第十五章 完璧なバイクテクニック
鋼は新道の顔に手を当て、そっとまぶたを閉じてやった。
周囲は相変わらず騒然としていたが、そんなことはどうでもよかった。
「探偵!」
突然声をかけられ、鋼は顔を上げた。
事故現場を取り巻いている人だかりの最前線に、一台のバイクが停まっていた。それにまたがっているライダーが、鋼を呼んだのだ。真っ赤なバイクに、真っ赤なライダースーツ、これまた真っ赤なフルフェイスのヘルメットをかぶっており、顔を拝むことはできない。
ライダーは、鋼が涙を流していることに気付き、驚き、ヘルメットのバイザーを上げた。
そこから見えたそばかすで、鋼は、そのライダーが梅木九次であることを知った。新道の頭をゆっくりと地面に寝かせ、すっと立ち上がった。悲しみと怒り、後悔と使命感に打ち震え、体の痛みを忘れていた。
「何があったんだ、探偵……あの人は――」
近づいてきた願い探偵に、九次は問うた。
「泉里がさらわれた」
鋼は言った。
有無を言わせぬ力強さだった。
九次は、その言葉に嘘偽りがないことを思い知った。
コートのポケットが震えたので、鋼は杠のスマホを取り出した。九次の目をじっと見つめたまま、耳元に当てた。
〔あぁ、やっと出てくれた……!鋼さん?鋼さん……?はが……聞いてるんですよね?聞いててくださいね!人さらいの行き先、鮫島さんが読んでくれたんですよ!言いますよ!〕
スマホの向こう側からは、不安そうな杠の声が聞こえてきた。
〔港っす!港にある、三番倉庫っ!俺たちも今向かってます。お願いします。届いてください。鋼さ――〕
九次の目を見つめたまま、鋼はゆっくりとスマホをおろした。
二人の間だけ、風はやみ、音は消えていた。
涙の跡は、もう乾いていた。
「頼む。オレを港まで連れて行ってくれ」
九次は、頭の後ろの方からサイレンの音が近付いてくるのを感じていた。
目の前の交差点では、信号機が、青から黄色、黄色から赤に変わっていく。
「今警察につかまったら、事故処理と事情聴取で、身動きが取れなくなる。頼む――」
サイレンの音に負けないよう、鋼は声を張り上げた。
〔パトカー通ります。道を開けてください。道を――〕
車載スピーカーの音が、どんどん近付いてくる。緊急配備で出動中だった警察官たちが、四方八方から集結しつつある。
「――泉里を救えるのは、オレしかいない!」
九次は、梅木九次は、頷かなかった。
パトカーの目の前で逃げ出せばどうなるのか、よくわかっていた。
追われ、回り込まれ、検問を張られるだろう。どこまでも、いつまでも、パトカーに、白バイに、覆面車両に、小さな原付に、追い続けられるだろう。
だから、自分しかいないと思った。
警察の追跡から逃げきれるのは。
「乗れ!」
九次の言葉を聞くや否や、鋼はバイクの後部座席に飛び乗った。にっくきライダーの腰に手を回し、しがみついた。
モトクロッサーほど小さくはないが、オフロードタイプの、ほっそりとしたバイク。しかしこれは、バイク好きの九次が自分でカスタマイズした特別仕様だ。
〔ご協力ありがとうございます〕
人と車の波を抜け、一台のパトカーが、ぬっと顔を出した。助手席のドアが開かれ、一人の警官が現場に足を下ろした。
「おい、無線で報告してくれ」
運転席の上司にせかされ、若い警官は無線を握った。
助手席ドアに片手を乗せ、現場を見渡したその時。目の前で、二人乗りの真っ赤なバイクが走り出した。
「おいなんだ!おい、待て!」
上司がすぐさま車載マイクで叫んだが、バイクは聞く耳を持たず、ぐしゃぐしゃに横たわっている二台の車の間をすり抜け、交差点の向こうへ消えていった。
若い警官は焦り、どもりながら無線報告した。
