第十章 傷跡
鋼は、入川鋼は、抜け殻のようになっていた。
生まれて初めて、人を好きになった。
ザクロのような色をした悪魔の瞳も、透き通るような天使の声も、楽しそうにはしゃぐところも、必要以上に人に優しいところも、全部好きだった。
そして、気付いた時には手遅れになっていた。
「ひっく」
ブランデーの瓶を片手に、鋼は座り込んでいた。漫画の山は座り心地が死ぬほど悪い。
「おい」
めりこんだ眼鏡の奥から厳しい目を覗かせるのは、住人の鮫島だ。コレクションの山を崩され、あまつさえ、酒をそこら中にまきちらしている鋼は、はっきりいって邪魔以外の何者でもなかった。
「もう一週間だ。いい加減にしろ。帰ってくれ」
「あぁん⁉」
焦点の定まらない目で、鋼は叫んだ。鮫島の方を睨みつけようとしたが、天井ばかりに目が行く。
「おまぇ……よくも言えたな!だぁれのおかげで、ニートを卒業でぎだど……ひっく!思ってるぅ……!家賃のらいのうらって、しなくてすむように、らっらんらろらあ!」
ブランデーの瓶を傾けた鋼だったが、飲み口は狙いを外れ、右頬に当たった。受け止める人のいなかった酒が、漫画の山に土砂降りの雨を浴びせていく。
鮫島は、いつものように怒鳴らなかった。かつて自分を救った男に、せめてもの礼儀をつくしてやったのだ。
「オレが世話になった男はもういない。出て行け」
意識の高い人間で溢れかえっている喫茶店で、泉里はテキパキとノートを写していた。あれ以来、一週間も大学をサボったため、雪歩に見せてもらっているのだ。
鋼とケンカ別れをしてからというもの、果てしない怒りと喪失感で、何もする気が起きなかった。
あれ以来コンタクトは外し、茶枠の眼鏡が、寂しさと疲れを覆い隠している。
「……泉里?」
隣に座っている雪歩が、恐るおそる声をかけた。
泉里はシャーペンを止め、顔を上げた。
「あの……ごめんね……?この前、私が見ちゃったから、鋼さん、機嫌悪くしちゃったのかな……」
心優しい友人は、泉里の機嫌が悪いことを見抜き、泉里が鋼と喧嘩したことまで気が付いた。
しかし、なぜそうなったのかまでは分からず、少しでも思い当たる節がないか考えを張り巡らせた結果、自分が二人の愛の巣に土足で踏み込んでしまったのが原因ではないかと、勘違いすることになってしまったのだ。
「ううん、違うの。それに、あれは私が言ってなかったから、雪歩に悪いところはないよ」
泉里は力なく笑い、首を振った。
雪歩は胸をなでおろしたが、原因が何なのか、気になってしまった。
「じゃ、じゃあ……なんで?」
問いかけられ、泉里は少し考え込んでしまった。
はっきり言って、鋼のことが好きだった。好きになっていた。
それでも、鋼が九次にしたことが許せなかった。たとえ九次が、決してかなえてはならない願いをしていたとしても、もっとやりようがあったのだから。
「……なんでだろ。好きって言われて、嬉しかったはずなのに……でも、あの人、私が思ってるような人じゃなかった。ちょっといいところ見ただけで、勘違いしちゃってたんだと思うの」
「あ~あぁ~、ひっく……」
「おいおい、君、大丈夫かい?」
当てもなく路地裏をさまよっていた鋼は、通りすがりのサラリーマンに声をかけられた。倒れそうになっていたので、肩まで掴まれた。
「あぁん?」
今現在、鋼は世の中の全てが気に入らない精神状態に陥っている。サラリーマンの顔をギロリと睨みつけ、その願いを読み取り始めた。
サラリーマンはいかにもジェントルマンといった風貌で、高級なスーツと立派な口髭がうるさい。おまけに、大きな胸の谷間を惜しげもなく披露している若い女を、右腕に巻き付けさせていると来た。こいつ、傷心のオレにケンカを売りやがったな?
