第二章 合コン
翌朝、鋼は漫画本ひしめく雑多な部屋で目を覚ました。
「ふわーあ」
大きく伸びをした瞬間、一番上の方にあった本が数冊、バサバサと落ちてきた。
「いてっ」
何事かと思って見上げてみたが、なんだちくしょう、引っかけたのは自分自身だ。鋼は頭をボリボリかきながら、漫画の海からはい出した。
「おはよう鮫島君」
「おはようじゃない。落ちたやつを元に戻してくれ」
わずかに残された生活スペースに陣取っているのは、鮫島太郎という太った男だった。眼鏡のつるが顔にめり込み、チェックのシャツはボタンがはちきれそうで、膝丈ジーパンのチャックに至っては閉まりもしない。その巨体を安物のチェアに全部預け、くっちゃくっちゃとガムを噛んでいる。
「なんだってこんなに買い集めるんだ。邪魔でしかたない」
「なんだって家で寝るんだ。狭いの分かってるのに。落ちたやつを元に戻してくれ」
漫画を一秒に二ページも三ページもめくりながら、鮫島は言った。
「それはな、アホな依頼者が未だに金を振り込まないからだ。泣くだけ泣いて、メモを無くしたとか抜かしやがる。今日、直接取りに行くよ」
抜き足差し足、冷蔵庫に近づこうとした鋼は、さらに二山崩していった。
「こらー!なんで倒すんだー!そこは手塚治虫全しゅ――」
「なぁんであんなに怒るかね」
鮫島家を追い出された鋼は、こじゃれたバー、タルコナのカウンターに突っ伏していた。使うのは決まって真ん中の席だった。
ここは鋼の行きつけだ。大きな通りから三本離れた裏路地、そこにある雑居ビルの二階に、人知れずたたずんでいる。そのため――カウンターに七席、二人ずつ掛けられるテーブル席が二つしかないが――ほとんど満席になることがない。ひっそりと酒を飲むにはもってこいなのだ。
「余った食材を一口、いや二口三口食べるはずだったのに」
「彼、好きだもんねぇ。漫画」
一応、ダーツなんかも置いてあったりして、それなりにリピーターがいるので儲かっている。らしい。
ちなみに、この店の売りは、マスターのダーツ指南と、その繊細な指使いから生み出されるカクテルだ。
そんなタルコナにおいて、鋼が必ず頼むもの、それは――
「マスター、いつもの」
――スコッチをストレートで、これだけだ。
「鋼くーん、そろそろ、カクテル飲んでくれないかな。作るよ~?いいやつ」
「やだよ、だってまじいじゃん、マスターの」
「鋼君だけだよ、飲んでくれたらわかるのになぁ」
苦笑いしながら、マスターはスコッチをグラスに注いだ。ここのマスターは、タキシードをビシッと身に着けた、ダンディズム溢れる大人の男だった。もう四十になるのに、腹は一つも出ておらず、たっぷりの黒髪を、ワックスでオールバックに固めていた。
鋼とは古い付き合いで、店に入ってきた瞬間、スコッチのためにグラスを磨き始める手際の良さだった。表情は少々残念そうだったが。
「んー、にしても、願いの使い方間違ってるって。〝世界中の書き物を読む力〟って、なあ」
「でも最近、数減らしたらしいよ。電子書籍は偉大だー、って。あっ、あと、作家先生の校閲とか請け負ってるって言ってたよ。鋼君のおかげだね。ニートも卒業じゃない?」
マスターは鮫島のこともよく知っている。スコッチの入ったグラスを、鋼しかいないカウンターに差し出した。
「半分な、どうも」
鋼はグラスを手の中で転がし、ドロリとした、香り高い茶色の液体を一気に煽った。
「か~っ!目が覚める!目が覚めた!」
オレンジの関接光の中、鋼はおっさん顔負けのあくびをした。
「あれじゃあ、ゴミ屋敷で働いてんのと変わんねえよ。つけといて」
「はいはい」
鋼は後ろ手に手を振り、階段を下りていった。
町中にあるお嬢様大学。若い女がうじゃうじゃいるおかげで、大学前の通りに差し掛かっただけでフレグランスの香りがする。間違いなく、この町で一番美人の密度が高い。
目的の女を探すため、鋼は女の群れを泳いでいた。
「はーん!もう嫌だ!」
鋼は人工の臭いが大っ嫌いだった。
百貨店の化粧品コーナーだとか、キャバクラだとか、あの鬱蒼とした香りの世界大戦に、心底嫌気がさしているのだ。鼻が曲がりそうになるし、今も曲がっている。
しかし、大層な大学だ。広大な敷地に、清潔感のあふれる建造物がズラリ。どこの建築家が設計したのか、興味はないがオシャレだ。建物の三分の一を巨大な窓ガラスが占め、残りは鉄格子の様になっている。別の建物は、どう考えても雨風をしのぐために必要ではないところまで出っ張っているし、内部のエントランスに用途不明の巨大なオブジェがどかんと居座っている。エスカレーターは当たり前、食堂はまるでカフェ、マスターの店がかすんで見える。さすが私立のお嬢様学校、金のかけ方が違う。
大学中を這いずり回って三十分、ようやく目的の女を見つけ出した。よかった、もう十分もいたら、鼻がもげるところだった。
「おい」
鋼が話しかけたのは、オブジェがあったのとはまた別のエントランス、長いチューブがねじ切れたようなベンチがあった。女はそこに座っていた。
「きゃあ!」
友人と楽しそうに会話していた女は、鋼の存在に気付いて飛び上がった。今日も今日とてけばけばしい。にじみ出る不良感を覆い隠そうとしたのか、口紅を厚く塗りすぎている。
鋼は女が逃げられないよう、その隣にどさりと腰を落とした。
「きゃあ!じゃねえコラ。金を払え」
「え、なに、どうしたの……?」
女を挟んで反対側、友人が不安そうに目を震わせている。元依頼主の女とは違い、この友人からはかなり清楚な空気を感じた。服装も佇まいも、上品にまとまっている。生粋のお嬢様という所か、少なくとも、この女の様に、願いに頼って合格した口ではない。
