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第十三章 追跡

 ミニバンはうなりを上げて突き進む。

 交通量の多い市街地の道を、縫うように走る。

 新道の熟練された運転技術により、ミニバンは、ミラーすれすれのところで他車をかわしていく。警察官として、常日頃からミニパトを運転していた経験のなせる業だった。

 おまけに、新道の願いは〝絶対に信号に引っかからない〟だ。ミニバンが交差点に差し掛かる度、信号機が絶妙なタイミングで色を変える。

「8140……8140……黒のミニバンだ……」

 ぶつぶつ言いながら、鋼は右に左に視線を走らせた。この男にかかれば、すれ違う車全ての特徴を事細かにとらえることが可能だった。たとえそれが、片側三車線の大通りを走る、何十、何百の車であってもだ。

 ミニバンのアクセルが緩められたことは一度もなく、下道にも関わらず、そのスピードは時速百キロを超えようとしている。車内からは、街路樹や電柱がしなって見える。願いの力によって、信号は次々に青に変わっていく。

「鋼君、僕のスマホ、ちょっと110番かけてくれないかな」

 新道は右手でハンドルを握りながら、左手でスマホを差し出した。鋼は今まさに自分たちが追い抜いかんとしている車のナンバーを瞬時に読み取り――こいつも違う――スマホを受け取った。

 コンマ一秒でも無駄にしないよう、スマホと窓の外を交互に見ながら、緊急通報の項目をタップした。ここだけは、パスワードを知らなくても入ることができる。

「できたぞ!」

 110番を押した後、Bluetoothで繋がった車のスピーカーからコール音が聞こえてきたので、鋼はスマホをコンソールボックスに投げた。いちいち手渡していたら、運転の邪魔だ。

〔はい、110番、警察です。事件ですか、事故ですか〕

「中央署の新道です!指令官の榎田(えのきだ)はいますか!」

 新道はフロントガラスに唾を散らしながら叫んだ。普段の温厚さは鳴りを潜めていた。

〔は、はい……本日出勤ですが……〕

「代わってくれ!同期なんだ!」

〔これは緊急回線です。用件があれば警電(けいでん)でお願いします。不要不急の通報は――〕

「緊急事態だから言ってるんだ!つべこべ言わずにさっさと代われ!」

〔はっ、はいぃ……!〕

 新道がこんなふうに怒鳴るなんて、思いもよらなかった。さすがの鋼も恐れおののき、怒れる新道から逃げるように、助手席のドアにへばりついた。

「あー……」

 何か声をかけるべきか迷ったが、新道はイノシシのように鼻をふんふん鳴らしている。触らぬ神に祟りなし。それに今は、よそ見をしている場合ではない。

〔代わったぞしんちゃん、なんだ〕

 車のスピーカーから聞こえてきたのは、落ち着いた、渋みのある声だった。おそらくこれが、新道の言う同期なのだろう。

「えのちゃんゴメン!いちいち下の人を通してるヒマがなかったんだ!」

〔どうした、そんなに慌てて――〕

緊配(きんぱい)発令してくれ!人さらいだ!目の前で見た!」

 言うが速いか、新道はハンドルを急に右に切った。信号無視をして突っ込んできた、バカなバイクをよけたのだ。


「くそ!このばっきゃろー!」

 もうすぐでぶつかりそうになった黒いミニバンの助手席から、大砲のように怒号が飛んで来た。

 そりゃ、こっちだって信号が変わるスレスレで行ったかもしれないが、そこまで怒る必要があるのか?というか……

「……探偵?」

 ヘルメットのバイザーを上げ、梅木九次は首をかしげた。


「ったく……」

 鋼は悪態をつきながら席に戻った。

 隣では、新道の通報が続いている。

「そっちでも事案受理できる?大丈夫?」

〔あぁ、こっちからも回せる。被害者は誰なんだ。男性?女性?何人いる〕

「興梠泉里ちゃんって女子大生だ。写真はごめんけどないよ」

〔わかった。被疑者の人着流してくれ〕

「何人いるのかはよくわからない。でも、確実に二人以上!逃走手段は車で、黒のミニバンタイプ。ナンバーは8140だけ分かってる」

〔発生時間と場所は〕

「大通りを南に行った先にある、タルコナってバーだ。雑居ビルの……えーっと……」

 新道が言いよどんだ。

 鋼はすかさず叫んだ。

「森内ビルだ!たしか!」

「森内ビルってのがあるはずだ!そこの目の前!今から十五分前だ!」

 新道は一度急ブレーキを踏み、ハンドルを右に切った。そしてまた、加速する。

 鋼は助手席の天井に手をつき、体が揺れるのを防いだ。

〔逃走方向はどっちだ?〕

「今どこを走ってるかはわからない!でも、行き先がもうすぐ――」

 そこで新道は口をつぐんだ。

 隣にいる鋼も、我を忘れて見入っていた。


 ゾクリとした。


「いた……」

 鋼はつぶやいた。

 いったいどれくらいの距離を、どれだけの短時間で走ってきたのだろう?