「なぁんらてめえは!あぁ……?〝巨乳に囲まれて死にたい〟らあ?そんなやつに心配される覚えはらい!」
「なっ……なんてことを言うんだ君は!」
サラリーマンは顔を赤くし、鼻息荒く立ち去っていった。右腕に巻き付いている女は、クスクスと笑いをこらえていた。
「けっ!どいつもこいつも……くだらねえことばっかり願いやがって!なぁにが願いら!なぁにが……!オレなんか……くそ!」
鋼はよたよたとつんのめりながら、ブランデーの瓶をぶん投げた。
瓶は大きな音を立てて砕け、ガラスの破片がそこら中に散った。
先端の、飲み口の部分だけがコロコロと転がり、路地の向こうへ進んで行く。それが通行人の靴に当たり、コツンという音で止まったので、鋼も立ち止まった。
「てめえは……!」
「やあ」
飲み口が当たった靴の持ち主は、梅木九次だった。
「ごめんね雪歩。私、今日はもう帰る。ノート、また今度見せて」
そう言うと、泉里は机の上を片付け始めた。シャーペンを乱暴にペンケースに押し込み、ページが折れるのも構わずノートを畳んだ。
「ねえ泉里」
泉里が立ち上がった時、雪歩は引き留めるように声をかけた。
「それでいいの?」
数歩歩いたところで、泉里は立ち止まった。無言のまま、肩にかけたカバンの紐をぎゅっと握りしめていた。
「私、鋼さんは悪い人じゃないと思うよ」
「どうして……?どうしてそんなことが言えるの?ほとんど話したこともないのに!」
なんて無責任なことを言うのだろう。泉里は思わず声を荒げ、親友にまくし立ててしまった。言ってしまった後で後悔し、すぐに謝った。
「――ごめん。私……雪歩は悪くないのに」
大きな声を浴びせられたというのに、雪歩は優しい表情のままだった。
傷つき、悩んでいる親友を、なんとか励ましてやりたかった。
そして、ケンカの理由こそわからないが、このまま二人が離れ離れになるのは、悲しいことだと思っていた。
「ううん。泉里だって、まだ出会って間もないんでしょ?もっときちんと、鋼さんのことを知るべきだよ」
いつもはふわふわしている親友から、こんなに重みのある言葉をかけられるとは思っていなかった。だからこそ、その言葉は、泉里を前進させる力となった。
「いってらっしゃい」
「いやー、探したよ。願い探偵って言ってたから……この辺だって聞いて」
九次のニコニコ顔から逃げるように、鋼はベンチに腰掛けた。ここはいつぞやの、泉里と再会した公園だ。
「んぐっ……んぐっ……ぷはっ!……で、なんだ」
鋼は新たなボトルを傾け、刺激臭のするアルコールを流し込んだ。九次と同じ空間にいて、同じ空気を吸っているのが、死ぬほど嫌だった。
「モトクロスはダメになった。完全にクビだ」
「けっ」
当然の報いだ。鋼はボトルを傾ける。
「明日からどうやって食って行こうか、色々考えてる」
「……仕事ならねえぞ」
「……はは。大丈夫だよ。しばらくは貯金があるから、弟達は困らない。それに、俺はあんたが嫌いだ。だから頼らない」
「奇遇だな。オレもお前が嫌いだ。いや、間違えた。大っ嫌いだ。神より気に食わないやつがいるとは、思いもしなかった」
「なんだよ、ひどいな」
九次の口元は笑っていたが、目は違った。ろれつが回るか回らないかの境目を漂っている探偵を、厳しく見つめていた。
「今日来たのは、自分のためじゃない」
ぐびぐびと喉を鳴らす鋼から、九次はボトルをひったくった。
鋼はアルコールで鈍ってしまった反射神経で応戦したが、自分より若い男にはかなわなかった。半分まで減らしていた酒を奪われ、だらしなくよだれをたらした。
「泉里のご両親の話、聞いたことあるか?」
「あ……?ひっく……!」
ボトルを見つめていた鋼は、不機嫌な声を出した。
泉里の両親については――そういえば、母親についてしか詳しく聞いたことが無い。父親については、すごく優しい、という事実だけ。どこにいて何をしているのか、全くもって知らない。
なんだこのイカサマそばかすライダーは。〝俺は知ってるんだぜ〟とでも言いに来たのか?鋼のイライラが一気に膨れ上がる。
