをかなえてなお、人は望み続けるのだ。それも、他人の個人情報を平気で売ってまで。

「こう言っちゃなんだが、あんまりよくない先輩だ。付き合うのはやめた方がいい」

「ええ、そうみたいですね……あなたと同じで!」

 泉里は強烈なビンタを繰り出した。誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない鋼でさえ、かわすことができなかった。

「ぶっ!……てぇ……この!ちょっと待てって!」

 鋼が意識を取り戻したころには、左の頬が晴れ上がり、ズキズキと痛んでいた。おまけに泉里の姿はアパートの階段下に消え、つかつかという足音だけが聞こえていた。最後にひるがえった薄茶色のカーディガンが、脳裏に焼き付いて離れなかった。

「くそ……!」

 トレンチコートをはためかせ、入川鋼は加速した。




 アパートから大学までの道のりはわかっている。枯葉舞う並木道で、鋼は泉里の姿を捉え、食らいついていた。

「頼む、ちょっとだけでいい。時間をくれ。この出会いには何かの理由があるはずなんだ」

 泉里は肩掛けカバンをぎゅっと抱きかかえ、落ち葉を巻き上げながら小走りになった。


 大学に向かうモノレールの中で、鋼は泉里の真隣りに陣取っていた。

「よく考えてくれ、願い探偵だぞ?人の願いを読んで、それを仕事にしてる――」


 モノレールを降りて、改札口。ICカードを持っていない鋼は、切符を取り出すのに手間取ってしまい、すんなり改札をくぐる泉里に距離を離される。

「――それなのに、願いを読み取れない人がいたら、今後の仕事に――ねえ、ちょっと、待って!」


 駅から大学までの幅広な歩道――を通るかと思われたが、泉里は大学とは反対方向に歩いて行く。虚を突かれた形になり、鋼は大慌てで回れ右をした。

「そっちの都合も、もちろん分かってる。大学生って忙しいよな。勉強にサークル活動に、やることいっぱいだ――で、なんでこっち?大学はあっち」

 泉里は鋼の質問を無視して、思いっきり駆け出した。鋼もすぐさまギアを上げる。


 泉里は大学の裏門の方へ近づいて行った。

 なるほど、そっちから入るのか、と鋼が勘ぐるも、泉里は裏門を素通りし、近くの公園まで走って行った。

「ふう、いいね。朝からランニングね、オレもよくするよ」

 肌寒い季節になって来たとは言え、そこそこの距離をそこそこのスピードで走れば、体に熱がたまる。鋼は両手でコートの端を持ち、バサバサと扇いで涼んだ。

 泉里は公園の入り口付近で立ち止まると、何かを探すようにキョロキョロとし始めた。

「どっちに行こうか、迷ってるってか?」

 背中の蒸れと戦いながら、鋼はため息をついた。こちとら男だ。その辺の女子大生に、体力で劣ることは無い。どこまででもござれだ。

「あっ」

 突然、泉里が声を上げた。公園から百メートルほどのところに、自転車で通勤している女子高生を見つけたのだ。

「あぁ?」

 何故だかわからないが、泉里が女子高生めがけて駆けていく。その直後、公園の前を大きな真っ黒のワゴンが通り抜けた。

 一応後を追ってみたが、鋼が目にしたものは、特段騒ぎ立てるようなことではなかった。

「あの、ハンカチ落としてませんか?」

 どうやら泉里は、女子高生がハンカチを落とした瞬間を目撃していたらしい。

「え?あぁ……」

 女子高生は自転車を降り、泉里の方に振り向いた。車道の幅が狭いためか、真っ黒のワゴン車はゆっくりとしたスピードで二人の脇をすり抜けていく。

「あ……いえ、これ、私のじゃないです……」

「え?そうだったの?ごめんなさい。私、勘違いしちゃって」

「おいおい大丈夫かよ」

 まさか、地面に落ちたハンカチを勝手に拾って、持ち主を邪推したんじゃないだろうな。余計なお世話だとは思いつつも、鋼はつぶやいた。


 その後も泉里の逃避行は続いたが、授業をサボるわけにもいかず、結局は大学に入るしかなかった。さて、大学の構内、というか講義まであと五分の教場内。鋼は泉里の真隣りに陣取っていた。