まともな人間には、まともな対応を。鋼は営業スマイルを見せ、会釈と名刺を渡した。
「なんでもありません。私、こういう者でして」
「願い探偵……?」
「はい、契約と支払いの件で、少々……おい、支払い期限過ぎてんぞ」
友人女性が名刺に注目している隙に、鋼は目をひん剥いて女に詰め寄った。
女はひっ、と短く叫び、肩を縮こませた。動くたびに、安っぽい香水の匂いが鼻をかすめる。
「口座のメモは渡しただろう。まさかあんた……金がないのに契約たんじゃないだろうな」
「ち、違うんです!しゅうじが浮気してないって証拠が欲しくて……浮気してないってわかった時には、仲直りして、しゅうじにお金払ってもらおうと思ってて……」
頭が悪すぎやしないか、鋼はもうすぐで突っ込むところだった。
「知るか。こっちも慈善事業じゃないんだ。出すもの出してもらえないと……あんたの願い事、口が滑ることになる」
「そ、そんな……!」
女は鮮血のような唇をわなわなと震わせた。頭が悪すぎやしないか、鋼はもうすぐで突っ込むところだった。
「こ、困ります!私、昔不良してて――」
「だろうな、知ってる」
「――それで、親と縁切られそうになって、なんとか大学だけは、いいとこにいこーって、思って……」
「あっそ、知らねえ」
そうやって短絡的に願いを使い切ってしまうあたり、頭の悪さがにじみ出ている。もったいないと思わないのか。
「だから困るんです!願いをバラさないでください!」
頭が悪すぎや――と、今度こそ突っ込みかけたが、幸か不幸か、隣にいた友人が口を開いてくれた。鋼の突っ込みは雲散霧消した。
「ど、どうしたの久美子……?」
けばけばしい女がボロボロと涙を流すせいで、鋼の名刺など、どうでもよくなってしまったようだ。
「あの、よくわからいんですけど、久美子をいじめないでもらえますか。この子、すごく親孝行で、いい子――」
鋼はたまらず人差し指を上げた。唇の前に持っていけば、万国共通、静かにしなさいの合図だ。それとは別に、威圧的な目線も送ったので、友人は一撃で黙りこくった。
「あんたはまともだから忠告しておく。あんまり他人の問題に首を突っ込まないことだ。この子はオレにある依頼をした。そしてオレは、その依頼通りに仕事をこなした。オレはその名刺の通り、仕事としてやってる。世の中のどんな仕事にも、報酬がつきものだ。YouTubeで新曲のPVが見られるからって勘違いするな。金が無きゃあんたらは大学に通えないし、オレは死ぬ。だからこの子は、オレに金を払わなくちゃならない。できないなら、金になるものを差し押さえさせてもらう」
友人はぴしゃりと口を閉じ、無言で何度も頷いた。そうだ、それでいい。鋼は察しのいいやつが大好きだった。
「見たところ、あんたはまだ願いを叶えてないみたいだな。たった一度きりだ。大事にとっておいた方がいい。オレはもう少し、この子と話がある」
鋼は右手をくるりとひっくり返し、手のひらを天井へ向けた。察しのいい友人は、ぎこちないお辞儀をしながら離れていった。
「さ、て、どうしたものかな」
もう一度けばけばしい女に向き直り、鋼は両手を握り合わせた。このままだとぶん殴ってしまいそうだった。
「え、えっとぉ……」
「いいか。既に支払い期限を三日過ぎてる。もう猶予はない。あんたに残された手段は、親に泣きついてでもすぐさま金を払うか、スマホでもなんでも売ってすぐさま金を払うか、利子をふんだくるサラ金だか闇金だかで借りてすぐさま金を払うか、この三つだ。オプションとして、金目の物をオレに渡すってのもあるが、いちいち質屋に行くのは至極面倒だ。だるいさあどれだ」
女はぐしぐしと目を拭い、ハンカチでぶーっ、と鼻をかんだ。そしてまたぐしぐしと目を拭った。
鋼は自分の膝をトントン叩き、答えを待った。女の涙に騙されるほど、甘い男ではない。膝を二十四回叩いたところで、タイムリミットを迎えた。
「仕方ない、まずはカバンを――」
「ま、待ってください!」
女は必死の形相でカバンを抱きかかえ、鋼の手から逃れた。
我が子を取られまいとする母ザルのようだ。と、鋼は思った。
「いい加減にしろ。オレは無一文二日目だ。三度の飯もろくに食えやしねえ」
「じゃ、じゃあ!新しい依頼者を紹介します!そ、そ、そ、それでどうですか?」
ねじ切れたベンチを涙でびしょびしょにしながら、女は訴えた。
「で?あなたが髙畑さんの取引先の――」
「筒地と言います。髙畑君とは、プライベートでも仲良くしていまして……どうも」
筒地はサラサラとした笑顔を浮かべ、ぺこりと頭を下げた。青い、ストライプのスーツを着こなし、赤と金色のネクタイがイカす。髪をきちんと整えており、ワックスの光沢が照明を反射している。
高級居酒屋の(高級なのに居酒屋とはこれ如何に)半個室で、鋼は困惑の表情を浮かべた。
「失礼ですが、あなたのようなちゃんとしたサラリーマンが、なぜあんな――いえ、髙畑さん経由で、お知り合いになったんで?」
「あー……髙畑君とゴルフに行った時、彼女がついて来た時があって。どうも最近、あの二人は別れたみたいですね。髙畑君が浮気してるんじゃないかと、彼女からは相談されていたんですよ」
「あっ、なるほど……」
髙畑という男、仕事は真面目にこなしていたらしい。営業職というものは、時にお得意様とプライベートを共にすることがある。その彼女まで知り合いになっているということは、相当親密な関係なのだろう。つまり、髙畑の会社と筒地の会社はズブズブというわけだ。