「母親が亡くなったのは聞いてる。それであいつが、黄泉帰ったことも。それがなんだ」
「やっぱり、信じてやるんだな」
安心したように九次は鋼にボトルを返した。
「あぁ?」
こんなにすんなり返って来ると思っていなかった鋼は、疑心暗鬼になりながらひったくった。
「いや、あいつ。あれで可哀そうなとこあるからさ」
必死に酒を抱きかかえる鋼を見て、九次はやれやれと肩をすくめた。
「あいつの話を信じてやるなら――俺は、自分でもどっちなのかわからない――だが、もし、本当なら……あいつは生まれ変わったせいで、前の父親がわからなくなってしまったらしい」
鋼はいざ酒を飲む体勢になっていたが、すんでのところで思いとどまった。
「わざわざ死んでまで逢った母親も、顔や名前が思い出せないんだと。今となっては、何を話したのか、ぼんやりとしか覚えてないって。気が付いた時には、実の親のわからない、可哀そうな子供として施設にいたらしい」
「生まれ変わったからか。前の父親も、母親も、今の泉里から見たら赤の他人になっちまうってことだ。神め……」
「物心ついてからは、父親を捜す努力もしたみたいだけど……人探しを探偵に依頼したら、契約金だけふんだくられて、トンズラこかれたってさ。一生懸命アルバイトして金つくったのに……ひでえ話だよ」
『あんまり、探偵は好きじゃありません』
泉里と初めて会った時の言葉が、鋼の頭をよぎった。
「それでも、泉里は満足してたらしい。念願の母親に逢えて」
「違うな。それは嘘だ、強がりだ。そんな人間がいるものか。本音は――」
「家族三人?」
九次が最後を引き継いだ。鋼の言いたいことはズバリその通りだったが、認めるのが癪だった。怒りに任せて、酒を飲み込んだ。
「…………だいたい、なんでお前はそんなに詳しく知ってやがる。泉里のなんなんだ」
「そんな顔するなよ」
嫉妬の炎に包まれる鋼を見て、九次はやれやれと頭を振り、懐から写真を取り出した。
「俺と泉里は幼馴染だ」
写真を差し出され、鋼は飲酒を中断した。上の前歯でボトルを噛み、じろりと見た。小さな泉里と、小さな九次が写った、古めかしい一枚だった。
「俺の親は育児放棄気味で、俺は施設に出たり入ったりしてた。そこで泉里にあった」
「おさな……」
「なじみ。そうだ」
鋼は震える手で瓶を取り落とし、写真を受け取った。
「あっ……はぁ……?」
頭を抱えたのは、急性アルコール中毒で頭が痛くなったからではない。
自らの愚かさを、これでもかと焼きつけられたからだ。骨の髄まで染みた。
大きな通りから三本離れた裏路地。ここに来て、ペッグは作戦が成功する予感に襲われていた。
〔どうした、ペッグ〕
報告のためにかけた電話口から、サイモンの声が聞こえてくる。
「ようやくだ。女が一人になった」
ペッグにしては長いセリフが返ってきたため、サイモンは喜びに打ち震えた。
〔ぬかるなよ〕
無言の了解を示し、ペッグは通話を終了した。
大きな通りから三本離れた裏路地。そこにある雑居ビルの二階に、泉里はやってきた。
確証があったわけではないが、ここなら――と思ったのだ。
まだ昼間だが、タルコナは開いていた。重たい扉を押し、泉里は中に入った。オレンジの間接光の中、マスターは今日もタキシードをビシッと着こなしていた。
「おや」
グラスを磨いていたマスターはダンディズム溢れる笑顔になった。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
八つあるカウンター席のうち、一番右側の席へ向かった。真ん中の方に行くのは、少々気が引けてしまったのだ。
「お久しぶりです」
おずおずと挨拶しながら腰掛けると、マスターが柔らかい笑顔で注文を取ってくれた。
「何にしましょう」
「えっと……どうしよう」
「あぁ、それなら、いいワインが入ったんですよ。キールなんてどうでしょう?」
「じゃあそれで。お願いします」
泉里はカウンター席に腰掛け、店内を見渡した。
