第二十章 やっと
鋼の世界から、音が消えた。
色が消え、匂いが消え、感覚という感覚が消え去った。
「あぁ……あぁ……」
こんな時になって、ようやく体は真面目に動き始めた。
そんな――
泉里は、バイクの横に倒れていた。
そんな――!
駆け寄って、その華奢な体を抱き上げた。
助けに来たのに――
泉里は、とても綺麗な顔をしていた。
オレが――!
「泉里!」
抱きかかえ、揺さぶりながら名を呼んだ。その口から、一筋の血が流れ出てくるのを、鋼はどこか、遠い国の出来事のように感じていた。
「泉里……泉里……あぁ……泉里ぉ……!」
何度も呼んだ。何度でも呼ぶさ。逝かせるもんか。勝手に、一人で、オレをかばってだなんて!
「泉里……泉里!泉里!」
鋼の声に呼応するかのように、泉里の、悪魔のような瞳が開かれた。
「あ……鋼さん……」
天使のように美しい声は、今にも消えそうだった。
「泉里……!なんで……!」
「よかったぁ……無事……で……」
血の泡を吐き出しながら、泉里は笑った。
鋼はその額に頬ずりした。
「バカ野郎!バカ野郎……!なんで逃げなかった!なんでオレなんか助けた!自分だけ言いたいこと言いやがって!オレは、オレはまだ――」
「私、初めて、会ったんですよぅ……?」
「……え?」
「望んでもない力を持って、この世に生まれて……悲しくて、苦しくて……私とおんなじ人、初めて――」
途切れとぎれになっていく声に合わせて、呼吸が、どんどん浅くなっていく。
「鋼さん、私のこと、わかってくれて……やっと、ほん……の……ぶん……」
「泉里……」
「すごく、嬉し……かっ――」
ザクロ色の目から、悪魔のような輝きが消えた。
天使の声が発せられることは、もう、二度となかった。
「泉里……泉里……?」
鋼はもう一度泉里を揺さぶった。
「泉里……なあ、おい……泉里……っ……」
生まれて初めて、入川鋼は泣き叫んだ。
嗚咽というものが、こんなにも息苦しいものだったとは。鋼は今の今まで知らなかった。
涙がとめどなく溢れ、心が泉里を求めてもがいた。
どれだけ手を伸ばしても届かない。どれだけ名を呼んでも答えは来ない。
「ああぁぁぁぁああああ!ああぁああぁああああ!」
泉里の亡骸を抱きしめ、抱きしめ、折れるほど抱きしめた。
「うぅーっ!うぅううぅぅぅう……!」
泉里は、『痛い』とも『苦しい』とも言わなかった。
ただ、満足そうな顔で、鋼に抱かれていた。
「はあっ……あぁっ……はーっ……頼む泉里……死なないでくれ……泉里……頼む……もう一回笑ってくれ!生き返って――はぁっ!そうだ……そうだ……!」
鋼はあたりをキョロキョロと見回した。
目に入るのは、甲板上に散乱しているコンテナ、重機、バイクに大量のごみ……遠くの方でサイモンがもぞもぞ動いているのだって、もはやどうでもよかった。
「出てこい……出てこい!いるんだろ……そこに……!」
鋼の目的は、たった一つだったのだ。
「そこで見てるんだろう――」
「――出てこぉい!」
やれやれ、私か?
しかたがない。呼ばれたからには出てやろう。
「はあ……はあ……」
私を呼んだか?入川鋼。
「あぁ、呼んだ。あんたが待ちに待った願いが決まった!たった今決まった!」
そうか。屈折二十と四年。ようやくこの時が訪れたというわけか。
「そうだ……あんだけ急かしてきたんだ……かなえてもらうぞ、オレの願い――」
よかろう。だが一つだけ確認させてくれ。鋼や、それは、お前の願いで間違いないのだな?
