全ての始まり
「バレたらどうなるか、わかってるよな?」
突然かけられた荒い言葉。人生で初めて、命の危機だと感じた。
私は今、放課後の部活が終わってしんとした体育館倉庫の前で、クラスメイトに脅されている。
なんでこんなことになったんだろう。
考えれば、ことの始まりは、今朝のちょっとした出来事だった。
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私は私立帝華学園高等学校に通う一年生。
春に入学してから生徒会に推薦され、クラス委員の大役を半ば無理やり引き受けさせられたが、なんだかんだで仕事を楽しんでいる毎日を過ごしている。弓道部の活動も順調だし、一日一日が充実している。
今は二学期で、文化祭の直前であるためにとてつもなく忙しいが、先生や友達が協力的なこともあってか負担はそこまで重くはなく、やりがいも十分に感じている。
今朝も、生徒会に行く前に先生と文化祭についての話し合いをしたいと思ったことから、職員室に向かっていた。先生とのコミュニケーション及び生徒への情報提供は私の仕事の大部分を占めている。
相談は無事に終わり、私は生徒会長に相談内容を伝えた。
「美園会長、おはようございます。これが、例の書類らしいです。たった今先生から頂いてきました」
「おっ、さっちゃんか、ご苦労さん。…へえ、こういうコンセプトにするのか。予想外だな」
「…その呼び方、なんとかなりませんか?」
「あはは、まだ気にしてるのか。そんなに嫌?このニックネーム、最高だと思うんだけど」
「嫌です」
「ちょっ、そんなにはっきり言われるとなんかへこむよ」
会長は1つ年上の、二年生の先輩、美園 理人。成績優秀かつ容姿端麗な彼は、生徒会長の割には若干不真面目なところがあるが、誰からも好かれる典型的な人気者だ。
当然、彼に憧れる女性の数は限りなく、仕事柄彼と関わることが多い私はたまにそのとばっちりを受ける。下駄箱に得体の知れない物が入っていたり、持ち物がなくなったりするのは彼の信者の仕業だ。
そして私もその追っかけの一人だったりする。
初めて会ったときに、彼の社交性や友好的な姿勢に惹かれ、生徒会で一緒に活動するうちにいつの間にか好きになっていた。でも私はこれで十分だ。ただ、後ろから支えるだけでいい。だから、思いを告げるつもりもない。私はこれからも、この距離を保つつもりだ。
彼はなぜか私のことを「さっちゃん」と呼びたがる。そんな呼び方は可愛さのかけらもない私には似合わないと思うのだが、いくら言っても彼は聞かない。
「じゃあさっちゃん、こっちの書類、先生に渡しておいてくれないかな?」
手に渡された書類を見て、呆れる。
「はい…って、会長、これとっくの昔に提出期限過ぎてますよ」
「うん知ってるよ。いいのいいの、気にせずに。つか、会長じゃなくて理人でいいって」
「いや、それはちょっと…」
「はあ、さっちゃんはほんと、かたっ苦しいなあ。俺なんか、中学の頃から先輩のこと呼び捨てしてたよ?理人が無理ならせめて理人先輩にしてほしい。ね?」
私はため息をついた。先輩ほど社交的だったら、私もそうしてますよ。
「じゃあ、美園先輩はどうですか?」
「…まあ、許容できるかな。でも、できれば理人先輩がいいなあ、余裕できたらそう呼んでね」
私は頷いた。そんな呼び方、恥ずかしすぎるし、死んでも呼べないけど。
にっと笑って見せた彼の、白い歯がきらめく。眩しいくらいに綺麗な歯並びだなあ、とぼんやりと思った。
「ん?さっちゃん、俺の口になんかついてる?」
思ったより長い時間見つめていたらしい。私は慌てて視線をそらした。
「あっ、いえ、なんでもないです」
「ふふっ、かわいいね、慌てちゃって。もしかして、キスでもしたいなあとか思ってた?」
私はびっくりして彼を見る。もしかして、私の好意、バレた…?
