メリークリスマス。あなたにも、勿論、ぼくにも。
仔リスも来る、うどん屋なんです。今日は一体、どんな客が来るのでしょう^^
本から目を離した梨奈は、大きく溜息をついた。ここは駅地下街に面している喫茶店だ。食券式で、しかも破格に安いために休日の夕刻には利用客が溢れ返る。
つい五分ほど前に年老いた男から、わけのわからない難癖をつけられたばかりだった。
「この荷物、あんたの?」
「あ、はい」
彼女はカウンター席に座っていた。空いていた隣の席に、自分のコートやバックをいただけだ。なにかバッグからこぼれ落ちたものがあったかと、そちらの床を向いたと同時。罵声が浴びせられていた。
「おまえに目は付いてんのか! 混んできただろうがよ! それ、わかんねえのかよ!」
「は、はあ」
老人は怒鳴り続ける。
「こういうの迷惑だろうが!」
はあ。そうなんですね。
でも、この喫茶店って。注文したものを受け取って座れる席は、階段の下にも沢山あるんですけどね。要は受け取ったモノを載せてトレイを運ぶ席は、ここのフロアと地下にもあるということなんですけどね。
それに座席がどうこう、他の人に配慮しろっていうのは、金銭を払っている客の立場のわたしじゃないんですけど。
ぽかんと口を開けた梨奈に、老人は怒鳴り続ける。「目が付いているのか」もなにも、本を読んでいるのだから、わからない。
「こっちの言うこと、聞いてんのか!」
年老いた男の顔が醜くゆがんだ。唾液が梨奈の手の甲まで、飛んでくる。
「あ、はい。聞いてます。すみません」
ぽかーんとした思考のまま、言い繕って下を向いた。
老人は、まだ言い足りないようだ。理不尽なビリビリとした空気が伝わってくる。周りの客は知らん顔だ。
(まあ、そんなものですよねえ)
顔を上げて地下街通路に視線を向けると、さっきの老人が梨奈に向かって阿修羅の形相をしている。
「バカか、あんた」
口汚い言葉が思わず出てしまう。彼女の唇のかたちを読み取った老人は顔を赤黒くして、さっさと歩きはじめた。
「疲れちゃったな」
つぶやいて本へと視線を移すが、内容がちっとも頭に入ってこない。どうしてだろう。ちっとも熱中できなくなったのだ。大好きな小説のはずが、これっぽっちも躍動感や情緒が伝わって来なくなってしまった。
とりあえず五分、耐えた。けれど、どうしてもダメだ。
梨奈は、いじいじと腰を上げる。
つまんない一日だ、と思った。
上司は前から頼んでいることに何も手を付けていないことが発覚したり、欠勤した同僚の大量のミスを出勤している皆で分担して片付ける羽目になったり、しかも一番の難しい問題を抱えている案件を処理するのが自分だったり。
気晴らしに入った安い喫茶店では、この有り様。梨奈は眉間に皺が寄ることを自覚する。改札へと歩く道々に、彼女はつぶやく。
「あの店は、休日に利用するのを避けるべきね」
とりあえず、それで余計なトラブルからは逃れられるだろう。でも、「今しがた起こった、割り切れないこと」は消化できていない。
梨奈はバッグを持ち直して、腕時計を見た。時刻は五時半を指している。
「ううー」
唸りながら、目の前にある階段を登ってしまう。通勤に使う改札口に、あと二分足らずで到着するというのに。どうして、そんな行動に出たのかは彼女自身でも分からない。その階段を登れば、会社から直線距離にして十分ほどの大通りに出る。
いつのまにか、がむしゃらに歩いていた。
いつもよりも行き交う人が多い。ああ、そうか。今日はクリスマスイブなのね。道理で男女の組み合わせが多いわけね、わたしには関係ないわ。皆さん、楽しそうでいいわね。なによりだね。
なんとなく鼻頭が熱くなる。
いつのまにか梨奈は、暗い路地に入っていた。帰りの電車なんて、もうどうでもいい気分になっている。
明日も仕事なのに。わたし、なにしているの。どうでもいいよ、このあたりビジネスホテル密集街だし。なんとかなるわよ。なんとか、ってなによ。明日の朝にタイムカードを、出勤時間に間に合うように差し込めればいいじゃない。頭おかしいよ、あんた。どうでもいいじゃん、そんなこと。
様々な感情が、ぐるぐる頭の中をせめぎあっているうち。
ぽん、と押し出されるように。
うどん屋の前に立っていた。
控え目な大きさの赤提灯には、お世辞にも上手とは言えない筆文字で「うどん」と書いてある。けれども梨奈は、その文字を見た途端に涙ぐんでいた。
――運命なんだ。
くちゃくちゃに散らばっていた感情が、ひとつにまとまる。迷わず、引き戸を開けていた。
「いらっしゃいませ」
カウンター奥に、店主らしいヒトがいる。きつねのお面を頭に乗せた若い男だ。梨奈に笑いかけていた。
変わった店だな、と一瞬で思った。
でも、扉を開けてしまったのだ。踵を返す気には、なれない。けれども顔がこわばったままだ。
とてもではないが笑えない。口元だけでも、笑い返すことができない。それどころか足が勝手に進んで、カウンターへと腰掛けている。
「狭い店だね」
つぶやくと若い男が、ますます頬をほころばせた。
「チェーン展開している路面店とは違いますから」
「そう」
「ぼくの店です」
「あなたの」
軽く驚嘆した梨奈は、あらためて店内を見回す。本当に、狭い店だった。畳で言ったら八畳もないかもしれない。席数はカウンターを含めても二十あるか、ないか。今、自分が座っているカウンターには、詰めても四人座れたらいいほうだろう。