「はあ……はあ……お前……」
これ、私は〝お前〟ではない――
「なんでだよ……!なんでぇ!」
なぜだ?お前は、何千何万と他人の願いを見てきたはずだ。誰も知るはずのなかった、願いの持つ特性や、かなえられる条件までも見てきたはずだ。
「何故だ?だと⁉ふざけるな!オレの願いをわかってて!お前はそう言うのか!クソ野郎――」
これ、そんな言葉づかいを――
「説教はごめんだ!オレにこんな力を持たせておいて、何の説明もせず、願いは無いか、願いは無いか、願いは無いか……そして、やっとオレが願いを見つけた時、今度はお前は、それはかなえられないと言った!クソ野郎以外に、どんな呼び方でお前を罵ればいい⁉」
……鋼よ。
「泉里を生き返らせてくれ」
それはできぬ。
「それがオレの願いだ!頼む!生き返らせてくれ‼」
それはできぬ。興梠泉里には、興梠泉里の人生がある。彼女は彼女の願いを既にかなえている。二度目はきかぬ。
「頼む……頼む……!一生のお願いだ……泉里を……泉里にもう一度会いたい……!泉里と、もう一度話がしたい……ひっく……やっと見つけた、心の底から愛してるんだ……頼む、オレに泉里を愛させてくれ……もう一度……泉里に……」
……気が付いたか?
「……泉里に……もう一度……」
そうとも。そのために、私はお前にその力を与えたのだ。
「お前……」
さあ!願うがいい入川鋼よ!
汝の願いを、何なりと――
鋼は、入川鋼は、ようやく顔を上げた。
ついに自分の願いを知り、かなえたのだ。
泉里の頬を撫で、その頭を、そっと甲板におろした。
「はっはっはっ……」
空気を読まない男が、ガチリと撃鉄を起こした。
ベレッタを拾ったサイモンが、勝ち誇った笑みで立っていた。
「傷心の所、悪いな鋼君!私の――」
刹那、鋼は飛び出した。
その速さ、まさに韋駄天のごとく。
サイモンには、引き金を引く間も、叫ぶ間もなかった。
泉里をこれ以上傷つけさせぬため、願い探偵は、甲板から飛び出した。サイモンを道連れに、船の下へと飛んでいった。
四メートル弱とはいえ、固いコンクリートでできた港湾施設だ。頭から落ちれば、ひとたまりもなかっただろう。
だが、皆の衆、忘れるな。
鋼が、どういう男であったか。
「はあ……はあ……ぺっ!」
鋼は落ちていなかった。
サイモンを弾き飛ばした直後、甲板の縁に右手をひっかけ、なんとか落ちずにすんでいた。眼下に沈むサイモンに、唾を飛ばす余裕まで見せた。
「がっ……あっ……ぅん……」
サイモンは鼻と口の両方から血を吹き出し、息も絶え絶えに横たわっていた。拳銃を構えたくても、全身の骨が折れていて動かない。鋼の飛ばした唾をよけることもできず、青い目をぐるりと回すので精一杯だった。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
「へへっ」
杠はマスターにスマホを返した。
「ふうーっ!」
九次は両手を伸ばし、仰向けに倒れこんだ。
「お疲れさま、みんな」
マスターはニコリと笑った。
三人とも、ペッグの上でくつろいでいた。
ぞろぞろとアリのように集まってきた警官によって、サイモンは完全に包囲された。
日本全国を騒がしていた人さらいの一団は晴れてお縄となり、新たな被害者を出さずに済む運びとなった。
コンテナの中にいた女性たちはそろって解放され、警察に渡された毛布にくるまっていた。
ひったくりの時に現場にいた刑事が、船上の鋼に気付いて敬礼した。
鋼はフン、と鼻をならし、担架で連れて行かれるサイモンを見ていた。
限りない満足感で、今は亡き新道に、そっとつぶやいた。
「やったぜ、おっさん……」