〔え、えっと、人傷現場から、赤色バイクがいちっ、一台逃走!二人乗りで、えー、後ろに乗っている人は、ヘルメットの着用なし!〕
緊急配備を命ぜられ、とある交差点で駐留警戒している覆面パトカーの車内で、慌ただしい無線が鳴っていた。
「おーおー、今度はなんだ」
「事故の関係者かどうか流せよ。一般人かもしれないだろうが」
ベテラン刑事二人は、シートを倒し、鼻くそをほじりながら無線を聞いていた。まったく、これだから若い奴は困る。ほとんどの大人がつく悪態を、口の中で繰り返しながら。
「だよなぁ。事故は黒いミニバンで入ってんだろ?そっちが逮捕監禁の容疑車両なんじゃ――」
「たしかに、そっちの確認が先――」
二人の言葉は、そこで打ち切られた。
目の前を、二人乗りの赤いバイクが駆け抜けて行ったのだ。
刑事はバタバタとシートを起こし、鼻くそをその辺に弾き飛ばした。
サイドブレーキを解除し、シフトレバーをドライブに入れ、アクセルをべた踏みにして追いかける。
助手席にいた方は、覆面用のパトライトを天井に押し上げ、無線機を乱暴につかんだ。
「中央54、先報告のバイクを発見!これより追跡開始!」
サイレンの音が響き渡り、前方を走る九次たちの耳に飛び込んできた。
「あぁ⁉」
九次の腰にしがみついたまま、願い探偵は頭だけで振り返り、唸った。
くそ、覆面パトカーだ。サイレンを鳴らしているところを見ると、さっき事故現場に来たパトカーが、オレたちを手配しやがったな?
「掴まってろ!振り切る!」
ヘルメットに邪魔され、くぐもってはいたが、九次の声は頼もしかった。
鋼は返事をする代わりに腕に力をこめ、振り落とされないよう、ガッチリと巻き付いた。
それを確認すると、九次はアクセルをぐっと回した。爆音をたてながら、バイクは加速していく。
これから侵入するであろう交差点の信号は、赤い色のまま動かない。新道のいなくなった今、都合よく青に変わることは二度とない。
九次はカっと目を見開いた。
常人を遥かに超える反射神経で、右に左に行き交う車の軌道を見切った。信号を無視して交差点に進入し、体を右に、左に振っていく。
鋼は持ち前の身体能力でその動きについて行き、バイクの方向変換に一役買って出た。多くの車に急ブレーキをかけさせながら、それでもなお、一台ともぶつかることなく、バイクは交差点を縫うように駆け抜けた。
背後では、覆面パトカーが急ブレーキをかけて止まる音がしていた。
〔緊急車両通ります!道を開けてください!道を開けて!〕
交差点は九次にひっかきまわされ、てんやわんやの大騒ぎだ。たくさんの車が立ち往生し、お互いの進行方向を妨害してしまっている。前にも後ろにも動けず、覆面パトカーは追跡中断を余儀なくされた。
九次はクラッチを握り、ギアを上げた。バイクはさらに速度を増し、ぐんぐん南に向かって進んで行く。
途中、幾数台ものパトカーに見つかり、追いかけられたが、その度に九次は狭い路地に入り、巧みに振り切った。
九次のバイクセンスをもってすれば、車幅ギリギリのわき道を抜けるのはもちろん、小さな段差や緩やかな階段、背の低い障害物なども朝飯前だった。乗っているバイクがモトクロッサーでなくとも、後ろに鋼を乗せていても、見事なテクニックでバイクを操り、段差を乗り越え、階段を駆け下り、背の低い障害物を飛び越えた。
そうして、ひたすら港を目指して爆走した。
やっかいだったのは、パトカーより車体の小さい、白バイだった。
甲高いサイレン音をまき散らす彼らは、地獄の訓練を積んできた専属の隊員だ。その練度は圧巻の一言で、また、白バイ自体の機動力がすさまじい。九次が車の間を縫うように走っても、彼らは同じようについてくる。
当然、排気量ではオンロードタイプである白バイに軍配が上がる。九次がどれだけアクセルをふかしても、白バイを振り切ることができない。