「――これは放置できない問題なんだ。あんた――興梠さんみたいな人が今後現れた時のために、対策を練らなくちゃいけない。頼むよ、悪いようにはしない」

 鋼の反対側には、泉里の友人が座っている。女子大の教場にまで侵入してきた男と、その男に熱心に話しかけられているというのに、完全無視を決め込む泉里。異様な光景を目の当たりにし、口が半開きになっている。

「み、泉里……お知り合い?」

 白いセーターに短めのポニーテール。ふわふわのウサギのような子だと鋼は思った。もちろん今は、そんなこと関係ない。

「どうも、こういうものです――」

 泉里が開いたノートの上で名刺差し出し、友人へと手渡した。

「願い、探偵……?」

「――似合ってますね、ポニーテール。すごく可愛いですよ」

 鋼は営業スマイルを見せ、泉里はため息をついた。友人は鋼の名刺をじっくり見た後、鋼の笑顔を見て顔を赤くした。

「えっと……泉里、彼氏?すごくかっこいいけど……」

 バン!と大きな音が鳴り、友人と鋼は座った姿勢のまま飛び上がった。泉里が、三冊の参考書を一緒くたにまとめ、思いっきり机に叩きつけたのだ。

 悪い子ではないが、どこか抜けている天然系の友人と、いつまでも(というか女子大の中まで)追いかけてくる鋼。普通に対応していては収集がつかないということを、ひしひしと感じていた。

「悪いようにはしないって、じゃあ、具体的にどうするんです?あと雪歩、彼氏じゃない。ストーカー」

「「ストーカー⁉」」

 両隣で大きな声が上がり、泉里は若干顔をしかめた。

「なんでオレがストーカー扱いされにゃならん!」

「だ、大丈夫なの……?」

 泉里はまず、袖の端っこをつまんでくる友人に向き直り、天使のような声でささやいた。

「大丈夫。後で警察に行こうと思ってるから。心配しないで」

 そして次に、鋼の方に悪魔の眼差しを向けた。その、地獄の底から睨みつけたような灼熱の視線は、鋼に一切の抵抗を許さないものだった。

「講義終わるまで待っていただけます?説明もその時聞きますから」




「――で、なんなんですか?悪いようにはしない、って」

 約束通り、全ての講義が終わった午後三時。鋼は女子大の正門で泉里と落ち合っていた。

 現在は、街に向かうモノレールの中、泉里の隣に腰掛けている。ちなみに、朝と違い、話を聞いてくれるとわかったので、きちんと適切な距離感を保っている。1966年、アメリカ人のエドワード・T・ホールは、パーソナルスペースを四つに分類した。これはそのうち、社会距離というものだ。実はさらに細かく分類されているが、めんどくさいので鋼はそこまで覚えていない。

「つまりだな。悪いようにしないというのはだな……」

 何故かこの時間にモノレールに乗り、新聞を読んでいるスーツの男性を見て、鋼は思案を巡らせた。

「例えば、あそこにいるリストラされたっぽいおっさん」

「はい?」

「いや、ドアの辺に座ってる、眼鏡の」

「はぁ……」

「あのおっさんが願ったのは、〝妻にリストラがバレませんように〟だ。だから、スーツで出かけるだけで、何の問題もなく過ごせてる」

 泉里はスーツの男性をじっと見つめる。男性は何食わぬ顔で新聞をめくっている。どこへ行くつもりなのかわからないが、時間稼ぎなのは間違いない。

 茶色の瞳が細くなったのを見て、鋼はニヤッとした。まずはこっちの能力をきちんと説明しなければならない。こうやって実例を見せれば、だいたいの人間は興味を惹かれるものだ。

「疑問だろう?給料入らないはずなのに、なんでリストラがバレないのか、って」

「いいえ、私が思ってたのは、どうしてそんなことに願いを使ったのかな、って」

「あっ、そう……ま、事情は色々あれど、この世は〝一つだけ、なんでも願いがかなう世界〟だ。現にあのおっさんの願いはかない、給料が入らなくても、奥さんはみじんも気付いちゃいない」

「……どうしてです?お給料入らなきゃ、そんなの絶対――」

「あのおっさん、さっきから新聞の同じ面をじっと見てる。そんでもって、ちょっとほくそ笑んでる。恐らく、宝くじだか競馬だか競輪だかなんだか知らねえが、何かしらを当てたんだ」