 はやる気持ちでは正確な時間の流れなどわからないし、車ばかり見ていたせいで、何キロ進んだのかも覚えていない。

 だが、新道の願いは、確かに効果を発揮した。

 小さな積み重ねが功を奏したと言えるだろう。前を行く車が赤信号で停車している間、こちらは着実に距離を縮めてきたのだ。

 そして今、追いついた。


 8140。黒のミニバンは、鋼たちの目の前を走っていた。


「いた!8140だ!おっさん!」

 鋼も新道も、110番通報中であることを一瞬で忘れ、目の前の車に夢中になった。

〔しんちゃん?しんちゃんどうした?〕

 車のスピーカーから湧き上がってくる疑問の声を置き去りにするように、ミニバンのスピードが上がった。



 重大事件を突然通報してきた同期は、突然に会話を中断した。

 何があったのかわからないが、事態は確実によくない方向へ進んでいる。警視まで昇任し、指令室の長まで上り詰めた榎田は、よくないことが起きる前兆を、長年の経験から感じ取っていた。

「しんちゃん?しんちゃん!くそっ……おい!中央ブロックに緊配をかけてくれ!逮捕監禁容疑だ!」

 指令台の電子メモを指令役の警察官に送り、110番受理用のインカムを投げ捨てた。

「了解!」

 データを受け取った指令者は、広域無線のマイクをむんずと握った。



 パパパッ、パパパッ、パパパッ……緊急配備を知らせる注意喚起信号が、警察官たちの無線機を鳴らした。

〔本部から中央、西、東、南。その他、出動中の各局は聴取せよ。中央管内、逮捕監禁容疑事案が発生。現時点をもって、中央ブロックに、緊急配備を発令した――〕

 中央署、西署、東署、南署、各所属にいた警察官が、一斉に席を立った。防護衣を羽織り、階段を駆け下りていく。

〔――発生時間、場所、現時刻からニ十分前、中央管内、森内ビル前路上。被害者は興梠泉里なる女性一名――〕

 警官たちは駐車場に停めてあったパトカーに飛び乗り、エンジンをかける。出動要員ではない警察官が、駐車場の門に駆け寄り、思いっきり引っ張っていく。

〔――被疑者人着、逃走方向不明。逃走手段は普通乗用、黒色、ミニバンタイプ。ナンバー、四ケタのみ判明。ハチ、イチ、ヨン、ゼロ。繰り返す、四ケタのみ判明、ハッセンヒャクヨンジュウ――〕

 駐車場を出た瞬間、パトカーの赤色灯が正義の光を灯し、回り始める。手配車両を見つけ出すため、ある車両は主要道の大交差点へ、別の車両は裏路地の検索へと乗り出した。

〔――機動捜査隊、自動車警ら隊所属車両、全車発進。匿名車両は緊配手配箇所へ配置、その他の車両は綿密徹底した検索、捜索を実施せよ〕

 交番にいた警察官も、ミニパトや小型バイクに乗り、出動した。市街地周辺を守る全警察官が、正義のために走り出したのだ。



 泉里は、眉間にシワを寄せていた。

 それは、座り心地が悪いからでもなく、一緒に乗っている男たちが腐った卵のような臭いを発しているからでもなく、ましてや、両手両足を縛られ、猿ぐつわをかまされているからでもなかった。

 自分が、〝死の匂い〟の真っただ中にあったからだ。

 抵抗のしようが無く、事態を打開できない。もはや、これから自分の身に降りかかる運命を受け入れるしかない。その事実に辟易し、眉間にシワを寄せていたのだ。

「ペッグさん」

 運転席にいた若い男が、後部座席に向かって呼びかけた。

 ペッグと呼ばれた男は、無言の返事を返していた。

「なんか、つけられてます」

 泉里は勉強熱心だった。だから、英語がわかった。

 車に押し込まれた後、両手両足を縛られ、猿ぐつわをかまされてはいたが、ある程度体を動かすことはできた。すぐ隣にいるがっちりした(ペッグ)にバレないよう、少しだけ頭を上げた。

