傘
仕事を済ませて職場を出て、少し歩くと雨が降ってきた。アスファルトのグレーがポツポツと濃くなっていく。持っていた傘を開き、バス停に向かう。バス停には先客がいた。赤ちゃんを抱えた女性だった。傘は持っていなかった。
このバス停には、屋根がない。母親は、抱っこ紐のフードを赤ん坊に被せ、自身の頭を赤ん坊の方へ倒していた。赤ん坊が少しでも濡れないようにだろう。
傘を差し出すべきか。否か。差し出したい気持ちはある。しかし嫌な顔をされないだろうか。気持ち悪いと思われないだろうか。不審者と思われないだろうか。傘を差し出せば自然、自分が濡れることになる。それ自体はまぁ構わないが、しかしそんな自己犠牲の押し売りみたいなものは迷惑、鬱陶しいと思われないだろうか。
そんなことを逡巡した後、とりあえず、「あの、よかったら」そう言って、傘の大半を母子の上にかぶせた。多分、異世界に行くような主人公なら、こうするだろう。驚かせないよう、できるだけ感じのいい声で、表情は微笑で。傘から滴る雨粒が、赤ん坊にかからぬように注意する。母親は一瞬驚いたように軽く目を見開いたが、すぐに嬉しそうに笑って、「ありがとうございます」と返してくれた。僕はほっとした。
「かわいいですね」
「ありがとうございます。もうすぐ一歳なんです」
「あら。じゃあ風邪をひかせるわけにはいきませんね」
「すみません」
「いえ」
自分の発言が、母親を責めるようなものになってしまったかと一瞬後悔したが、構わず続ける。
「誕生日はお祝いするんですか?」
母親は当日の予定を簡単に教えてくれた。
バスを待つ列の後ろに、会社の人間も数名いた。顔は知っているがあまり会話は交わさない。こちらを見る視線に気づいたが、どう思われても気にしないことにした。たぶん別にどうも思わないだろう。やがてバスが来た。
「すみません。ありがとうございました」
「いいえ」
お互いに何度も同じ言葉を繰り返している。母親は手すりを持ってステップにあがった。行先は僕と同じ、終点の駅までらしい。母子は前方の優先席に座り、僕は後方の一人掛けの席に座った。
毎日乗るバスである。流れていく景色は代わり映えしない。乗車時には夕暮色だった空は、すっかり紺色になっていた。昨日のきれいな月は雨雲に隠されて姿が見えない。窓に張りつく雨粒が街の明かりを暈している。
途中で次々と人が乗り込んでくる。母親と赤ちゃんの姿は、他の乗客に阻まれて見えなくなった。
改めて窓へ視線を移すと、自分の顔が映っていた。疲れている。瞳の中を街の灯りが通り抜ける。「雪国」にそんなシーンがあったなと思い、だけど雪国に出てくるのは悲しいほど声の美しいお嬢さんで、ここに映ってるのは悲しいほど生気のないくたびれた男で全然違った。少しでも体力を回復させようと、窓に頭をあずけた。髪が結露で汚れるのは気にしない。目を閉じると、耳が鋭敏になる。エンジンの音が聞こえる。後ろの席の話し声が聞こえる。停車駅を告げるアナウンスがあり、続いて降車を知らせるベルが鳴る。アナウンスで自分の現在地を知る。終点まではあと4駅くらい。
異世界から呼ばれるような主人公だったら、きっと何の迷いもなく傘を差し出せたんじゃないだろうか。会話ももっと上手に出来たんじゃないだろうか。僕は主人公みたいに振る舞うことが出来ただろうか。僕は異世界に行けるだろうか。
あの母親が実は女神で、親切にした僕を異世界へ誘ってくれないだろうか。目を開けたらそこは、剣と魔法のファンタジー世界になっていないだろうか。
そこまで考えて、この考え方だと傘を差し出したことの見返りを求めているようで、こんな自分はまだまだ主人公には程遠いなと思った。
異世界に行く主人公像を考えながら、もう半分の頭で、バスの外の景色を想像する。今はコンビニの前くらいだろう。いつも乗るバスだ。だいたいどのあたりを走っているかは、体感で分かる。次の角を曲がれば、終点である。目を開けた。
終点に着き、立っている客から順に降りていく。通路が開いて、座っていた客も席を立つ。先程の母子の姿が見えた。母親は最後に席を立つのだろう。立ち上がる素振りを見せない。
僕も人の流れに従って降車口に向かう。母子の前を通る時、母親はこちらを見て、小さく頭を下げた。こちらも会釈して、小さく赤ん坊に手を振ると、大きな目でまっすぐこっちを見て、口はしっかりと閉じて、なんというか、真剣な表情で、手を振りかえしてくれた。
バスを降りて、傘を開く。少し歩いて振り向くと、母親の手には傘があった。バスの中で買ったのだろう。一安心した。こちらの視線が母親に気付かれてまたお互い会釈してみたいなやり取りが続くのも気恥ずかしいので、僕は振り返って足早に駅に向かった。
気付くとニヤついていて、人のために行動できて嬉しかったのか、自分の好意が喜ばれて嬉しかったのか、赤ちゃんが手を振り返してくれて嬉しかったのか可愛かったのか、理由は色々だろうけれど、とりあえずニヤついているのは気持ちが悪いと思った。