まだ昼間ということもあり、カウンターもテーブル席もすっからかんだった。どうやら、杠もまだ出勤していないようだ。奥の方でひっそりとたたずむダーツが、哀愁を漂わせている。
「鋼君は最近、めっきり姿を見せません」
グラスにワインを注ぎながら、マスターは何気なく言った。
「ち、違います……いえ」
泉里はびっくりして前を向いた。そんなに物欲しそうに見えたかしら、と気にして、必要以上に髪を撫でつけた。
「……そうです」
マスターがカクテルを作りながら眉を吊り上げたので、しぶしぶ認めた。とても小さな声で言ったおかげか、マスターは聞こえなかった振りをしてくれた。
「キールとは、フランスのディジョン市というところの市長が考案したと言われています。その方の名前をとって――」
「キール……?」
「その通り。白ワインとカシスリキュールをビルドで」
カウンターの上に出されたのは、透き通った赤いお酒だった。泉里の瞳と同じ、ザクロのような色にも見えた。
「……いただきます」
泉里はキールの美しさにひと時見とれ、そっとグラスを持った。
「おいしい」
ほんの一口だけを舌に乗せてみたが、ひんやりとした甘さが口の中をさっと駆け抜けた。疲れ切って真っ白になった心に、赤い色が一滴、落ちた気がした。
「ご存知ですか泉里さん。カクテルには、花と同じように、それぞれ言葉がついているんです」
「カクテル言葉、ってことですか?」
「そうです。そのキールには、最高のめぐり逢い」
泉里の頭の中をさっとよぎったのは、他でもない願い探偵だった。とっさにグラスから口を離したが、もう、そのおいしさに抗える時は過ぎ去っていた。
「ずるいですよ。おいしいお酒を作れるようにお願いした人が、だまし討ちみたいなことするなんて」
マスターは確か、神に願ってこの技術を得たと言っていた。そんな人が作ったカクテルを、途中で手放すことなどできるはずがないのだ。
クックッと意地悪そうな笑みを浮かべ、マスターは言った。
「鋼君のこと、許せませんか」
「許せません……たぶん」
「鋼君が謝ってきたらどうするんですか?」
「ひっぱたいちゃいます……たぶん」
「たぶんなんですか?全部」
「だって……たぶんは、たぶんだから」
言葉の合間合間にキールを含みながら、泉里はぽつぽつと答えた。
それを見たマスターは、物憂げな表情をしていた。
泉里に出されるカクテルは、マスターの計らいにより、飲みやすいようにアルコール度数を押さえられている。それでも、おいしいお酒はするすると進み、徐々に徐々に廻っていく。それは潤滑油のような役割を果たし、泉里の中に溜まっていた愚痴や不満を、ようやくの解放に導いた。
「どうして――」
「はい」
「――どうして、あの人は何でもかんでも言っちゃうんですか?鋼さんは」
「それは、願いの話ですか?」
泉里の話を聞きながら、マスターはグラスを磨いた。いつも通りの仕草を続けることで、特別ではないということを泉里に伝えたかった。
「そうです」
怒ったり、悲しんだり、悩んだりするのが人間という生き物だ。だから、こうしてお酒を飲み、心の内を吐露することは、特別なことでもなんでもない。
「鋼さんの言うことも、私、わかってるつもりです……でも、必死に生きてる人だっているんです。どうしようもなく、そうするしかなかった人たちだって。鋼さんのやり方は一方的すぎます。その人の人生とか、事情とか、何も考えずに」
「そんなまさか。彼が杠君にしたことを、もうお忘れですか?」
「それは……」
「彼だって人間です。好意を寄せていた女性が、他の男性と仲良くしていたら、嫉妬の一つや二つするでしょう」
泉里の頭の中で、ムッとして言い返したい自分と、ちょっぴり嬉しい自分が、全面戦争を開始した。頬が熱くなり、怒りと喜びを行ったり来たりする唇が、よくわからない形でぴくぴくと痙攣した。
その様子を見て、マスターは付け加えた。
