第十一章 すれ違い
胃の中身がゴロゴロと揺れる音で、鋼は目覚めた。
瞳をしばしば動かしてみると、なんと、世界がぐるぐると回っていた。
「んん……」
定まらない焦点と格闘すること十数秒、ついに鋼は、自分が車の後部座席で揺られていることに気が付いた。
「……あん?」
大きな車だった。黒のミニバンだ。大手自動車会社のミニバン三兄弟とか言われているやつだ。どれが長男でどれが次男か見当もつかないが、たぶんこれは、一番スポーティなやつだ。
車は大通りをすいすいと進んでいた。時おり、路面電車のレールをまたぎ、車体が下から突き上げられたように跳ねる。
「あー、鋼君、目が覚めた?」
運転席から懐かしい声が聞こえ、鋼は目を上げた。
「なんだ、おっさんか」
そこにいたのは新道だった。
「なんで、おっさんが」
すぐに首を振った。鋼の最後の記憶は、わけのわからないところでぶっ倒れ、アルコールの気持ち悪さと睡魔に敗れ去ったところで止まっている。どういういきさつがあって、再び〝合法信号無視警察官〟の運転する車に揺られているのだろうか。
理由はその合法信号無視警察官、新道が教えてくれた。
「非番で帰ろうとしたらさ、鋼君、街中で倒れてたんだもん。おじさん、ちょうど車だったからさ。送ってあげようと思って」
「……余計なお世話だ」
鋼はグルルと唸った。
新道は確かに私服だった。プライベートでも、困っている市民を放っておけないのか。鋼に言わせれば――
「職業病だな、おっさんも」
「えーっ?鋼君には言われたくないなぁ」
新道は笑っていた。
「聞いたよぉ。杠君のこと」
「ちぇっ」
そりゃそうだ。警察官である新道が、連続スリのその後を知らないはずがない。鋼は新道の追及を逸らすため、舌打ちを窓の外へ向けた。
新道はやっぱり笑っていた。
鋼は窓枠に肘をつき、頭を抱えた。路上でひと眠りしたおかげで、酔いはいくらか醒めていたが、その代償として体中がバキバキに固まっていた。
新道の運転する車は、スイスイ進んで行く。フロントガラスから前方を見ると、これから下を通るであろう信号機が、全て青に変わっているのが見える。その数、実に十機以上だ。
青以外の色を求めて視線を下げると、ハンドルを握る新道の手が目に入った。その薬指に光る金属の光沢で、鋼の唇はひとりでに動いた。
「なんだおっさん、結婚してたのか」
新道はコガネムシのような目を驚かせ、ミラー越しに鋼を見た。そして、もう片方の手で指輪を撫ぜた。
「あぁ、仕事中は外してるからね」
その仕草は、鋼が今まで見てきたことのない感情を秘めていた。おそらくこれが、愛おしいということなのだろう。気になって聞いた。
「結婚って、いいもんか」
「いいものだよぉ。結婚して、子供ができて……幸せな時間だったよ」
新道の顔は幸福な感情に包まれていた。家族との思い出が無い鋼には、どうやってもできない顔だった。
邪魔してはいけない気分になって、鋼が黙りこくってしまうと、車内はしばらくの沈黙に包まれた。
四つの信号をくぐった時、新道が思い出したように言った。
「鋼君、泉里ちゃんと仲良くなったんだって?」
「――は――いや、何で知ってる」
そりゃそうだ。警察官である新道が、泉里とのデートを知らないはずが――そんなわけあるか!鋼は慌てた。慌てたが故に、否定の言葉をすこんと忘れてしまった。
「あのあと、あそこのバーに行くようになってさ」
新道は悪びれた様子もなく、ニコニコと笑っていた。
まさかタルコナの常連になっているとは、鋼も聞いていなかった。
「マスターかよ……」