「けっこう真面目な子だと思ってたんですが、女性関係はダラしなかったんですね、彼」
苦笑いを浮かべ、筒地は冷たいおしぼりを顔に押し当てた。何故か世の中の男はこの行動をとりがちだ。鋼も例外ではない。
「ふう……まぁ、人の本性はわからないものですよ。筒地さんだって、私がどういう人間か、お分かりにならないでしょう?」
「たしかに、私はそうですが……あなたは違うんでしょう?」
「いいえ、その人の本性まではわかりません。私にわかるのは、一つだけ。いつも、一つだけです」
「それで十分なのでは?彼女から聞いてはいますが……どうです?私の願いはわかりますか?」
鋼はおしぼりを弄びながら、筒地の目をじっと見た。コンタクトを入れているのか、瞳の外側に透明な円が見える。勉強ばかりしてきた真人間と言ったところだろうか……。
「あぁ……スーパーコンピューター並みの計算力、合ってますか?」
「その通り!いやはや……本当にわかるんですね」
筒地は感心したように頷き、音のない拍手で賛辞を贈った。鋼はおしぼりをいじっていた手をちょっぴり上げ、それに応えた。
「昔から数学が苦手で、藁にもすがる思いでお願いしたんですが……」
しみじみと言う筒地だが、鋼は願いの甘さにすぐさま気付いた。万人の願いを見てきたから鋼だからこそ、気付くことだった。
「その願いじゃ、少し役不足でしょう」
「……そこまで、わかっちゃいますか?」
「その願い方だと、計算力そのものにしか働かない。スーパーコンピューターの力はたしかにすごいが、式を打ち込むのは結局人間。問題を読み取り、どの公式を当てはめればいいのかは、また別の才能が必要だ」
「いやー。あっはっはっ……まさに、その通りなんですよね。いやはや、恐れ入りました。まっ、私のことはどうでもいいんですよ、どうでも」
筒地はおしぼりを受け皿に押し込み、本題に入った。前払いしてくれるという、件の契約についてだ。
「それで、今日、来ていただいた理由なんですけどね……」
「ええ」
「これから合コンがあるんですよ、相手は若い、大学生なんですけど」
「紹介してくれたのは、まさか、髙畑さんじゃぁ……」
「おっ!よくお分かりになりましたね。彼も後から来るんですよ」
「げっ、へ、へー」
鋼は胃袋を揺さぶられたような感覚を覚えた。この男、鋼が髙畑とひと悶着あったということを知らないのか。
「彼、ああ見えてけっこう……いや、もう違うか。とにかく、けっこう可愛い女の子の知り合いが多いんですよ」
なるほど、鋼は持ち前の洞察力ですぐさま合点がいった。前払いでないと困る理由。合コンという形ならではだ。
「私、あまり女性とお付き合いしたことが無くてですね……いや、自分でも分かってるつもりなんですけどね。理想が高すぎる、というか……」
「えぇ、わかります」
「本当ですか?どうしても気になっちゃうんですよ、相手の子が……その――」
「――生まれつきの美人かどうか?」
結論を言いよどんだ筒地に代わり、鋼が言ってやった。フェンシング選手の様に鋭い突きだった。
筒地は何とも答えず、黙り込んでしまった。おしぼりを受け皿に押し付け、微妙に揺らしている。
「わかりました。つまり……私に合コンに同席し、その場で生まれつきの美女か、そうでないかを見抜け、ということですね?相手の人数によって契約金が変わりますが、それでもよろしいですか?」
「えぇ、まぁ、私としては、相手がどのような女性かわかれば……」
「よろしいですね?」
「え、えぇ!それでは、受けてくれるということでいいんですね?」
「私は普段、仕事にかかる費用のため、一定の手付金をいただき、依頼達成後に成功報酬をもらう、という形にしています。ですが、今回は合コン中に結果をお伝えする形になるため……女性のいる前でお金を受け取るわけにもいきません。終了後は、ほら、お持ち帰りとかになったら、会う機会もないでしょうし……全額前払いとなりますが、よろしいですか?」
「もちろん!最初からそのつもりです」
「いえ、一応確認したかっただけです。それでは、女性一人につき十万円を。逆に、手付金はサービスしておきますよ。あ、飲み代を当ててもらえますか、やっぱり」
「えぇ、えぇ、それくらいお安い御用ですよ。では……」
筒地は両手を揉みしだき、グッチの長財布を取り出した。何の革を使っているのか知らないが、無駄にてかりすぎず、かと言って厚ぼったくない、絶妙な輝きを放っていた。さぞ値が張るのだろう。鋼に言わせれば、その財布を買うだけで何週間食っていけると思っている、だが。
「これで、お願いします。あとは飲み代、追加で出しておきますよ」
手渡されたのは三十人の福沢諭吉だ。紙幣の右半分で、現代日本の混沌を嘆いているような、寂しそうな表情をしている。まあ、死んでしまった本人が日本の未来をどう思っていたのかなんてわからない。とにかく、この顔は何度見てもいい。学問を勧められたことは一度もないが、あれを買いなさい、これを食いなさい、と何度もそそのかされてきた。これがまた心地の良いささやきなのだ。諭吉先生は話術がすごい。
「では、ありがたく頂戴します。三人来るということでよろしいですね?」
「そうです。後は……さりげなく。女性の願いが、私の――あー――あれに該当しなければ……そうですね、日本酒をおちょこいっぱいに注ぎ、一気に飲み干す。該当する場合は、おちょこの半分くらいについで、ちびちびと飲む。私が話しかけた順番でやっていただければ、それで」
「わかりました。ここならいい酒が出てきそうだ。何杯でもやりますよ」
