第十九章 死の匂い
真っ暗なコンテナの中で、興梠泉里は息をひそめていた。
突然突き上げられるような振動が来たかと思えば、子気味に上下に揺れ、最後は急降下で地面に叩きつけられた。車の時と違い、手枷も足枷もなかったが、外の世界が見えないばっかりに、ろくな受け身もとれず、体のあちこちに打ち身ができていた。
次はいったい、どんな衝撃が自分を襲うのだろうか。疑心暗鬼に陥っていた泉里にとって、鋼がもう一度助けに来てくれるなんて想像は、少々無理な注文だった。
「泉里ぉ!」
パッと陽の光が差し込み、すぐに遮られた。
遮ったのは他でもない、入川鋼だった。
「は、鋼さん⁉」
膝を抱えていた泉里は、慌てて立ち上がった。
あの、青い目をした怖い男をやっつけてくれたのかもしれない。そんな、淡い希望を抱いて。
しかし、鋼の口から飛び出してきたのは、厳しい判断を迫られる言葉だった。
「いいか!すぐにここから逃げ――」
それさえも、中途半端に途切れた。
鋼の姿が視界から消え、泉里はコンテナの出入り口に駆け寄った。
いきなり甲板の上に躍り出たとか、波の音が聞こえるとか、そんなことはどうでもよくなる異常現象が、目の前にあった。
サイモンが鋼の右足首だけを掴み、その体を高々と掲げていたのだ。
「ぬうん!」
サイモンの腕は、別に太いわけでも筋肉質なわけでもない。単純な筋力だけなら、あの無言の男の方が遥かに勝っているだろう。
しかし、サイモンはまるで野球ボールでも投げるかのように、軽々と腕を振った。
鋼の体は宙を舞い、甲板の端っこまで飛んでいった。
「鋼さ――!」
反射的に声が出てしまい、パッと手で覆った。
サイモンがギロリと振り向き、冷たい青色で睨みつけてきた。鋼にやられたのか、短めの金髪が乱れ、鼻から血を流していた。
外国人の腰ベルトに黒い拳銃が差し込まれていることに気付き、泉里は手で口を覆ったまま、コクンコクンと頷いた。
サイモンは舌打ちをしただけで、それ以上の追及をしてこなかった。今片付けるべきは、目の上のたんこぶになりつつある願い探偵だ。
「はあ……邪魔をしないでくれるかな、入川鋼君!あと六分で――こっちは出港なんだ。お願いだよ」
「あぁ⁉なんか言ったか?」
脳震とうを振り払いながら、鋼はよろよろと立ち上がった。身勝手な願い事をされ、願い探偵は頭に来ていた。
「オレをあのクソったれの神と一緒にするな!誰がてめえの願いなんざ聞くか!」
「ならばしかたない」
すました顔をして言うと、サイモンは手近なコンテナに手をかけた。
何百キロあるのか鋼には見当もつかないが、それは軽々と持ち上げられ、そして、こちらに向かって飛んで来た。
「マジか……よっ!」
鋼は横っ飛びに避け、コンテナは甲板に穴をあけながら、ゴウンゴウンと転がった。ぞっとしたのは、コンテナが跳ねるたびに、若い、女性の悲鳴が聞こえてくることだった。
「まさか……」
コンテナは別のコンテナに当たってようやく止まったが、当たった方も、当てられた方からも、同じように悲鳴が上がり、しくしくと泣く声まで聞こえてきた。
「まさか……!」
鋼は信じられない思いでコンテナを見た。信じたくない気持ちで甲板を見回した。
船上には、フォークリフト等の重機や、バイク、車、人さらいたちの荷物が所狭しと並べられている。その合間あいまに見えるのが、大小さまざまのコンテナだ。泉里の入っている物も含めて、十四、五のコンテナが確認できた。まさか、これが全部、そうだって言うのか⁉
「はっはっはっはっはっ……」
サイモンは笑っていた。その満足そうな表情に、鋼は吐き気をもよおした。
「その通り。そのまさかだ!ここにあるのは全部、我々の商品だ!」
「まだ生きてんだろうが……二度と投げんじゃねえ!」
「品質を憂いてくれるなんて嬉しい限りだ。だが心配はいらない。我々の取引先は色々あってね。もちろん、うら若き乙女をお求めの政財界の大物もいるが……今回は、どれだけ怪我をしてもかまわない。中身さえ無事なら、ね」
