第一章 願い探偵
彼の名前は入川鋼、人呼んで願い探偵だ。
彼には、他人がかなえた願いがわかるという、特殊な能力が授けられていた。
どういうことか、補足しておこう。
この世界には神がいる。神と言っても、君たちが考えるような神とは少し違う。天地を創造したわけでもないし、土から人を作り出したわけでもない。大洪水を起こしたこともなければ、預言者を通じて声を届けたこともない。
この世界の神様は、七十億の人間一人一人に、必ず会いに来る。姿形は決まっていないし、声も聴く人によって様々。一説には、その人間のもつ神のイメージに合わせて、見た目を変えているとか、いないとか。
しかし、そんな様々な姿を持つ神様にも、共通していることが一つだけある。それは――
一つだけ、なんでも願いをかなえてくれる。
鋼は、入川鋼は、最悪の気分で路地裏をさまよっていた。
怒りと苛立ちの混じった、最悪の気分だ。
願い探偵のオレに、ただの浮気調査だと?
細い裏路地をあっちへフラフラ、こっちへフラフラ、生ゴミの入ったポリバケツを幾多となぎ倒し、驚いたネズミに噛みつかれ、どこから飛んで来たのかよくわからない古新聞の一面が、顔にへばりついていた。
「おっかしいな……?」
確かにおっかしい。簡単な浮気調査のはずだったのに、対象人物の動きを掴めていない。
鋼はトレンチコートのポケットをまさぐり――何度も空ぶった挙句、左の内ポケットから出てきた――依頼頼主の女から渡された写真を取り出した。
堀が深く、眉が吊り上がった男の写真。二十四、五にもなろうかというのに、チャラチャラとした金髪を……いや、これは就職前の写真だとか言っていた。
女から渡されたのは写真だけではない。この男の名前、住所などを提供され、自宅を出たところだってきちんと把握した。そこから徒歩十二分の駅まで追い、隣の車両に乗車、六つ目の駅で降りて、駅構内のコンビニで朝食を買うのを確認して――ついでに自分の昼飯として握り飯を二つ買った――そしてさらに歩いて六分、大層な輝きを放つ二十階建てのビルに入っていき、見事に出勤を果たした。
にも関わらずだ。鋼は対象の男を見失った。
ビルとは反対側の歩道で、二つ目の握り飯をボリボリと食っていた時、そいつが会社から出て来るのを見た。そこまでは完璧だった。
しかし、繁華街に入ったと思った途端ロストした。曲がり角で見失ったとか、信号に引っかかったとか、尾行に気付かれて巻かれたとか、そんな生易しいものではない。普通に二、三メートル後をつけていただけなのに、いきなり姿が消えた。
最初は目の錯覚かと思っていたが、いやはや鋼はそんな男ではない。誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない男だった。
「……あっ、そうか」
自分の才能を思い出し、鋼は写真を握りつぶした。最初からそうすればよかったのだ。
「困るよハガちゃぁん……最近は個人情報うるさいんだから」
ハゲかかった頭を丸刈りで誤魔化したコンビニオーナー、和達大蔵は唸っていた。
「別に悪用しようってわけじゃないんだから、いいだろオヤジ。誰のおかげで、ここら一体のコンビニ覇権争いに勝てたと思ってんの」
半ば脅すような恰好で、鋼はコンビニのバックヤードに入っていた。
ここには、入荷したばかりの商品が段ボールのままうずたかく積まれており、足の踏み場もない。せわしく動く店員達は時折その山にぶつかり、フラフラとする段ボールに怯えながら仕事をしている。
さて、その山々を抜けた先、バックヤードの隅には、大きなモニターを備えたPCが置いてある。これは警備会社から提供された防犯カメラシステムとつながっており、店内の映像を自在に確認することができる。
「ほらオヤジ、この時間帯だけでいい。サクッと見せてくれ、サクッと」
「あー、うー、もー……!」
和達はやっぱり唸りながら、右手でマウスを操った。左手には、鋼から無理やり押し付けられたメモが握られている。
「えっとぉ……?なんだよハガちゃぁん、四日分もあるじゃない」