相手の女性を連れた髙畑がやって来たのは、それから五、六分後のことだった。
高級居酒屋の中心にドンと据えられた囲炉裏の向こうから、三日ぶりの声が聞こえてきた。
「え~?マジマジ?それ、最高じゃん!あっははは……げっ」
「ちわ~」
鋼は手首が脱臼したかのように、力なく手を振った。
「どうしたんですかー?髙畑さん」
髙畑のすぐ後ろにいた、白いカーディガンを羽織った女が、不思議そうに顔を覗かせた。
「い、いや……もう一人来るとは聞いてたけど、まさか俺も知ってる人だとは、思わなくて……」
「えー、そーなんですかあ?世界せまー」
カーディガン女はケラケラと笑っているが、髙畑の表情はモアイ像より硬い。また鋼に何かされるのではないかと、警戒しているのだ。よろよろと腰を屈め、筒地の耳元に顔を持っていった。
「つ、筒地さん……この人……」
「わかってる。僕がお呼び立てしたんだ」
筒地は声を落として返しているが、やはり、肝心なことは何も分かっていないようだ。鋼にばっちり目配せをして、髙畑に笑顔を振りまいた。
鋼は内心、爆笑していた。
髙畑は鋼を避けようとしている。それは間違いない。浮気をバラされ、食って掛かったところを返り討ちにあったのだ。いい印象を抱いているはずがない。故に、同じ席で、同じ飯を囲いたくないのだ。
しかし、その感情を説明しようとすれば、浮気暴露の上にぶん殴られたという事実を、他ならぬ筒地に話さねばならない。男にとって、これ以上に屈辱的なことがあろうか。
「たかっちゃ~ん!そんなに硬くならないで!楽しくやろう、楽しく!」
鋼は、ここぞとばかりに髙畑をおちょくることにした。わざわざ近くに寄っていき、その肩を抱きかかえるようにして叩いた。
髙畑は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべたが――それでも、取引先の筒地の手前――最後には、目をひん剥いて笑顔を取り戻した。
「あ、あははははは!久しぶりー、えーと……」
「鋼だよ!入川鋼!忘れちゃったの?たかっちゃ~ん」
「あ!そうだよな!そーだった!鋼、鋼!」
「えー、と、いうわけで、かんぱーい!」
髙畑の乾杯は誰がどう聞いてもお祝いムードではない。どちらかというとお通夜だ。
「「「「か、かんぱーい!」」」」
筒地と三人の女はぎこちなくグラスを持ち上げ、
「かんぱーい」
鋼は頬杖をつきながらグラスを振り回した。ビールが若干こぼれ、枝豆にかかってしまった。
筒地の言う通り、髙畑は中々の美人を揃えてきた。現在の席の位置は、男性陣が右から順に髙畑、筒地、鋼の順。テーブルを挟んで反対側に、女性陣が三人だ。三人ともタイプは違うが、一目見て美人だと思った。あとの問題は、それが生粋の美人か、養殖の美人か、というところだ。
「えー、それじゃあ、まず、自己紹介から、ってことで……僕は筒地と言います。証券会社に勤めてます。年齢は二十六歳、よろしく!」
なんてつまらない自己紹介だろうか。ビールを煽りながら、鋼はそう思った(髙畑が完全に沈黙してしまっているので、仕方ない部分もあるが)。
「すいません、日本酒、熱で」
通りがかった店員に小声で頼み、他のメンバーにバレないよう、こっそり小道具を用意した。おちょこを手前に置き、鋼は筒地に頷いて見せた。
「よしっ!それじゃあ、女性陣のお名前も聞きたいかな、えーっと、じゃあ……右端から!順番にお願いしようかな!」
何が面白いのかわからないが、筒地も女性陣もえへへ、と笑っていた。間に困ると、人間つい出てしまうのだ。俗に愛想笑いと言われているもので、鋼の中では〝表情筋の無駄遣い〟という正式名称がつけられている。
「えっとー。じゃ、私から行きます……って、髙畑さん、大丈夫ですかー?」
「大丈夫……ちょっと、トイレ……続けてて、みんな」
髙畑が席を立ち、白カーディガンの女は少し物足りなさそうな顔になった。なんだ、あの女、髙畑狙いなのか。鋼はとっくりのふちを磨きながら、おぼつかない足取りの髙畑を見送った。
「えっとー。私、西条真紀子っていーまーす。二十一歳、現役女子大生でーす」
あざといピースを筒地に見せ、真紀子はニッと笑った。何があざといって、手の位置だ。頬の下にくっつけなくても、ピースは見えるよお嬢ちゃん。鋼は窓の外に向かって呟かなくてはならなかった。
「へぇ、西条さんって言うんだ。よろしく」
「よろしくお願いしまーす」
「髙畑君とは、どこで知り合ったの?」
筒地が話を掘り下げたので、鋼は作戦開始の合図だと捉えた。
鋼は左手で頬杖をつき、人差し指と中指をこめかみに当てた。真紀子のピースに見とれるふりをして、その顔をまじまじと見つめた。
真紀子は、一言で言うとギャルっぽい美人だった。ギャルが抜け切れてない美人、と言った方がしっくりくるか。化粧が少々しつこく、アイシャドウが鮮やかな紫を放っている。金色に染めた髪は先端がクルクルと巻いており、肩の上で楽しそうに弾んでいる。
「えっとー。髙畑さんは、大学のサークルの先輩でー」
「えっ、そうなの?確か彼、バンドやってたんだよねぇ、西条さんも、何か弾くの?」
「えっとー。私はー、ベースだったんです」
「ベースっていうと……ギターのこと?」
「まーそーですねー」
思いのほか弾んでいる会話の中、筒地がチラチラとこちらを盗み見てくる。鋼はとっくりをサッと傾け、表面張力の限界まで酒を注いだ。
「へぇ、かっこいいなぁ。いつか聞かせてよ」
筒地が当たり障りのない感想を言った瞬間、熱いアルコールで喉を潤した。答えは白、生まれつきの美人だ。