「いやあ、ストーカーストーカー言ってたから、心配してたけど……よかったよぉ」
「言っとくが、もう終わった。ダメになった」
「えーっ?そうなの?」
運転中にも関わらず、新道は思いっきり後ろに振り返った。信号が青だったからこそ、前の車に追突せずにすんだ。
せっかくアルコールが抜けてきたのに、新道の大声によって、鋼の脳みそはまた揺さぶられた。警察官の責めるような視線から逃げるため、ミニバンの天井を見上げた。
「オレが言い過ぎたんだ。ちょっとした勘違いと……嫉妬って言うのか?癪にさわって……あいつの生まれに関して、侮辱に近いような……心無いことを……まぁなんだ、あっちは腹を立てて――」
自分で全部言ってしまうのはさすがに恥ずかしく、鋼は肩をすくめるようなジェスチャーをして誤魔化した。
しかし、新道はその続きを容赦なく聞いてきた。
「ケンカしたの?」
鋼は上唇をなめ、肩をしぼませた。
「まさか、まだ謝ってないとかないよねぇ?」
鋼は下唇もなめ、肩を縮こませた。願い探偵、人生始まって以来のみじめさだった。
「ダメだよぉ、鋼君」
新道はようやく前を向いてくれたが、それは事故防止の観点からしたことであって、鋼を許したわけではなかった。おじさん特有のくどくどした説教が、まだ二十代の鋼をあっと襲う。
「男の嫉妬ほど、見苦しいものはないよぉ。泉里ちゃんに何を言ったのか知らないけど、ダメだよぉ、あんなに可愛い子を苦しめちゃあ。とにかく早く、できる限り早く謝るんだ。いいね?」
「……無理だ。オレはケータイを持ってない。あいつがどこにいるのかもわからない」
「家は知ってるんでしょ?直接行って、謝るしかないよ」
「……無理だ。行ったところで……こんな飲んだくれ、きっと追い返される」
ケンカし、一人になり、後悔し、怒られ……鋼の心は疲弊しきっていた。
どんよりと曇りの様相を呈してきた車内にうんざりし、新道は急ブレーキを踏んだ。警察官にあるまじき急停車だった。後ろの車がクラクションを爆発させ、すんでのところをかすめていった。新道の車と同じ、黒いミニバンだった。
シートベルトをしていなかった鋼は、助手席のヘッドレストに鼻頭をぶつけ、声にならない声を上げた。
「鋼君……」
鋼がふがふが言っていることなどお構いなしに、新道は叫んだ。
人から怒られることなど、鋼には中々ない経験だった。だから、驚きすぎて飛び上がった。
「コラ!」
ミニバンが揺れ、付近の歩道を歩いていた通行人が首をかしげた。
それほどの大声だった。
「女を泣かせておいて、謝らない男がいるもんか!」
「いや、まだ泣いたとは――」
「じゃあ泣いてないのかい?」
「いや、泣きました……」
「それ見たことか!」
「……すいません」
「しかもなんだい!何を諦めてるんだい!見つからない?追い返される?当たり前じゃないか!君が泣かせたんだから!」
「はい……」
大通りのど真ん中で、ハザードも何もつけず、黒のミニバンは停車していた。まさかその中で、大の大人が怒られているなど、誰が想像できようか。
「いいかい鋼君!諦めちゃダメだ!僕はね、信号の願いをかなえたことを、今でも後悔してる!妻や娘のために使えばよかったって、今でも後悔してる!鋼君はどうだい?もう願い、使っちゃったのかい?」
「いいえ……まだです……」
「だったらなおのこと、諦めちゃダメだよ!なにがなんでも、泉里ちゃんに謝らなくちゃ。プライドが邪魔したり、恥ずかしくて謝れないなら、神様にお願いしてとっぱらっってもらうべきだよ!」
鋼は到底理解できなかった。
泉里に謝るために、願いを使う?