 リアガラスから見えたのは、黒いミニバンだった。こちらの窓に薄っすらとスモークがかかっているため、誰が乗っているのかまではわからない。

「かなり速い」

 運転手は若干の焦りを感じているようだ。

 それもそのはず、さっきまで後ろにいたミニバンは、道路交通法を完全に無視した速度でこちらに追いつき、横並びの状態になっていたのだ。

 一番左の車線を走る8140のミニバンと、一番右側の車線を走る2865のミニバンは、綺麗な並走状態にあった。

 不思議なのは、追いついてきたミニバンが、一切のよどみなく加速してきたことだ。赤信号を全て無視してきたのではないかと思うほど、そのアクセルワークには迷いがなかった。

「ペッグさん。どうしましょう、ペッグさん?」

 ペッグと呼ばれた男は、相変わらず無言のままだ。ゴーレムのように固い表情は、ピクリとも動かない。

 運転手は(小さい声で)悪態をついた。それでもやはり、ペッグは無言だった。

「ん……」

 突然奇妙な感覚に陥り、泉里は眉間に寄せていたシワを解いた。


 消えたのだ。匂いが。


(……鋼さん!)

 泉里は泣きそうだった。

 右隣に来たミニバンの助手席の窓が開き、待ち焦がれた男が顔を覗かせていた。どれだけ会いたかったか、どれだけ心細かったか、自分でも、自分の感情を言い表すことができない。

「んんー!んー!」

 言葉を発することができない中、泉里は喉を枯らした。少しでも、自分の存在をアピールしたかった。

「ん――」

 泉里の意図に気付きペッグはその大きな手で口元を塞いだ。猿ぐつわの上からさらに圧力を加えられ、泉里は顔を振り回して抵抗した。男の筋力には到底かなわず、再び声を上げることは叶わなかった。

 だが、匂いが消えたことで、確信していた。鋼は自分を助けに来てくれた!

 泉里の声が届いたのか、願いが届いたのか、どちらにせよ、入川鋼はその存在を感じ取った。

 スモークで見えないはずの後部座席を、ギラリと睨みつけていた。

 ペッグの太い指の隙間から、鋼の顔が見える。運転席の方を振り返り、何かを大声で伝えている。

「げっ……!」

 こちらの運転手が、上ずった声を出した。

 鋼が、入川鋼が、助手席の扉を開け、車外に体を出したのだ。

 2865のミニバンは、中央車線にドアをぷらぷらさせたまま、猛スピードで走り続けている。その車体にしがみついたまま、鋼がぐっと身を屈める。

 目を見開くべきか、固く閉じるべきか、どちらが正しいのか、泉里には見当もつかなかった。


 入川鋼は宙を舞った。


「んんんー!」

 ペッグの手を押しのけるほどの大絶叫が、泉里の体を駆け抜けた。

 鋼が飛び上がった瞬間、ぷらぷらしていた助手席のドアが、中央車線を走っていた車に衝突し、吹き飛んだのだ。その衝撃で、2865のミニバンは大きく後退し、距離をあけられることとなった。