「くそっ……!どうしたら」
走行中の接触は危険なため、白バイ隊員たちも手を伸ばしてくることは無い。かといって、正義の執行者たる警察官を蹴り倒すわけにもいかず、鋼は苛立ちを隠せずにいた。
気付けば、三台もの白バイが、鋼たちのあとをピッタリとつけていた。
「まずいぞ……探偵!」
後ろばかり見ていた鋼に、九次が声をかけた。
その言葉に引かれ、前を向いた鋼は、とんでもないものを目にした。
「バリケードか……!」
この街は、大きな三角州の形をしている。ところどころに一級河川とその支流が流れており、土地と土地を分割しているのだ。港のあるエリアも例外ではなく、街の中心部から向かうには、中央にアーチが飛び出している、大きな橋を渡らなければならない。
その橋の上に、作られていた。
二車線の道路にパトカーを横向きで並べた、巨大なバリケードだ。
白バイ隊員たちの報告を聞いて、先回りされたのだ。絶対に橋を渡られないよう、上下線両方に作られている。
「くっそが……!」
鋼は悪態をついた。この様子だと、8140のミニバンは既に橋を渡ったようだ。無能警察め、何故映画やドラマになると、お前たちは仕事をしない?
腰に回された腕の力が、徐々に抜けていくのを、九次は感じていた。さすがの願い探偵も、この状況に諦めを感じずにはいられなかったということだ。
それもそのはず、バリケードに使用されているパトカーは、上下線合わせて四台。互い違いに並べられ、すり抜ける隙間がない。そして、パトカーの向こう側には、たくさんの警官が待ち構えている。バイクを捨て、徒歩で突破を試みても、必ず捕らえられてしまうだろう。
しかし九次は、鋼に負けず劣らず、泉里のことが大事だった。幼いころからよく遊び、語らいあってきた仲だ。さらわれた理由など知らないし、港に入った後、どうなるのかも知らない。だがそれでも、ここを突破しなければならない必要性を、ひしひしと感じていた。
「おい探偵!――」
意を決して、九次は叫んだ。
半ばあきらめていた鋼は、ダラリと首を傾けた。
「――俺を信じろ」
静かな言葉の後、鋼の腕に、再び力がこもった。それをOKの合図と捉え、九次は加速した。大きな大きな橋のたもにたどりつき、スピードを緩めることなく進んで行く。
〔止まれぇー!止まりなさい‼〕
拡声器の音が、白バイのサイレンの合間に割り込んでくる。赤いパトライトの光が、真っ赤なバイクを真っ赤に塗りつぶさんと待ち構えている。
〔止まりさぁい!止ま……えぇえぇえええ!〕
九次の答えはこうだ。
わずかな段差でバイクを跳ね上げ、橋の中央に飛び出しているアーチに乗り移ったのだ。
後ろから追いかけてきた白バイ、いつの間にか四台に増えていた彼らは、バリケードに阻まれ、止まらざるを得なかった。
四台分の急ブレーキを置き去りにして、九次はアーチを上っていく。
下でバリケードを作っている警察官たちは、一人残らず口をぽかんと開け、非日常な曲芸を見ていた。
太陽の光に邪魔され、警察官の目から、真っ赤なバイクが一瞬だけ姿を消した。
しかし、わずか数秒後、アーチの下り坂を、赤い閃光が駆け抜けて行った。アスファルトに難なく着地すると、エンジンを唸らせて遠ざかっていく。
拡声器を持っていた警官は、あまりの衝撃で拡声器を取り落としてしまった。キィン!と悲鳴のような音が鳴り、その場にいた全員がハッと我に帰った。
「おい!パトをどけてくれ!」
「早くしろ!」
「うちがさきに!」
「何やってんだ!こっちが出るって!」
こんな時まで発揮される、日本人の美徳。
余計な譲り合いにより、バリケードが解かれたのは十数分も経ってからだった。
九次と鋼は、誰にも追跡されることなく、港にたどりついた。