「そうだよオヤジィ……四日も空ぶったんだオレはぁ……」
和達のツルツル頭に寄り掛かりながら、鋼は悪そうにニヤッとした。
「ハガちゃんが巻かれるなんて……たいした野郎じゃないの。ねえ」
「いんや、このオレから逃れるということは……答えは一つしかない。これはその確認だ」
「一つ……?あっ、うーん……なるほどね……ほらよ」
和達の表示した店舗出入り口の録画映像。それを見た瞬間、鋼はデジカメのシャッターを切った。
「えぇ⁉そんなことがあるの⁉」
「そうとしか考えられません」
小ぢんまりとした喫茶店で、鋼は依頼主の女と対面していた。頼んだのはブラックのコーヒー。いつぶっかけられてもいいように、アイスにしてある。
「そんなぁ……信じられない……」
けばけばしい女は、さめざめと泣いている。いや、泣きそうなのを一生懸命こらえている。
いい年してその化粧はないだろう。鋼はもう、八回は同じことを思っている。あと、女が紅茶にミルクをこれでもかと入れたのにも辟易している。フォートメイソンならストレートだろうが。
「まあ、今からお見せしますので、それを見て判断してください」
コーヒーを一すすり、女はしゃくりあげ、お次はチリンチリンという鐘の音。小ぢんまりとした喫茶店に音が溢れかえる。
「おっすー、久美子っ……あれ、誰?」
やってきたのは、六日前に握りつぶした写真と同じ顔。もちろん、一端の企業に勤めるサラリーマンなので、金髪ではない。
「しゅうじぃ……」
けばけばしい女は、一筋の涙を流しながら男を迎え入れた。
「髙畑修二さん。ようこそお待ちしておりました。こちらへどうぞ」
鋼はグラスをコースターに戻し、淡々と男を迎え入れた。
「えっ?えっ?あぁ……?はい」
しどろもどろしながら、髙畑は席についた。座ったのは女の隣だ。
「お初お目にかかりまます。私、こういう者でして……」
鋼はトレンチコートのポケットをまさぐり――何度も空ぶった挙句、左の内ポケットから出てきた――名刺ケースを取り出した。
「え……願い探偵……?」
「願い探偵です」
名刺ケースの中身は、鋼自身の名刺だった。名前と職業をいっぺんに説明できるので、こういう時に渡している。
「なに……?これ……」
「単刀直入に申し上げます。私、誰が何の願いをかなえたのか、見ただけでわかるんです」
「は……?」
ぽかんと首をかしげる髙畑を、鋼はじっと見つめた。右ひじを支えとして、人差し指と中指をこめかみに当てる形で頬杖をついた。
髙畑の目は随分と濁っていた。悪いことを考えていたり、嘘をついている人間はたいてい濁っている。もっとも、いくら鋼でも、他人の心中まで推し量ることはできないのだが。
わかるのは一つだけ。いつも、一つだけ。
「やはり……あなたのかなえた願いは〝浮気の後をつけられない〟ですね」
鋼にとっては、その一つだけで十分だった。いつも、十分だった。
「なっ……はっ……な、何を言って……!」
「やっぱりぃ!そうなんだぁ……!」
男女の反応は真っ二つに分かれた。男は一声叫びあげ、女は二つしゃくりあげ、お次に運悪く、隣の席で食器が割れた。小ぢんまりとした喫茶店に音が溢れかえる。
「す、すいません……!」
若いウェーターがペコペコやっているのを見ながら、鋼は頬杖を解いた。もう、まじまじと濁り眼を見つめる必要はない。
「い、いいい、いきなり何言ってんだよあんた!えぇ⁉お前も、何泣いてんだよ!こんなっ……いきなり訳の分かんないこと信じてんじゃねえよ!あん?」
慌てふためく、のお手本を見ている気分だった。鋼に怒鳴ったり、女に怒鳴ったり、男は大忙しだ。
「し、失礼な話だ!あぁ⁉何の証拠があって、あんた、そんなことを……!お前!信じるなって!」
「だ、だって……!願い探偵だもん……!」
「だから何なんだよ!それ……!証拠はあんのかよ!証拠は!」
世の中の金髪が全員そうとは限らないが、金髪にするような人間はガラの悪い奴が多い、と鋼は思っていた。