「なぁにぃ……?」
「世界には!どんなに汚い金を払ってでも!生き延びたいと思っている人間がごまんといるのさ!どれだけ捌いても、どれだけ値段を吊り上げても、需要がなくなることはない!」
サイモンは手近なコンテナを次々と掴み、激しい口調とともに飛ばし始めた。
願いの力が無ければ、鉄の塊であるコンテナを受け止めることはできない。鋼はしかたなくよけ続け、コンテナの中から聞こえてくる悲鳴に耳を塞いだ。
「くそ!もうやめろーっ!」
三つ目のコンテナが右頬をかすめた時、鋼は加速した。泉里を連れて逃げるつもりだったが、コンテナの中に人がいるとなれば、このまま見捨てていくことはできない。
「ふっははは!お人よしの探偵め!」
近づいてきた鋼に対抗するため、サイモンは黒いバイクを持ち上げた。青い目がランランと光り、残忍な笑みがより一層強調されている。
鋼はスライディングし、真横に薙ぎ払われたバイクをやり過ごした。鼻先スレスレを、バイクの後輪がかすめていく。
「おら!」
滑り込んだ勢いで、サイモンの足を引っかけ、転ばせた。
サイモンは慌てふためき、バイクから手を離した。バイクは突然質量を取り戻し、甲板に大きな凹みを作った。
「おぉら!おら!」
鋼は倒れたサイモンにエルボーをぶちかまし、馬乗りになってぶちのめし始めた。右に左に頬を殴り、奥歯が飛び出してくるまで力をこめた。
サイモンも黙ってはいない。折れてしまった歯をペッと吐き出し、鋼のパンチを受け止めた。
鋼の顔が、しまった!と歪んだ。
まさにその通り。手で握ってしまえば、サイモンのものだ。
「ぐ……ぐぐ……!」
どれだけ力をこめても、サイモンの手はビクともしない。願いの力によって、サイモンは今、入川鋼という人間を持ち運んでいるのだ。
「俺はペッグとは違う……時に、負ける時もある……」
サイモンは鋼の両手を掴み、ギリギリと外に向けて開いて行く。
「だが、ひとたび俺の手にかかれば……誰も、逆らうことはできない!」
がら空きになった鼻先に、サイモンの頭突きが飛んで来た。鋼は顔をそらしたが、両手を封じられていては、満足にかわすことができない。
「ゔっ……!」
目の中で星が飛び、鼻の奥がじわっと熱くなった。
そうやって鋼が怯んだ隙に、サイモンは体を起こした。鋼をなんなく持ち上げて、ジャイアントスイングの要領で投げ飛ばした。
「うゔっ!」
鋼はものすごいスピードで飛んでいき、泉里のコンテナに当たって止まった。
「鋼さん!」
甲板に落ちた鋼に、泉里が駆け寄ってくる。
「鋼さん!鋼さん!」
「う、うぅ……」
泉里の肩に手をかけ、鋼はなんとか立ち上がった。鉄の塊に全身をくまなく打たれ、骨の髄まで震えた。
「泉里……泉里、ここから逃げろ……」
「そんな……でも……」
「何人いるのかわかったもんじゃねえ。置いて行けるか。〝匂い〟、するんだろ?」
鋼の問いに、泉里は黙って頷く他なかった。ほぼすべてのコンテナから漂ってくるそれを、無視することはできなかった。
「あそこに縄梯子がある……あれを使って、下まで降りろ。警察を呼ぶんだ!」
ほんの数秒、二人は熱く見つめあった。これが今生の別れのように、情熱的だった。
二人だけにわかる言葉を交わし、鋼はサイモンへ、泉里は縄梯子へ、それぞれ走った。
「おいおい……逃がすものか!あんただけは!逃げられちゃ困るんだ!」
サイモンは怒り、甲板に横たわっているバイクを片手で掴んだ。
泉里は鋼のことを信じていた。だから、サイモンの動きを一切見ることなく、甲板の端に引っかかっている縄梯子を目指した。
「うおおおぉぉぉぉ!」
鋼はタックルを繰り出し、サイモンの腰にかぶりついた。その強烈さで、バイク投げを阻止した。
サイモンは左手にバイクを持ったままひっくり返り、バイクは甲板に突き刺さった。
「おっと!」