「いーですよ、ぜひー」
再びあざとい仕草で笑顔を見せる真紀子。今度は何があざといって、にっこり笑う時に顔を右に傾けやがった。肩でも凝ってるのかい、お嬢さん。鋼は窓の外に向かって呟かなくてはならなかった。
「楽しみだなぁ」
案外、このあざとさが筒地には効いているようだ。鋼の判定にも安心し、顔がほころんでいる。やらしい言い方をすれば、ニヤついている。
「えっと、じゃあ、次の方、お願いします!」
「あっ、はーい」
次に指名されたのは、真ん中に座っている女だ。
「私は國廣飛鳥と言います。よろしくお願いします」
飛鳥はおっとりとした、控えめな女だった。右目の下に泣きボクロがあり、やや低めだが小さい鼻が、顔の真ん中にバランスよく位置している。少しちぢれ気味の長い黒髪といい、純和風な美女だ。一点、豊満すぎる胸だけが、彼女の中の〝女〟を激しく主張していた。せっかくの和風顔なのに、あれだと着物から胸が零れ落ちてしまう。年を言わないあたりに若干の闇を感じはしたが、筒地も鋼も深くは聞かなかった。
「國廣さんも、大学生……?」
筒地の作戦は続く。鋼は飛鳥の泣きボクロの大きさを測るふりをして、まじまじとその顔を見つめた。
「ふっふっふー。どうでしょう」
「えー、秘密なの?気になるなぁ」
先ほどの真紀子と違い、話が弾みそうにない。胸は弾んでいるが、それはあくまで物理的なものだ。鋼は二本の指でこめかみをぐにぐに押して、判断を急ぐ。
結果は白。鋼はもう一度日本酒を煽り、口の端からこぼれた熱い液体を、手の甲でぬぐった。
その時だった。ふと、目が合った。
「……」
ぶすっとした表情で鋼を見つめていたのは、目の前に座っている三人目の女だった。
茶枠のデカい眼鏡をかけ、その奥から、ザクロのように赤みがかかった瞳を覗かせ、鋼の顔を値踏みするように見ている。ぷるんとした唇が、まさにへの字に曲げられている。
横柄な態度だと鋼は思ったが、そのわりに、女の黒髪はつややかで、てきぱきとまとめられていて、肩の上を優雅に流れている。一見がさつだが、わざとそういう仕草を取っているのだと、一目見てわかった。
「……何か?」
女から異質のオーラを感じ、鋼はつい口を開いた。その声で、筒地がこちらに振り向いた。
「おっ!じゃあ、一番最後に、お願いしようかな!」
指名を受けたにも拘わらず、女は微動だにしなかった。茶眼鏡の奥から鋼を見つめ続け、不機嫌なオーラを出し続けている。
何故か鋼は、地獄の底にいる悪魔から睨まれているような錯覚を覚えた。
「……あなたは?何も言わないんですか?」
悪魔のような眼差しから一転、女の口から出てきたのは、天使の歌声と言ってもいいほど、透明感にあふれた声だった。きつめの口調が恐ろしいほど似合わない。天使と悪魔、ダン・ブラウンの小説のタイトルじゃあるまいし、なんだこの組み合わせは。
「さっきからずぅっとじろじろ見るばっかり、失礼じゃないです?」
「あ……?」
「そっか、そうだったね。鋼君、行っとく?」
悪くなった空気を敏感に察知して、筒地が助け船を出してきた。鋼は女に言い返したい気持ちをグッとこらえ、営業スマイルを腹の底からひねり出した。あと頬杖をやめた。
「えー、私、オレは入川鋼と言います。年は筒地さんより下だし、お恥ずかしながら……手取りも下だ!やっぱり証券マンには勝てない」
自らの身を削って、筒地の株を上げておいた。契約内容には入っていないが、彼は美女を求めているのだ、これくらいサービスだ。
「「あはは」」
若干ツボに入ったらしく、真紀子は雑に、飛鳥は上品に、それぞれ口元を押さえ、くすくすと笑っていた。
さて、笑わないのは三人目の女だ。鋼の営業スマイルを見ても、悪魔のような視線は変わらない。
「ふうん、どんなお仕事なんですか」
天使のような声も、同じく変わらない。
鋼は混乱と怒りに陥りそうになる脳みそと格闘しながら、努めて平静を装って答えることにした。ここで切れても、何一ついいことは無い。落ち着け、三十万の仕事だ。ふいにするな。何度も何度も言い聞かせた。
「仕事は……あー、探偵をやってます。少々、ね。依頼が不定期なもんで、収入も安定しなぁい」
両手をパーに、そしてひらひらと。財布には三十人の諭吉先生がいるが、彼らは一時的に雨宿りをしているに過ぎない。明日には十人ほど遠出するだろう。
「えーっ!探偵なんですか!」
「ちょっとキョーミあるかも」
思いのほか食いついてくる、脱皮し損ねたギャルと着物が似合いそうにない和風美人だ。鋼は矢継ぎ早に投げかけられる質問に、次々と答える羽目になった。
「どんな依頼がくるんですかー?」
「やっぱり浮気調査が多いんですかぁ?」
「あー、そうかも。数数えたことないから、わかんないけど」
「やっぱそーなんだー」
「尾行とか、疲れそう。写真も撮るんでしょう?」
「尾行もするし、写真も撮る。やり方は……企業秘密で!」
鋼は両手で大きなバッテンを作り、会話を打ち切った。
大げさな動作が受け、真紀子と飛鳥はお腹を抱えて笑った。笑いの波がひと段落する頃には、女が自己紹介をする空気に移っていた。
「ふうん、探偵さんなんですね、じろじろ見てたのは、職業病、ってことでいいんですか?」
「おおむね、そんな感じだ」
「私は興梠泉里といいます。年は二十一です。あと」
戦慄を覚えた。そうやって心の隅を突かれるのは、鋼にとって滅多にない経験だった。
「あんまり、探偵は好きじゃありません」
ド直球な悪魔の目、天使の声。やけに突き刺さって来る。
「何か、苦い思い出でも?」