 しかし、さらに驚くべきは、願い探偵の身体能力だ。


 鋼は、8140のミニバンにかぶりついた。


「なんてこった!正気か⁉こいつ!」

 飛びつかれた衝撃で車体が揺さぶられ、運転手は必死にハンドルを切った。右に左に、タイヤが浮くほど車は乱れた。

「開けろ!開けやがれ!」



「わかったぞ!」

 回転椅子をきしませながら、鮫島が振り返った。

 漫画の山の向こうで待っていたマスターと杠が、顔を輝かせながら走ってきた。上の方に積まれていた漫画が数冊落ちてきたが、鮫島は嫌そうな顔一つしなかった。

「きりがないから、一番下から読んだ。ここだ」

 ぶくぶくに太った鮫島の指で、スマホの画面がほとんど隠れてしまっている。二人はわずかな隙間から画面を見ようと、腰をかがめ、首をひねって覗き込んだ。

「〝廃倉庫を安く買い叩いた。3番倉庫だ〟」

 読めない二人のために、鮫島が翻訳する。

「〝誰も欲しがらないくらいおんぼろだ。港湾局も気にしないだろう〟」

「車は南に曲がっていった……わかった、港だ!」

 マスターがはじかれたように立ち上がった。

「これ以降は全部〝いつもの場所〟と書かれてる。変更された様子はない」

「鮫島君ありがとう。杠君!」

「今かけてます!」

 マスターのスマホを使いながら、杠は手を挙げた。マスターと鮫島は、その様子をじっと見守っていた。

「鋼さん……出てください鋼さん……」

 スマホを耳に当てたまま、杠はブツブツ言い続けた。

「トラブルか?」

 鮫島が心配そうな声を上げ、マスターはいてもたってもいられなくなった。コートをひっつかみ、タキシードの上に叩きつけた。

「杠君、僕たちも行こう!」

「はい!」

 雇い主に呼ばれた杠は、スマホを耳に当てたまま鮫島邸を飛び出した。鋼に渡したスマホへコールを続けながら、路駐していたマスターの車に飛び乗った。

 年季の入ったスープラが、規制前の排ガスをまき散らしながら走っていくのを、鮫島は眼鏡の奥から見送っていた。



「くそ、泉里!泉里!あ!け!ろ!」

 人さらいのミニバンにしがみついたまま、入川鋼は吠えていた。運転しているのは若い男のように思えた。確証がないのは、さっきからハンドルを右に左に切られるせいで、顔を直視できないからだ。振り落とされないだけで精いっぱいだ。

 しかし、さっきの悲鳴はどう聞いても泉里のものだった。泉里はこの車に乗っている。絶対に離すものか。

「おら!おら!おらぁ!」

 左手で窓ガラスを殴り、膝で蹴り、なんとか開けようと試みた。しかし、車の窓ガラスはそう簡単に割れるものではない。

「おわっ……!」

 そうこうしている間に再び車体を揺らされ、鋼の体はフロントガラスの前まで滑ることとなった。

「くっ……!泉里ぉ!」

 おかげで、今度こそ見えた。後部座席に押し付けられ、両手両足を縛られ、猿ぐつわまでかまされ、興梠泉里はすがるような目でこっちを見ていた。

 鋼の中で、怒りが爆発する。

「それなら……!」

 ボンネットに体を預け、コートのポケットというポケットをまさぐった。

普段、名刺以外にはほとんどゴミしか入っていない鋼のコートだが、幸か不幸か、古びたボールペンが指に触れた。

「よし……!」

 鋼はボールペンを握りしめ、大きく振りかぶった。

 フロントガラスには中間膜という膜があり、ガラスがへばりつくようにできている。割ったところで侵入は難しい。狙うべきは横のガラスだ。

「おぉ!りゃ!」

 ペンの切っ先を、運転席のガラスにつき立てた。ガラスはまだ、ヒビ一つ入らない。

「ふんぬ!ふん!ふぬあぁ!」

 二回、三回、四回……同じ場所を的確に狙える鋼の身体能力により、ついにガラスにひびが入った。クモの巣のように、ガラス全体に広がっている。

「うりゃああああぁぁぁぁ!」

 五度目の突撃で、ついにガラスが割れた。ガッシャーン!とけたたましい音が鳴り、運転手は破片の雨に襲われた。

「うわっうぇあ!」

 目を半分つむり、事故しないよう、なんとか車のバランスを維持し続けている。

 そこにつけ込む願い探偵の抜け目のなさは、さすがの一言に尽きる。

 ガラスの破片で腕を切ろうともお構いなしだ。外からハンドルを掴み、主導権を握ろうと試みている。

「やめろ!くそっ!ペッグさん!」

 ペッグは相変わらず無言だった。

 無言だったが、適切に対応した。

 泉里が見ている前で、スマホを冷静に叩き、サイモンにつないだ。



「しくじったな!ペェッグ!」

 薄暗い倉庫の中で、サイモンは呻いた。錆びついた窓から入って来る太陽光が、サイモンの顔の半分だけを照らしている。暗い方のもう半分は、彼の吸う煙草(ピース)の火でぼんやりと見えるだけだ。

「バックアップを送る。必ず始末しろ」



 新道は、助手席のなくなった車で――ぶつかってしまった車には申し訳ないが――なんとか走り続けていた。三車線あるうちの、一番真ん中だ。鋼が無事に飛び移れたのはいいが、その時の代償は大きかった。