あの手に掴まれたらお終いだ。鋼は同じ轍を踏まないよう、手短に用件を終えて距離をとった。
サイモンはバイクを投げつけようとしたが、甲板に引っかかり、なかなかうまくいかない。なんとか引き抜こうとしている間に、鋼の飛び膝蹴りに襲われ、顔が九十度右を向いた。
「くっ……!」
鋼は再び距離をとり、サイモンの手が空を切る。
絶対に掴まれないよう、鋼の一撃離脱戦法が続く。
泉里は甲板から下を見下ろした。四メートルほど降りればいいだろうか。少しの身震いを感じたが、一刻も早く降りて、助けを呼ばなくてはならない。深くふかく深呼吸して、そっと右足をかけた。
鋼に四回も五回も蹴られ、サイモンの怒りが頂点に達した。無理やり力をこめ、甲板を破壊しながらバイクを引き抜いた。
「ふんぬあ!」
バイクは地を這うように飛び、鋼の腰を砕かんと唸りを上げた。
しかし、鋼は持ち前の身体能力をいかし、大跳躍を見せた。バイクを飛び越え、コンテナの壁を蹴り、斜め上からサイモンに襲い掛かった。そのまま一回、二回と回転蹴りを食らわせ、船主の方へ追いやっていく。
サイモンは心底参っていた。入川鋼という人間が、想像よりはるかに強かったこと。願いを熟知しているせいで、自分の不利な状況に追い込まれていること。そして何より、商売の一番の障害であった泉里が、まんまと逃げおおせていること。
その、全ての劣勢を覆すには、残された手段はそう多くなかった。だから、自分の命を危険にさらしてでも実行することにした。
甲板の端にある手すりを、サイモンは握りしめた。
その瞬間、船はきしみ、海は泡立った。
追加の回し蹴りを準備していた鋼は、思わず立ち止まってしまった。
船体が震えている。そんなことまで、可能なのだとしたら――
「滅茶苦茶だぜ、おい――」
サイモンはニヤリと笑い、手すりを持ったまま飛び上がった。その瞬間、サイモンは〝船に乗っている者〟から、〝船を持っている者〟に変わった。
「ふん!」
船主が持ち上がり、甲板は斜めになる。鋼は立っていられなくなり、船尾付近にある船橋まで滑っていった。何度も甲板に食らいつこうとしたが、船の角度は直角近くまで上がっており、捕まることなど不可能だった。
「きゃあ!」
泉里は死に物狂いで縄梯子にしがみついた。突然船が傾き、あわや海に放り出されるところだった。
「はあ……はあ……はあ……鋼さん……!」
甲板の上から、積載されたものが転げ落ちていく音が聞こえる。
ザクロ色の瞳が、心配そうに揺れていた。
鋼は頭上から降ってきたコンテナを左にかわした。今度はフォークリフトが落ちてきたので、先ほどのコンテナに飛びつき、よじ登ることで事なきを得た。
その後も、次々と荷物が降ってくる。ところどころに悲鳴を混じらせながら、船橋に落ちていく。
「ふはははは!はーっはっはっはっ!」
船主にぶら下がって鋼を見降ろし、サイモンは狂ったように笑った。
それを見て、鋼は次に起こることを悟った。避けようのない大惨事が、もう一度来る。
「わかってるじゃないか!そうだ!その通りだ!君は死に、私はあの娘を取り返す!さらばだ!入川……鋼君!」
サイモンは躊躇などしなかった。渾身の力をこめて両手を引き下ろした。
鋼は、世界がひっくり返ったのかと思った。
甲板がものすごい勢いで元の位置に戻り、突然足場を失った荷物たちは、空中に浮いていた。
鋼も例外ではなく、十メートルも高く放り投げられる形になっていた。
「きゃあぁぁぁ!」
視界の端で、泉里も宙に跳ね上げられているのが見えた。だが、彼女は縄梯子をしっかりとつかんでいる。着地の衝撃があるだろうが、大丈夫だろう。
問題なのは自分だ。
このままの速度で、この高さから甲板に落ちれば、最悪死ぬか、よくて数日動けなくなる。そうなれば、サイモンは自由になり、泉里を手中に収めるだろう。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。それだけは、絶対に。