「ちょ、ちょっと待って?それじゃ、リストラがバレないように、って願ったのに、強運の持ち主になっちゃった、ってことですか?」

「いいや違う。けっしてそうじゃない。あのおっさんの願いはリストラがバレないように。それ以上でも、それ以下でもない。だから、くじや馬券を当てても、パチンコで激熱を迎えても、給料以上の金は決して稼げない。その金を奥さんに渡すことで、バレずに生活を続けていられる」

「……なんでわかるんですか」

「神は、願いとは、純粋に願ったことだけをかなえる。その他の事象には極力干渉しないようにできている。だから、ちょっとでも願い方が甘いと……」

 モノレールが減速し、一つの駅に留まった。

近くに国宝に指定された寺があるが、近隣住民以外はほとんど使わない、さびれた駅だ。空いたドアから、緑のリュックサックを背負った若い男が入ってきた。

「え……父さん⁉何やってんの?こんな時間に……」

「さ、(さとる)……!」

 事実は小説よりも奇なり。なんと、乗ってきた男はおっさんの息子だった。ようだ。そんなバカな、と思いながら、泉里は苦笑いになった。

「そら見ろ、あの息子っぽいやつに、おっさんのリストラはバレた」

「全然ダメじゃないですか……」

「ダメじゃない。あの息子は、絶対に母親、つまりおっさんの奥さんには言わない。そういう願いだからだ。しかし、おっさんは、願い方が甘かったために、息子にバレた。これでもう、再就職先を必死に探さなくちゃならない。てな感じで、オレには他人の願いががっつりわかる。しかも、たくさんの願いを見てきたから、それがどんな風に作用するか、そこまでわかる」

 ケロッとした表情で、鋼は目の前の惨事を指し示した。泉里にしてみれば、必死さをふんだんに含んだ親子の会話が気になって、それどころではない。

「え、マジ⁉クビになってたの……?」

「頼む……母さんには黙っててくれ……」

 にわかには信じがたいが、親子の表情は中々のリアリティを含んでいる。昼ドラでもこんな展開はお目にかかれないだろう。

 半信半疑で見ていた泉里だったが、涙を流して訴える父親を見て、鋼の力が本物だと確信した。

「じゃ、じゃあ……本当に……?」

「その通り。オレには、他人の願いがわかる。理由は分からないが、生まれた時からそうだった。なのに、だ。興梠さんの願いは読めない。ここで本題に戻る」

 鋼は両膝の上に両肘を乗せ、右手と左手の五本の指先をピタリと合わせた。

「悪いことにしない、というのは、つまり……興梠さんのことを、触ったりとか、服を脱がせたりだとか、そういうことはしない、ってことだ」

 当然でしょう。

 泉里は唇の端っこまで言葉が出かかった。ぷるんとした唇でなければ、とっくにこぼれていただろう。なんなら、当然の「と」だけが出てしまった気もする。

 真面目な顔をしているが、鋼の言っていることは素直に気持ち悪い。泉里は嫌悪の情をもって、その横顔を見つめていた。

 すると、鋼がこちらに顔を向けた。思いのほか真っ直ぐな瞳で、泉里の視線を捉えた。

 案外――『泉里、彼氏?すごくかっこいいけど……』――雪歩の言葉が頭をよぎる。すごくかどうかは別にして、鋼の顔は決して不細工ではない。決して、不細工では……。

 いいえ、絶対に認めるもんですか。綺麗な、ビー玉みたいな瞳をしていても、眉毛がシュッとしていても、そこにかかりそうな黒髪が、ちょっとくせっ毛になっていても、日本人にしては鼻が高かったとしても、真面目な口調の時は、口元がセクシーに見えたとしても……こんな失礼な男が、人一倍の美形だなんて、泉里は絶対に認めたくなかった。

 しかし、観察すればするほど、鋼が悪い人間には思えなくなっていく。もしかしたら、本当に、困っているのかも……どうしよう、どうするの?私、断れなかったら……。

 胸騒ぎがする。泉里はそこそこある胸元を押さえ、激しく暴れ出した心臓を、なんとかなだめようとした。どうしよう、どうしよう、さっきまで、この男を警察に突き出そうとまで思っていたのに……!

「ただ、じっくり観察させて欲しい。頭の先からつま先まで、気が済むまでくまなく」

「お断りします」

 心配は無用だった。

 泉里は即答した。


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