「もちろん、だからと言って、彼のしたことが正しいとは言いませんが――私たちは時々、忘れてしまうんですよ。入川鋼という探偵が、同じ人間であるということを。それは彼が……誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない男であるが故です。ひょっとして彼は、神からの使いなのではないか、なんでもできる、スーパーマンのような男なのではないか……そんなこと、考えたことありませんか?」
マスターはグラスを磨き終え、そっと戻し、泉里を見た。返事が無かったので、また新しいグラスを手に取った。
「私はあります」
静かにグラスを磨きながら、マスターは考えていた。この傷心の女性に、自分がしてやれる話は一つしかない。それを暴露するのは死ぬほど恥ずかしいことだが、その時世話になったのは、他でもない鋼だ。
「私はかつて、プロのビリヤード選手でした」
「え?」
世話になった願い探偵のために。マスターが贈る話はこうだ。
「もう五年も前の話ですが。私がキューで叩けば百発百中。球がポケットに入らなかったことなど、一度もありませんでした。あまりに外さないので、わざと空ぶってみせたくらいです。
ビリヤードのとりこになったのは、私がまだ八歳の時。父親に連れられ、近所の店で、大人に混じってやったのが始まりでした。あの頃は楽しかった。
はじめは下手くそでした。でも、キューで球を撞くあの感覚、とりこになりましてね……いやはや、学校から帰ったら、わき目も振らずにビリヤード台ですよ。今思うと、変わった子供だったでしょう。でも、楽しかったのです。
毎日練習して、毎日失敗して、何度も何度も悔しい思いをして、ついには夢にまで見るようになりました。夢の中でビリヤードですよ、もう病的と言ってもいいでしょうね。
で、練習するうちに、私は誰よりもうまくなった。どんなに難しい配置でも、絶体絶命の局面でも、私に打開できないことはなかった。最後には、そう、絶対に外さなくなり、気付けば私は、史上最年少でプロにまで上り詰めた。
もうね、敵なしなんですよ。私は自分が天才かと思っていました。どんなに遊び惚けても、酒と女に溺れても、腕は落ちない。そのうち、酔っぱらったまま試合に出るようになりましたが、それでも負けない。いつしか私は、自分がなぜビリヤードを好きだったのか、まったくわからなくなってしまいました。もはや、生活するために、遊ぶためだけに続けているようなものでした。
そうして、自堕落なプロとして活動をしていたころ……鋼君に会いました。私が千鳥足でも優勝するんですから、他の選手が黙っているはずがありません。何か裏があるに違いないと、願い探偵に依頼したんですよ」
マスターは思い出していた。あの時、あの場所で、自分の人生に光明をもたらした、迷惑千万な願い探偵を。
「今でも覚えています。鋼君の、あの、全てを見通すかのような澄んだ目を」
鋼は、入川鋼は、人ごみの中をあてもなくさまよっていた。
「はあ……はあ……」
足がふらつく。
「泉里……」
頭がガンガンする。
「泉里、泉里……」
そして何より、体が鉛のように重たい。
「泉里……!」
それでも、探していた。
『この前の試合で久しぶりに会ったけど……あんなに楽しそうな泉里は初めて見た。あんたは嫌なやつだ。でも……たぶん、あいつにとっては、違うんだと思うぜ』
別れ際、九次に言われた言葉が、ずっと頭の中で鳴り響いていた。当てもなく走り出し、走れなくなってからも歩き続け、謝罪するべき相手を探していた。
「いってえな!……気をつけろ!」
通行人とぶつかり、鋼は力なく倒れ込んだ。アルコールに支配された身体と心では、一秒たりとも踏ん張れなかった。
ここがどこかもわからない。
よどんだ空から、灰色の水が、ポツリ、ポツリと落ちてきた。
それらは不規則なリズムで繰り返し、増え続け、最後には土砂降りの雨となって鋼を襲った。
「あぁ……」
鋼は諦めて目をつぶった。
よくわからない道の上で、よくわからない建物に背中を預け、願い探偵は天を仰いだ。
泉里にひどいことをした。
せめて謝りたいのに、自分は、泉里を見つけることさえできやしない。
生まれて初めて、己の無力さを知った。思い知った。痛感した。