「はっはっはっ!死ねえぇぇぇ!」
サイモンは船主にしがみついたまま高笑いしている。船の揺れによる波でびしょ濡れになっても、お構いなしだ。
まだだ、まだ気付いていない。
鋼はバタバタとはためくコートに手を突っ込んだ。
そして、サイモンから奪い取った拳銃を取り出した。
「何ぃ⁉」
サイモンは目を見開いた。
そんなバカな。そんなことがあるか!あれは、あれは俺が――
「はっ!」
――今さらになって気付いた。さっきタックルをしてきた時、あの男、腰のあたりで何をしていた⁉
「もう遅い!」
大量の荷物と共に落下しながら、鋼は銃を構えた。
サイモンは何もない腰をまさぐっている。
コンテナが、フォークリフトが、バイクが……次々と視界に入り、鋼よりも先に下に落ちていく。
これが常人ならば。落下しながら姿勢を維持することも、ごちゃごちゃした視界の中で狙いを定めることも、死への恐怖に打ち勝つことも……何一つ、できはしなかっただろう。
しかし鋼は、入川鋼は、誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない男だった。
だから、空中でもピタリと姿勢を維持していた。
だから、一心に見つめていた。
そして、迷いなく引き金を引いた。
「あばよ」
サイモンが倒れる。
積み荷が、次々に落ちていく。甲板に跳ね返る。
仕事をやり終えた願い探偵が、天から墜ちてくる――。
船は傾いた時と同じように、突然元の位置に戻った。
「あぅぅ!」
泉里は縄梯子に振り回され、船体に頭を強打した。
縄梯子のロープが片方ちぎれてしまい、もうすぐで振り落とされるところだ。なんとか離さずに済んだ右手に力をこめ、すぐに左手を添えた。
「はあ……はあ……はあ……」
プラプラと不安定に揺れる足場に片足を乗せたが、落ち着いてはいられない。心臓がまだバクバクしている。あんなに高いところを飛んでいたなんて、未だに信じられない。
甲板で、たくさんの轟音が鳴っていた。誰かが散弾銃でも撃ったみたいに、バンバン、バラバラ、鳴り続けていた。
最後に一つ、ひときわ大きな音が鳴った時。
泉里は、胸が締め付けられるような思いに駆られた。
「……鋼さん!」
鼻の奥をついて離れなかった。
泉里は片方しか残っていないロープを引っ張り、引っ張り、何度も引っ張り、甲板へと這いあがった。
「あー……あぁ……」
愛しい探偵は、甲板の上に大の字になっていた。苦しそうに深い呼吸をして、立ち上がろうともがいている。
左の方に目をやると、サイモンが腹から血を流して倒れているのが見えた。
本来ならば、こんな状況で〝死の匂い〟がするはずはない。だって、鋼は敵を倒し、生きているのだから。
それでも、これだけ強く感じるということは――その理由は一つしかなかった。
サイモンが、しぶとく生き残っているのだ。
「うぅ……!」
脇腹を押さえながらも、サイモンが立ち上がるのが見える。鋼はまだ横たわったままだ。
「鋼さん!」
泉里はその名を呼んだ。サイモンが、傷だらけになったバイクを持ち上げようとしていた。
天使のような声を聞き、鋼は息を吹き返していた。
すぐに顔を上げ、サイモンが今まさにバイクを投げつけんとしているところを見た。見て、膝に手をかけ、立ち上がった。
誤算だったのは、ここまで連戦続きだった自分の体が、とうに限界を迎えていたことだった。
鋼の足首はまるで言うことを聞かず、グネリと嫌な音を立ててひん曲がった。
バイクが飛んでくる。よけなければ下敷きなるのが、嫌でもわかる。
それなのに、自分はまだ甲板に膝をついたままだ。手をつくことすらできていない。
来る。
死の匂いなんてわからなくても、わかる。
オレは死ぬ――
「えっ――」
優しい衝撃に、鋼はすっとんきょうな声を上げた。
自分を跳ね飛ばしたのは、傷だらけのバイクではなかった。
泉里だった。