「人のプライベートにずかずか踏み入って来るから。見てるだけで気分が悪いです」
「あっ……そう……」
日本人の美徳とはかけ離れた物言いに、女性陣も男性陣もあっけにとられていた。
「えー……えっ、と……じゃ、じゃあ、今日は探偵に関する誤解を解く、いい機会になるかもしれない、ってことで……ね!鋼君!」
黙りこくった真紀子と飛鳥に代わり、筒地が潤滑油の役を買って出た。鋼は筒地の視線を感じ取り、依頼の内容を思い出した。
そうだ。そうだとも。この女にしたって、諭吉先生十人分の価値があるのだ。探偵業をけなされたからといって、本分を忘れるなかれ。
「そーですね、筒地さん。イメージアップに、努めます!」
鋼はにっこりと明るい表情になり、筒地に敬礼した。真紀子と飛鳥は――眉をひそめたものの――パチパチと拍手を送り、先ほどの悪い空気をなかったことにした。やれ、日本人の美徳よ。
「じゃあ、お互いの名前もわかったところで……改めて、かんぱーい!」
「「かんぱーい!」」
筒地の音頭で合コンは正式な始まりを迎え、女性陣二人は大はしゃぎでグラスを傾けた。
「……」
「……」
鋼と泉里だけが、無言でグラスを掲げていた。
悪魔のような目が、鋼を捉えて離さなかった。ぷるんとした唇から、天使のような声が聞こえていたなんて、何かの間違いじゃなかろうか。ビールが喉を通らない鋼だった。
「さっ、腹が減っては戦はできぬ!何食べよっかな~?」
「おいしーのがいーなー」
「私、サラダがいいなぁ」
筒地がメニュー表を掲げ、真紀子と飛鳥がきゃいきゃいと騒いでいた。
「興梠さんは?何か食べたいものある?」
二人の女が――女にしては珍しく――すぐに注文を決めたので、筒地はメニューをこちらへ傾けた。鋼は右手を上げて遠慮を示し、泉里だけがメニューを覗き込む形になった。
「鋼君……」
実に、実に小さな声で、筒地はささやいた。
その視線の先には、ほっそりとした指で茶眼鏡の縁を持ち、メニューを見つめる泉里の横顔があった。肩に流れる艶やかな黒髪を、優雅な仕草で押さえていた。
「よし……」
仕切り直しだ。
鋼は首を左に傾け、コキリと鳴らした。左肘で頬杖を突き、人差し指と中指でこめかみを押さえた。泉里の顔をまじまじと見つめ、その美貌の根源が願いであるか否か、探るのだ。
分厚い眼鏡の奥で、茶色の瞳がゆっくりと動いている。やはり、ザクロのような赤みを感じてしまう。それが魅力的なのか、恐怖と畏怖の対象なのか、鋼は考えずにはいられなかった。
「あー、また見てるー」
「やっぱり、職業病なんですかぁ?」
真紀子と飛鳥が、ケラケラとはやし立てる。泉里は一瞬、眼鏡の下から鋼に視線を送ったが、やれやれと首を振り、再びメニューに目を落とした。
「あははー……はは……」
鋼は二人に愛想笑いを返し、もう一度泉里の観察に戻った。
艶やかな黒髪を下からなぞるようにたどり、ぷるんとした唇を舐め回すように見た。
泉里は、たこわさやポテトなど、つまみになりそうなメニューを見ていた。
そして、絶望的なことに気が付いた。
「……は?」
こめかみから指先を離した。思わず声に出てしまった。
戦慄を覚えた。そうやって心の隅に穴が空くのは、鋼にとって滅多にない経験だった。いや、滅多どころではない――
「……鋼君?」
「えー?」
「どうしたんですかぁ?」
筒地と二人の女が、鋼の異常にすぐさま気付いた。そんな声など、鋼には聞こえなかった。
三人にどう思われようが、もはや関係ない。そんなこと些細なことなど、一吹きで吹っ飛んでしまうような凶事が、今まさに起こっていた。
「……なんですか?」
天使の声と、ザクロのような光を帯びた、悪魔の目。茶枠の眼鏡の奥から、鋼を見ている。怪訝そうに、眉を歪めている。
意味が分からない。
なんなんだ?この女。
「読めない……」
「「え?」」
「……はい?」
二人の女がすっとんきょうな声を上げ、泉里は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「は、鋼君……!」
筒地が警鐘を鳴らす。当然、鋼には聞こえていない。それどころか、今や、世界から音が、光が消えてしまっていた。
「願いが、読めない……!」
――滅多どころではない。
生まれてこの方、鋼に、願いが読み取れなかったことはなかった。
精神学者やメンタリスト等、本心を隠すことに長けている者とも大勢会ってきた。それでも、鋼に読み取れなかったことは一つもなく、間違えたこともなかった。
どんなに隠そうとしても、誤魔化そうとしても、鋼はその人物の一挙手一投足、呼吸による胸のふくらみ、心臓の鼓動、しばたかれる瞼……ありとあらゆるところから情報を得て、天性の直感で感じ取ってきた。読み取ってきた。
普通の人間が歩き、言葉を発し、人に恋をするのが普通なように、鋼にとってはそれが普通だった。生まれて二十と幾数年、変わりのない日常だった。
だが、泉里の目を見ても、髪を見ても、唇を見ても爪を見ても胸元を見ても、しまいには呼吸の間隔まで感じ取っても、一つもわからない。
わかるのはたった一つ、灰色の何かが、彼女の中でうごめいている。ただそれだけだ。
「何故だ……どうなってる……なんで何もわからない……?」
「え、ちょ……なんですか?」
自らの存在を全否定された気がした。
神はオレを見捨てたのか?こんな力を与えて、さんざん放っておいた挙句、今度はこの力さえ否定するというのか?
ふざけるな、そんなことあってたまるか!オレは願い探偵、入川鋼!願いを読み取ることしかできない、人間の出来損ない――!