目の前にいる髙畑という男は、その典型のようなタイプだった。おそらく、人より少々勉強ができたので、まっとうな商社に勤めることができたのだろう。
しかし、根はバカ。人より少し顔が整っているからという理由だけで、多数の女に手を出している、バカだ。
「髙畑さんのおっしゃりたいことは分かります。この仕事やってますとね、みなさんそう言われるんです。でもわかっちゃうんですよ、私」
「は、はあ……?何が……」
「例えばあなたの彼女、かなえた願いは〝志望大学に合格したい〟のはずです。ぶしつけながら、初めてお会いした時から分かっていました。どうですか?」
「あ、あっでまずぅ……」
女はハンカチを噛みしめ、嗚咽をこらえながら頷いた。頭が悪そうに見えて、そこそこの大学を出ているのは、やはりそれが理由だった。
穏やかでないのは髙畑だ。その表情は疑念から驚きに変わった。
「そ、そんな……じゃない!それが本当だからって!どうだって言うんだ!えぇ⁉」
「私はこれでも、一端の探偵です。尾行、内偵、調査……たいていのことはそつなく、いえ、完璧にこなしてきました」
「は……?」
「その私が、途中で撒かれることなどほとんど、いえ、絶対にありえない。実際問題、あなたが家を出て、出勤するまでは、毎朝追えていました」
「はい……?」
「つまり、そういうことです。あなたを見失ったタイミングは、決まってあなたが――」
鋼はコンビニで撮った写真を投げ出した。
「――他の女性と、歩いている時だ」
詳しく見なくても分かった。机の上に置かれた四日分のそれには、コンビニのすぐ外を歩く、髙畑の姿が収められていた。しかも、四日とも相手が違うというおまけつきだ。
「あ、あいや……それは……」
決定的な証拠を出され、髙畑は二の句が出てこない。写真と女を行ったり来たり、その視線はせわしない。
「後はつけられなくても、機械には映像が残る。願い方が甘かったですね」
「えぇぇぇん!いやああぁぁぁ!」
女は今度こそさめざめと泣き始め、小ぢんまりとした喫茶店は音で溢れかえった。
鋼は顔をしかめ、小さなメモ紙に口座番号を書き記した。女の泣き声はうんざりだ。うるさいばかりで前に進まない。
「言いたいことは色々あるでしょうが、これで私の調査は終了です。振り込みはこちらへ。では」
フォートメイソンの横にメモ紙を置き、鋼は立ち上がった。
で、こういう時、必要もないのに前に進むのがバカの真骨頂だ。鋼の動きに合わせて、髙畑はすかさず立ち上がった。
「罠だ!こっ、こんなもの……罠だ!合成だ!」
「後はお二人でお話しください。私の仕事はこれでお終いです」
この仕事、往々にしてこういう場面に遭遇する。
願いがわかるという特殊能力は、時に呪いにもなる。言うなれば諸刃の剣なのだ。
いや、さて、無益なことはできるだけ避けたい。この男の相手をしても、一銭も懐に入りやしない。これは鋼のポリシーであり、永遠の課題でもあった。
それ故に、対処する力も鋼には備わっている。誰よりも洞察力に優れ、誰よりも身体能力が高く、誰よりも抜け目のない男だった。
「このイカさま野郎!」
髙畑がひっつかんだのは、飲みかけだった鋼のコーヒーだ。持ちやすい距離感にあったとはいえ、人の飲食物を投げつけるとは何事だ。
「おっと」
鋼は左手を突き出し、コーヒー握る髙畑の右手をはじいた。残念ながら、グラスは止まっても、中の液体までは止まらない。冷たい黒水は鋼のトレンチコートをばっちゃりと濡らした。
「ふん!」
濡れてしまったものは仕方ない。鋼は右手で髙畑の肩を掴むと、さっさと左手を回転させ、がら空きの額をぶん殴った。
「でっ!っつぇ~!」
拳がめり込んだ額は、焼き立てのもちの様に腫れ上がった。髙畑は顔をくちゃくちゃにし、女の横にへたりこんだ。
女は最後まで泣き叫んでいた。
どいつもこいつも、余計なことばっかりしやがる。我慢しようと思ったが、最後に一言、言ってやらねば腹の虫が収まらぬ。
「ご利用ありがとうございました。またのご利用、お待ちしております」
にっこりと営業スマイルを見せ、入川鋼は頭を下げた。