「はい。最近、開店したんですよ」
「へ、へえ。がんばっているんだね」
適当に言葉を返す。きつねのお面をかぶった若い男が、やさしいまなざしで首を傾げて梨奈を窺う。
「見た感じ、あなたも。がんばっているのでしょう?」
「いい加減なこと言わないで」
言ったあと、梨奈は「しまった!」と思った。カウンターの向こうにいる相手は、見た目は若いが客商売の百戦錬磨かもしれないのだ。だとしたら、今の自分の返事は悪手中の悪手でしかない。第一印象で店主側に「イヤなヤツ」と判断されてしまうだけだ。
イヤなヤツ、イヤな客。理不尽に怒鳴り続けた、あの老人と変わりがないではないか。
しかし若い男は、親身になるかのような視線をくれるだけだ。そして、梨奈へと水を差し出した。
そんな態度を取られると、いくら商売上でも……こちらは謝らずにはいられない。
「すみません」
ひとこと、断ってから梨奈はコップを受け取った。
「いえいえ」
にこにことした態度を崩さない男が差し出した水は、梨奈の全身にスッキリと染み渡った。思わず、声が出ている。
「おいしいですね」
「ありがとうございます」
にこにこっとした空気をまといながらも、でしゃばった態度が一切ない。彼の振舞いは、梨奈の疲れた心に心地よく響く。
「どんな風に、お腹が空いていますか」
きつねのお面を帽子のように乗せた若い男は、不思議な尋ね方をした。それがオーダーを聞いていると気が付いたのは、ちょっと考えてからだ。
「わからない」
「わからないの」
若い男が声を落としながら、梨奈へとオウム返しをする。
「自分が今どうしたいか、わからない。感覚が麻痺しているのかもしれない、でもなにか違うことが必要なのかもしれないと思ってる。食べるものも、同じ」
なぜか口をついて出た言葉は素直なものだった。若い男は真摯に「うんうん」とうなずいている。梨奈の頭の中が、ふたたびカオスになりはじめた。
わたし、バカじゃないの。こんな初対面の相手に、無防備になって。
いいよ別に。だって、あっちだって。客商売なんだもの、適当にあしらってくれているだけじゃない。だったら、上手にあしらわれて帰れば丸く収まるんだよ。
ああ、そうかあ。丸く、ね。
そうだよ、帰るまでの、いっとき。
いっとき。
そんな風に、自問自答している梨奈の目の前。ショートケーキと紅茶が置かれている。我に返った梨奈は、眼前の男を見つめた。
「ここ、うどん屋じゃないの」
「そうですよ」
若い男は整った眉を思いきり下げたように見えた。
「いいじゃないですか。今日はクリスマスイブだもの。こんなうどん屋が、世界で一軒くらいあっても別にいいでしょ」
「そ、それは。そうだけど」
「それに今日のお客さんは夜更け前までは、あなただけみたいだし。ぼくも物足りなかったんですよね、開店休業状態は寂しかったし、ちょっとだけでいいから一緒にイブを過ごしましょうよ」
梨奈は戸惑いながら、男とショートケーキを交互に見つめた。つやつやした大粒の苺の赤と、男の頬の赤味と唇の色とは同じような気がする。ケーキを包む真っ白いクリームと丁寧なデコレーションは、男の肌の色や手入れしている爪先の繊細さ、そのもののように思えた。
「一緒に食べましょ」
いつしか男は、梨奈の隣に来ていた。
「え、いいの」
「はい」
邪気のない笑顔の男は、眼前のケーキにちいさなフォークを入れる。なんだか、うながされているような気がした梨奈も、それに倣っている。
「お客さんは、ちょっとだけ。疲れているだけ」
「そうかなあ」
言いながら、梨奈の目頭が熱くなる。うつむいた。男の静かな声が、押し付けるでもなく励ますでもなく。心に沁みこんでいく。
「わからないヤツは、いますよ。どんなときでも」
「ん」
くすん、と梨奈は鼻を鳴らした。黙っていたら、涙がぼろぼろ出てしまう。
「そういえば、今日はクリスマスイブだったのよね」
きつねのお面を帽子のようにかぶった男が、梨奈をじっと見据えてくる。
「あなたが疲れたときには、この店に来れるようにしておきますね」
「疲れないと、来れないの」
梨奈の唇から、ちいさな子供が甘えるような声が漏れる。
「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。でも、本当に元気になったときには、ぼくの店の存在は目に入らないと思いますよ」
まなざしは、どこまでもやさしかった。
「……じゃあ、たぶん。しばらくは来れると思うわ」
「はい」
立ち上がった男が次に梨奈へと出したモノは、鍋焼きうどん。これも、ふたりで並んで食べた。
「あったかいね」
泣きそうなところをこらえて、梨奈が精一杯の気持ちを伝える。
「ぼくも、あたたかくなりました」
カウンター内側に戻っていた店主は目を細めて、梨奈を見つめた。ゆったりした笑顔が、この世の人ではないように思えた。
「ねえ、教えて」
会計をしながら、梨奈は若い店主に尋ねる。
「わたしが元気になったら、この店には来れなくなるの」
釣り銭をくれながら、店主が笑う。
「あなたが必要なときに、ぼくはあなたのそばにいますよ」
どういうこと、と聞き返す間もなく。梨奈の気持ちに、真摯なひとことが響いてくる。
「あなたが忘れてしまっても、ここからあなたを見ている。あなたが元気であれば、それでいい」
「そう」
店を出て。
その日から梨奈は仕事休みの日に、あのうどん屋を探そうとした。けれども、どうしても見つからない。