道行く人は、鋼を避けて歩いていた。そのまぶたが力なく閉じられても、誰一人、気にも留めなかった。
追憶の中、若き日のマスターは、もっと若い鋼に怒鳴り散らしていた。
『はぁ⁉俺の才能を否定するのか⁉いい度胸してるじゃねえか!若いくせに、偉そうにしやがって!俺が!どれだけの努力を積んできたと思ってる!』
鋼は今の泉里と同じくらいの年だった。すでにおなじみのコートを羽織っていたが、髭だけが違った。きちんと剃られたつるつるの顔で、すました表情をしていた。
『みんなそう言うんです。証拠が無い、とか。でまかせだ、とか。たしかに、証明するのはすごく難しい。でも、わざとにしろ無意識にしろ、あなたはそう願ったんです。そして私にはわかるんです。〝狙ったものは外さない〟。それがあなたのかなえた願いだ』
『あぁ⁉なにが――』
『信じられないと言うのなら、これを投げてみてください』
その時鋼から手渡されたのは、ダーツの矢だった。ボロボロで、羽がひび割れていた。マスターは当時と同じようにそれを持ち、泉里の方を向いたまま、当てずっぽうに投げた。
タルコナの出入り口に向けて飛んでいったダーツの矢は、ありえない軌道を描いて反転した。そして、店の一番奥にある的の、ど真ん中を射抜いた。
息を飲む泉里に、マスターは片方の眉を吊り上げてみせる。
「子供の頃に、夢を見たと言ったでしょう?ビリヤードの。実はその時、夢の中で、神様に会っていたんです。そして願った。『狙ったものは外さない』と」
マスターはカウンターを出て、ダーツの的の方へ歩いて行った。
「悪気はなかったんです。子供心に、純粋にそう願った。そしてそれを、ただの夢だと思い込んでいた。しかし、神様はきっちり願いを聞き入れ、私の願いをかなえてみせた。インチキプロ誕生のきっかけです」
泉里が見ている前で、マスターはボロボロの矢を引き抜き、手のひらで転がした。昔を懐かしみながら、自分の定位置まで戻った。
「それっきり、私はプロを引退しました。顔から火が出るほど恥ずかしかった。自らの才能だと、努力の結果だと思っていた自分を恥じました」
その矢は、マスターの犯した罪の証明であると同時に、かけがえのないお守りでもある。だからマスターは、今でも、当時の矢を後生大事に保管しているのだ。
「でも私は……鋼君に感謝しています。彼のおかげで、私は、努力するということはなんたるか、もう一度気付くことができました。お金を稼ぐということがどれほど難しいことか。おいしいお酒を造ることが、どれほど難しいことか。そして、それらを達成した時、どれほど心が満たされるか……」
「そうだったんですね……じゃあ……」
「ええ、おいしいお酒を造れる、というのは嘘です」
ダーツの矢をそっとしまい、マスターは頷いた。
泉里は、信じられない思いでキールを見つめた。赤い光を放つカクテルは、この世の物とは思えないおいしさで彼女を満たしていたからだ。
「こんなにおいしいのに……」
「あぁ、そう言ってくれることが、どれほど嬉しいことか……ふふっ。最初は、全然うまく作れなくて……鋼君、しかめっ面になりながら飲んでいたんですよ。それが今では、みんな、おいしいおいしいって、来てくれる。鋼君だけは、マズかったころの印象が強すぎて、飲んでくれませんが」
マスターは後ろに置いてある鋼専用のスコッチの瓶を見て、残念そうに笑った。
『だってまじいじゃん』
初めてタルコナに来た時、鋼はそう言っていた。
その言葉の裏に、こんな話が隠されていたなんて、泉里は思いもしなかった。
「あの人に願いをバラされて、感謝する人もいるんですね……」
「感謝?いいえ、とんでもない!感謝感激ですよ!私は彼に教えてもらったんです。人生の楽しみと、汗をかくことの素晴らしさをね!おかげさまで、酒におぼれることはなくなったし、めちゃくちゃな生活をして、女性を泣かせることもなくなった。私の人生は今、限りなく満たされているのです」
「素敵なお話……」
泉里はしみじみと言った。
「私だけではありませんよ。彼は、鋼君は、みんなに気付いて欲しいんです」