鋼は混乱に陥り、なにがなんでも泉里の願いを読み取ろうと躍起になった。顔を近づけ、眼鏡をむしり取り、より近くから顔を覗き込んだ。
しかし、そんなことをしても、泉里が美しいということを余計に感じるだけだった。ザクロ色の瞳の上には、やけに長いまつ毛が伸びていて、至近距離の鋼の顔を避けるように、驚きと嫌悪をもってパチパチと瞬いていた。
「ちょっと、返してください……!」
美しい顔のまま怒り、泉里は鋼の手から眼鏡をひったくった。放心状態の鋼は、抵抗することなく眼鏡を手放した。
「なんで読めない……!」
「……はい?なんなんですか?」
「なんでお前だけ読めないんだ!」
苛立ちが募る。生まれて初めての感情が、鋼の自尊心を灼熱の炎で焼かんとしていた。
「あの女の願いは〝男にバカにされないこと〟現にオレは、あの女の喋り方がいかにバカっぽくても、直接言ってやることができない――」
真紀子を指さし、しかし泉里を凝視したまま、鋼は言った。
「はっ……!うぅぅ!ひどーい!せっかくお願いしたのに、なんでぇ?」
「――あの女は、〝巨乳になりたい〟だ。実際、立派なものをお持ちになってる」
飛鳥を指さし、しかし泉里を凝視したまま、鋼はまくし立てた。
「な、なに言ってんの⁉まじありえないんだけど!そんなわけないでしょ!」
ついでに、飛鳥の和風美人キャラが崩壊した。
「なのにあんただ!あんただけは、何にも読めない。どうなっていやがる……?」
聞き捨てならないのは、依頼主たる筒地だ。生まれついての美人かどうか判断してもらいたかったのに、巨乳の願いを何故スルーしたのか。
「ちょっと鋼君!約束が違うじゃないか!僕は、生まれついての美人かどうか聞いたのに――」
「あんたが聞いたのは美人かどうかだ。体型までは指定してなかった!願い方も、依頼の仕方も甘い。黙ってろ!」
筒地に人差し指を突きつけ、しかし泉里を凝視したまま、鋼は怒鳴った。
「え……どーゆーことですかー?」
「なに、それ……」
真紀子は泣きながら、飛鳥はこめかみを引きつらせながら、筒地を睨みつけた。
筒地はパッと口を閉じたが、もう遅い。男の不敬について、女性の勘は超が付くほど鋭い。二人とも、筒地が鋼に何を依頼したのか、瞬時に理解した。
「ぐすっ……私帰るぅ……」
「信じらんない!」
二人はあっという間に席を立ち、グラスをひっくり返そうが、机の端で足を打とうが、お構いなしに去って行った。あまりの速さに、筒地は片手をむなしく上げることしかできなかった。
自分以外に女がいなくなったところで、泉里が口を開いた。ぷるんとした唇からは、相変わらず天使のような素晴らしい声が出てきた。
「探偵……願い……あなた、まさか噂の、願い探偵?」
「そうだ。願い探偵入川鋼!お前一体、何者なんだ?」
机の上に名刺を投げ捨て、鋼はザクロ色の瞳を睨みつけた。あるいは、その輝きが宝石のように感じられ、吸い込まれるように見つめていたのかもしれない。
「ねえ、私の先輩二人を泣かせておいて、他に何か言うことないんですか?あと」
鋼の隣で、筒地がビクッと飛び跳ねる。
「あなたも、何か謝ることあるんじゃないですか?」
泉里は、女性とは思えぬ胆力で筒地を叱りつけた。
筒地は完全に縮み上がってしまい、みっともなく視線をさまよわせ、鋼に助けを求めようと、チラチラ視線を送った。
「あ……や……いや……僕は……」
あいにく、鋼は自分のことで頭がいっぱいだ。合コンが悲惨な終わりを迎えたことにも、まだ気付いていない。
「私も帰ります。さようなら」
泉里は手短に別れの言葉を告げ、さっさと席を立った。
長い黒髪が視界の端で舞い、鋼ははっと我に帰った。その時には既に、泉里の姿は居酒屋の出口に消えつつあった。
「おい……ちょっと待て……!」
こんなに気持ちの悪い存在を、放置してなどおけない。鋼の中に、焦りにも似た感情が生まれていた。邪魔な筒地を押し倒し、泉里を追いかけんと息巻いた。
「ちょ、ちょっと!困るよ!」
そうは問屋が卸さないのが筒地だ。三十万を払ってこの体たらく。腹が立つのも当然だろう。鋼の胸ぐらにかぶりつき、唾をまき散らして訴えた。
「三十万払ったんだぞこっちは!なんてことしてくれたんだ!なんでもわかるのが願い探偵じゃなかったのかよ!」
「あぁ⁉うるせえな!」
「うるさいじゃない!俺の――」
「金なら返してやる!こんなもん……!」
鋼はたった一ひねりで筒地を引きはがし、机の上に顔を押し当てた。さらに、その上から三十人の諭吉を叩きつけ、口の中に押し込んでやった。
「お前のことなんかどうだっていい!こっちはそれどころじゃねえんだよ!」
どこだ?
どこに行った⁉
鋼は戦々恐々としながら走った。
あんな女の存在を認めたくなかった。
これは何かの間違いだ。もう一度、じっくり見ればわかるはずだ。
そんな、鋼にとってあるまじき、淡い感情を抱きながらひた走った。
「はあ……」
泉里は憤慨していた。
元々、合コンなどに行く気はなかった。
しかし、同じサークルの先輩から、人数合わせにどうしても、と言われ、断れなかった。
どうも、金持ちの証券マンを紹介してもらえる、とかなんとかで、二人の先輩はかなり息巻いていたのだ。大学在学中から、玉の輿を狙っていたらしい。だったら、何のために親のすねをかじってまで大学に行っているのか、泉里には到底理解が及ばない。
私なんて、奨学金借りてなんとか通ってるのに……。
その上、なんで先輩が先に帰ることになるのか、納得がいかない。というか、あんなところで腹を立てるなんて、〝あなたの言う通り、私の願いはバカにされないことです〟〝私は神様に巨乳にしてもらいました〟と白状しているようなものだ。あの入川とかいう探偵の言うことに証拠なんてないのだから、白を切り通せばいいのに。
「あーあ、バカらし」
なんで私が、男どもに言ってやらなくちゃいけないわけ?