一瞬、新道が血迷ったのかと思った。鋼の願いは、鋼が人生をかけて探求してきた、一番神秘的な部分だ。鋼の生きる活力、その根幹と言ってもいい。それを、泉里のために捧げろというのか?そんなバカな、ありえない。
「いや、何もそこまで――」
「それがダメなんだよ鋼君!」
新道は運転席から身を乗り出し、鋼の鼻先に指を突きつけた。
鋼は逃げようとしたが、後部座席のシートバックに追い詰められた。考える隙を失い、新道の言葉に耳を傾けるしかなかった。
「おじさんみたいに、自分の私利私欲のために願いを使うような、つまらないやつになるな。そうじゃないと、年をとった時に本当に後悔する。なんで僕は、妻や娘のために願いをとっておかなかったんだろう、って――」
「わかったわかった!説教はもうごめんだ!謝る!謝るよ泉里に。約束だ。男の約束だ!だから説教やめてくれ!」
鋼はもろ手を上げて降参した。年の話を持ち出されたら、若い鋼には理解が及ばない。なし崩し的ではあったが、泉里にきちんと謝ることを約束し、それ以上のお叱りを免れた。
新道は開きかけた口を閉じ、鋼の顔をじっと見つめていた。願い探偵が嘘をついていないか、見破ろうとしている目だった。
その視線を感じて、鋼は初めて、新道が生粋のお巡りであることに気付かされた。
「わかったよ鋼君」
新道は突然にニッコリと笑った。コガネムシのような目が、だぼだぼのまぶたに全部隠れるほど笑った。そして、拳をそっと差し出した。
「男の約束、ね」
傷心の願い探偵は、観念して拳をかわした。
「ありがとうございました」
来た時とは違い、泉里は晴れやかな顔をしていた。タルコナの扉に手をかけ、マスターに頭を下げた。
マスターはグラスを磨きながら、静かに首を振った。
「いいえ」
「私っ、もう一回鋼さんと話してみます」
「出会えることを祈っていますよ」
バチンと閉じられたマスターのウインクに手を振り、泉里は階段を下りていった。
〔ペッグ〕
電話口から聞こえてくるサイモンの声は、勝利を確信した喜びで震えていた。
〔手配完了だ。女を連れて行け。行き先は追って指示する〕
「……」
無言の返事を返し、ペッグは歩いて行った。
「さて鋼君、どこに行けばいい?」
すいすいと信号をかわしながら、新道は聞いた。
鋼は身じろぎをして答えた。
「タルコナへ。ひとっ風呂浴びねえと」
別に泉里から逃げようというわけではない。この一週間、酒しか浴びていない。自分の体が、自分でわかるくらい、つんとした刺激臭を放っていた。
「うん、たしかに。身だしなみは整えないとねぇ」
新道はハンドルを切り、バーのある裏路地へと車を向けた。
泉里は軽やかな足取りで階段を下り、裏路地へ出た。カクテルを飲んでいる間に雨でも降ったのだろうか、アスファルトはじっとり湿り、小さな水たまりがところどころにできていた。
昼間だというのに、人っ子一人いない。みんな、まだ雨が降っていると思っているのだろう。
「……よしっ!」
今は快晴。泉里の心と同じように晴れ晴れとしている。なんだか、今なら、鋼の言葉を素直に聞くことができそうだ。このいい天気を独り占めできることと、自分が前向きになれていること、その両方がたまらなく嬉しかった。
角の信号機が青に変わり、タルコナ前の通りに一台の車が入ってきた。
大きな車だった。黒のミニバンだ。大手自動車会社でミニバン三兄弟とか言われているやつだ。どれが長男でどれが次男か見当もつかないが、たぶんこれは、一番スポーティなやつだ。
予感がした。
キッ、と音を立て、ミニバンは泉里の目の前に止まった。後部座席のドアが、ゆっくりと開かれていく。
「え――」
懐かしい匂いだった。