「えっ……?」
「人間、間違う生き物です。ちゃんとした願いを言う人もいれば、間違ったことを願う人もいる。そして奇妙なことに、間違った願いをかなえた人ほど、その過ちに気付かないものなのです。一番いい例が私ですが――だが人間、いつでも、いつまでも、やり直すチャンスがある。自分の願いを見つめなおし、やり直すチャンスが」
マスターはスコッチの瓶を手に取り、心地の良い音を鳴らして開けた。
「鋼君は、手当たり次第に願いを暴いてるんじゃない。その人に必要な時に、きちんと、正しいことを伝えているんです。嘘つきだと、ペテン師だと、証拠を出せだのでまかせだの言われても、めげずに続けている」
小さなグラスに、どろりとした茶色の液体が注がれていく。
きっとマスターは、いつもここに座っていた人に捧げるため、ついであげてるんだ。泉里はそう感じていた。
「そうして救われた人間が、いったい何人いることでしょう?私が知っているだけで四人はいるし、あなたも一人、マジシャンとしてやり直した人間を知っている」
「どうして……どうして、続けるんでしょう?お金稼ぎのため?」
「それもあるでしょう。彼も人間だから、食わなきゃ生きていけない。食うには金が要る。でもね、あえてその仕事を選んだのは、彼だからこその理由があるのです」
「鋼さんだから……?」
「そう。彼はね、自分の存在意義が何にもわからない。なーんにも。生まれた場所も、生んでくれた人も、父親も、名前の由来も……極めつけは、自分がなぜ、あんな特殊な力を持って生まれたのかさえも」
泉里には、マスターの顔が少々曇って見えた。自分の過去を話している時より、よっぽど辛そうだった。
「小さい頃は、大変に苦労したと聞いています。育った環境が、ではありませんよ。もちろん、養護施設は満足のいく環境ではないでしょうが……願いがわかってしまう、ということは、同時に、呪いでもあるんです。彼は純粋だった。純粋であるがゆえに、人の願いを暴き、口にしてしまった。私や鮫島君に出会うまでは、全くと言っていいほど、友人に恵まれなかったと聞いています」
『――なんでオレだけ、一人……』
公園で出会った時、鋼は膝を、拳を、唇を……体のあらゆる部位をわなわなと震わせていた。手に持っていた牛乳がばちゃばちゃと落ちていき、足元の地面が薄茶色に変わっていた。
「どれほどの孤独だったでしょう、どれほどの絶望だったでしょう。それなのに、神様は何も答えてくれない。今の今だって、彼はなぜ、自分があの力を持っているのか、わからないままです」
マスターは、鋼の身の上を憂いた。自らの境遇が一向に改善しないのに、他人を救ってばかりの男を。その境遇を、端的かつ的確に言ってみせた。
「わかるのは一つだけ。いつも、一つだけ」
鋼にとってその一つがどれだけ重たいものか、泉里はようやく気が付いた。
あの時願い探偵が黙りこくってしまったのは、その顔に刻まれたシワが、泉里には理解の及ばない怒りと悲しみ、果ては苦しみまでも抱えていたのは、呪いのような力が原因だったのだ。
「だからせめて、他の人には……道をそれてしまった人には。生まれた意味を、願いをかなえた理由を、気付かせてやりたいんです。思い出させてあげたいのです。自分と違い、あなたには生きる理由があるのだから、と」
マスターは、スコッチを注いだグラスを、カウンターの真ん中に滑らせた。そこは未だ、空っぽのままだ。
「そうでなければ、〝願い探偵〟なんて儲からない仕事、生業にしませんよ」
「生きる理由……」
泉里は鋼のスコッチをじっと見つめた。まるで、それが鋼自身であるかのように、見つめ続けていた。
「彼は、願いを言う必要が無いんじゃない。何を願ったらいいのか、わからないんですよ。神様にお願いして、答えを聞くこともできる。でも、それでは意味がない。だって、どんな願いを言えばいいか分かった時に、その願いを使い果たしてしまっていたら!それこそ空虚な人生です。彼は待っているんですよ、その時を。人の願いを見ていたら、いつかわかると信じてね」