店から五、六百メートルは離れただろうか。夜に更け込む前の商店街は、人で溢れている。
泉里はポーチからスマホを取り出し、なんとなくインスタやツイッターのタイムラインを眺めてみた。特にこれといった情報はな――
「おい!あんた!よかった、見つけた!」
背筋がゾクリとした。泉里は肩に置かれた手を振り払い、スマホをポーチに突っ込んだ。
「ちょ、ちょっと、なんなんですか?」
「いやいや、ちょっと待て、待ってくれ!」
「イヤです!」
まさか追ってくるなんて!信じられない!
泉里は鋼の顔を見ないようにして、一心不乱に歩き始めた。
「おい、ちょっと、ちょっと待ってくれって!」
鋼は必死の形相で追ってくる。。恐怖を感じた泉里は、金切り声を上げて拒絶した。
「イ!ヤ!で!す!ついてこないで!」
こうなったら、もう走るしかない!
泉里は決死の思いで駆け出したが、残念ながら鋼は誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない男だった。振り切ることができない。
「いいか!よく聞いてくれ、オレは願い探偵、入川鋼だ。人の願いを読み取ることができる」
「知りません!」
ごった煮のようにせめぎ合う人の波を、泉里はスルスルとすり抜けていく。
「オレが今まで、願いを読み取れなかったことは一度もない!あんただけ!あんただけなんだ!」
「知りませんってば!」
鋼は力技で人波を押しのけ、食らいついてくる。泉里が右へ曲がれば右から回りこみ、左へ曲がれば左から回りこむ。
「ちょっと待てって!」
鋼は勝利の雄たけびを上げた。追跡を開始して六分四秒、ついに捉えたのだ。
今度こそ振り払われないよう、泉里の肩をがっちりとつかんだ。泉里の肩は細く、弱々しかった。
だからこそ、振り向いた時の泉里の視線に、鋼はおののいた。あれだけ力をこめていたのに、思わず手を離してしまったほどだった。
「なんなんですか!もう!」
鼻息荒く、泉里は怒った。
「いや、だから……」
その姿さえ美しく、鋼は言葉を失った。ザクロ色の瞳が、鋼の目を捉えて離さなかった。
泉里からすれば、真っ黒な瞳でじっと見つめられ、気持ち悪いことこの上ない。
「あなたが願いを読み取れるとか、どーでもいいんです!私、怒ってるんですよ?」
「……は?」
人目をはばからず、泉里は大声を上げた。あれだけ周りを埋め尽くしていた通行人たちは、徐々に距離をとり始め、二人の周囲だけ、ぽっかりと空間ができる。
「怒ってるんです!あんなに失礼なことを、よくもずけずけと言えますね!だから探偵って大っ嫌い!人の生活がどうなろうが、全然お構いなしなんだもの!」
「な……あのなぁ!こっちにだって生活かかってんだ!それに、度を過ぎた依頼は受けない!オレが受けるのは、あくまで――」
「さっきのが度を過ぎてないって言うなら!あなたの感覚は狂ってます!」
「狂っちゃいねえぞこのアマァ!ほんの少し顔立ちがいいからって、調子に乗るなよ!第一、その顔だって、願いで綺麗になったのかどうか、わかったもんじゃねえ!」
売り言葉に買い言葉。二人の言い合いはどんどん過熱していく。
「そんなに言うなら、見てみればいいじゃないですか!ほら!」
泉里は茶枠の眼鏡をはずし、ザクロ色の瞳を覗かせた。
その瞳とどれだけ視線を交わしても、相変わらず鋼には願いが読めない。
願いをかなえていない人間は、スッカラカンの状態に見えることが多い。何の引っかかりもなく、その人物そのものが見える。
しかし、この女の中には、灰色の何かが渦巻いている。それしかわからないが、おそらく、何らかの願いをかなえているはずなのだ。
「どうですか」
読めない。ザクロ色の瞳からは、何も。
「何かわかりましたか!」
読めない。ぷるんとした唇からは、何も。
「どうなんですか!」
読めない。艶やかな黒髪からも、何も!
「あぁもう!わかるかぁ!」
何一つ、読めやしねえ!
読めない。読めない。読めない……。読めないが、一つだけわかったことがある。
オレはこの女が、大っ嫌いだ!
「もうよろしいですね。私、帰ります」
凛々しい表情を崩すことなく、泉里は眼鏡をかけなおした。
いや、待て、それは困る。こんな不完全な状態で帰られたら、今後の職務に影響が出かねない。
「待て待て待て待て、そうじゃねえんだ!そうじゃ!」
願いを読み取れない人間だぞ?もしそんなのが、今後もウジャウジャと湧き出てきたらどうする⁉商売あがったりだ、路頭に迷う、鮫島のところで寝起きして、マスターのスコッチだけを飲む羽目になる!
「……」
一度怒りのスイッチが入った女性は、銃を持った男より怖い。泉里はポーチの肩ベルトをむんずと掴み、鋼などまるでそこに存在しないかのように歩き続ける。
「おい待てって!なあ!」
大通りの信号に捕まり、泉里は立ち止まらざるを得なかった。
「頼む、なんで願いが読めないか教えてくれ、どういうことなんだ」
しかし、無視。
「あんたみたいなやつが――あなたみたいな人がたくさんいると困るんだ。せめて原因究明、もしくは何の願いをかなえたのか――」
しかし、不動。
「――なあ、それくらい、教えてくれてもいいだろう?」
「あ、危ないですよ」
スマホでゲームをしながら歩き出す中年サラリーマンを、泉里は引き留めた。直後、信号無視をしたトラックが通り過ぎ、青になった歩行者用信号が顔を覗かせた。
「どうも」
会釈し、歩き出したサラリーマンを見送ると、泉里はクルリと顔を回し、にっこりと、その日初めて笑った。
「ですから――」
泉里のことが大嫌いな鋼でなければ、その笑顔は、天からの贈り物だと思ったことだろう。
「――それが、プライベートに踏み込むってことじゃないですか?」
その間に、泉里は反対側に渡ってしまった。
あっという間の出来事だった。