 車体が歪み、左前のタイヤはパンク。スピードは確実に落ち、8140のミニバンには距離をあけられる一方だ。

「くそぅ……」

 犯人たちとの距離が開くたび、青信号の長さが不自然に伸びていく。

「鋼君……!」

 ニ十メートルほど離れたところで、鋼が運転席のガラスをぶち破ったのが見えた。あとは、中に入れるかどうかだが……ここに来て、自分の願いが裏目に出はじめた。

 新道が追いかけている間、その進行方向にある信号は、決して赤にならない。

 つまり、新道自身がノンストップで走れる代わりに、人さらいたちの車も、決して止まることがないのだ。今でも、煌々と青い光を放っている信号は、三つ四つと連なっている。

 結果、鋼は車に振り回されることとなり、中に入るタイミングを掴めずにいる。

 このまま追跡を続けるべきか、赤信号を復活させるため、離脱するべきか……新道は死ぬほど悩み、アクセルを緩めんとしていた。

 しかし、長年培ってきた警察官としての勘が、願い探偵に迫りくる危険を鋭敏に察知した。

 運転席のサイドミラーに、不自然に速い車が写ったのだ。真っ黒いバンだった。

「あっ!」

 新道が瞬きをした間に、真っ黒のバンは右の車線を駆け抜けていった。

 そして、思った通り、左の車線を走る8140のミニバンに追いつき、並走を始めたではないか。

「あぁん?今度はなんだ!」

 鋼は、突然やってきた真っ黒のバンをギロリと睨みつけた。既に息は絶え絶え。ミニバンに振り落とされそうなので必死なのに、これ以上何をどうしろというのだ?

 答えはすぐに出た。バンとミニバン、黒い車体が、じわじわと近づき始めた。二台の車は、お互いが中央の車線にはみ出し、運転席にしがみついている鋼を押しつぶそうとしているのだ。

「バッ……!」

 鋼はとっさに体を捻り、フロントガラスに逃げのびた。直後、誰もいなくなったミニバンの運転席に、バンの助手席が突っ込む――かと思われた。

「んんんー‼んんー‼」

 泉里は生きた心地がしなかった。黒いバンの到来と共に、鋼の方から、強烈な〝死の匂い〟がしたからだ。

 しかし、中央車線を走っていた一般車両をよけるため、バンとミニバンは左右に離れざるを得なかった。急ブレーキの音が耳を貫き、泉里はドアの内側に頭をぶつけた。

(鋼さん……!)

 ズキズキと痛む頭を上げ、フロントガラスの鋼を見つめた。匂いはまだ消えない。

(お願い鋼さん、もう逃げて……)

 運転手の急ハンドルにより、鋼は体を揺さぶられた。

「あぁ!っくそ!」

 なんとかこらえようとする鋼だったが、運転手は右に左に、ひっきりなしにハンドルを切る。

 ちらりと横を見ると、無骨なバンが、鋼の頭蓋骨を粉砕する瞬間を、今か今かと待っている。その車体の黒いこと、大きいこと、まるで死の棺桶が走っているようだ。

 もう、中央車線に車はいない。ミニバンの運転手は、ハンドルを一段と大きく切った。

「あぁっ……!」

 後ろを行く新道は、思わず声を上げた。

 これまでなんとかこらえていた鋼が、ついにミニバンのハンドルさばきに耐えきれなくなったのだ。再びその運転席にしがみつく格好となってしまった。

 願い探偵を処刑する場が、あっという間に整った。

 待ってましたと言わんばかりに、真っ黒なバンが左にハンドルを切る。

 迎え撃つように、ミニバンが右にハンドルを切る。

 鋼の体が、二台の車に挟まれて消える。

 新道信彦(のぶひこ)は、口を真一文字に結び、アクセルを一番奥まで踏み切った。

 既に限界を迎えていた2865のミニバンが、最後の爆発をもって加速した。

「んんー!」

 泉里は目を見開き、その瞬間を見ていた。〝死の匂い〟は、まだ消えていなかった。


 ただ、出所が変わっていた。


 鋼の鼻に、バンの車体が触れようかという時、新道のミニバンが後ろから突っ込んできた。

 とてつもない轟音を響かせ、真っ黒なバンが押し出された。宙を舞い、空中で一回転した。そして地面に激突し、二回、三回と転げまわり、一番左の車線と中央車線にまたがる形で、チリ紙のようにクシャクシャになって止まった。

 新道のミニバンは、運転席が完全につぶれ、惰性だけで進んでいた。

「おっさあぁん!」

 人さらいの車にしがみついたまま、鋼は右手を伸ばした。

 そんなことで届くはずはなかった。

 地面に横たわっていたバンに激突し、新道の車は横転した。


「ダメだ。変わるな――」


 これから侵入する交差点の信号機に向かって、鋼は祈った。懇願した。

 それは、真ん中を光らせていた。


「変わるな……‼」


 新道の車からタイヤがはじけ飛び、ガラス片が飛び散り、最後は黒い鉄の塊になって止まった。そして――


――信号の色が、赤に変わった。

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