「…なーんて、冗談。もう、ノリが悪いなあ、さっちゃんは。少しは肩の力抜きなね」
「え、あ、はははい」
「あ、噛んでる」
ただの冗談だったことを知った私は胸をなでおろした。あははと豪快に笑う会長。
しかしそこで予鈴が鳴り響いた。
「じゃあ、さっちゃん、あとでね」
「はい。あ、先輩、今日は放課後集合ですからね。今度は忘れないでちゃんと来てくださいよ」
「わかってるって。どうやら俺は信用されてないみたいだね」
先輩は苦笑いしながら、教室に入っていった。
私も自分の教室に行かなければと、回れ右をして歩き出した、その時だった。
何か−いや、誰か−にぶつかった。
「んぐっ」
「っと」
強打した鼻を撫でながらふと見上げると、そこには優しそうな目で私を見下ろす、見覚えのある男の顔が。
「ん?会長?あれ?いや、違う…」
「…ふふ、僕は会長じゃないですよ」
私はその笑顔を見て、彼が誰だか思い出した。ひと目見た感じは会長そのものだが、目の前の人物は眼鏡をかけている(会長はかけていない)。そのレンズの奥から覗く切れ長な瞳は、先輩の明るいものと比べるとややミステリアスな雰囲気が強い。そして眉と目の距離が近く、目鼻立ちが際立っている。少し口角が下がりがちな唇はなぜか色っぽく見え、無造作にかきあげられた髪からは先輩にはない荒々しさを感じる。
彼は、私のクラスメイトで会長の弟である美園 司だ。
彼とは一言も交わしたことはないが、顔ぐらいは認識していた。
と、そこで私は我に返った。すぐに体を引き離し、頭をさっと下げる。
「すみませんでした、私の不注意で」
「…」
返事が帰ってこない。変だと思ってちらっと上を見た私は、彼の目が自分の顔の少し下を見ていることに気づいた。
「えっと、どうかしましたか?」
「ん?ああ、ごめんなさい。少し、ぼーっとしてました。ぶつかってしまってすみません、お怪我はないですか?」
なんだか妙に紳士的な人なんだなあと思いながら返事をしようと口を開いた。が、そこで会長が教室の中からひょっこり頭を出し、私達に向かって大声を出した。
「おい、司、さっちゃんにちょっかい出すんじゃないよ」
「…理人、知ってるの?」
「さっちゃんは俺の敏腕書記兼情報伝達処理係だからね、知ってるなんてもんじゃないよ」
弟は私と会長を交互に見ながらゆっくり言った。
「なるほど、武原さんは理人に会いにここにきていたんですね。もう授業が始まるのにこんなところで何をしているのだろうと思っていたところでした」
「あれ、さっちゃん、司と知り合い?」
今度は会長が素っ頓狂な声を上げながら私達二人を見比べる。
「はい、クラスが一緒なので。あまり話したことはありませんが」
「じゃあ、そいつが俺の弟だってことも知ってる?」
「ええ、一応」
「うっそ、残念。紹介するの楽しみにしてたのに」
当の弟はさっきからずっと私を観察している。彼の目は優しそうなのに、なぜか射抜くような強さを持っていて、心の中を見透かされているようではっきり言って居心地が悪い。
その時、なんとなく時計に目をやった私ははっと息を吸い込んだ。授業開始まであと5分しかない。
「み、美園先輩、悪いんですが、そろそろ私達いかなきゃ…」
「あ、そうだね。時間迫ってる。じゃあ、今日の放課後ね」
「はい。美園くんも、一緒に戻りますか?」
どちらも美園なので、なんだかややこしい。
「ああ、そうですね、ちょうどいいので少しお話でもしながら歩きましょうか」
弟はにっこり笑った。先輩とは違う、和やかでやんわりとした雰囲気の人なのに、笑うととたんに先輩のように元気に見えてくる。不思議なほどに似ている兄弟だ。
「武原紗羅さん…でした、よね?」
「はい」
他愛のない話をしながら、一年生の廊下までの長い道のりを歩む。
この学園は広い。それぞれの学年に建物が割り振られていて、他級生に話に行く場合は建物を移動しなければならない。一年生は西棟、二年生は南、三年生は東棟だ。ちなみに、北棟には職員室の他に多目的室、家庭科室など、どの学年にも属さない部屋が配置されている。
このように広い敷地なため、移動教室や特別授業では移動に時間がかかってしまう。そのため、この学園では10分間の休み時間のあと、予鈴が授業開始の10分前に鳴る。
私たちは早足で中庭を突っ切り、西棟に向かった。世間話も尽きた私たちは、静かに、しかしなぜか緊張はせずに、沈黙を保った。
沈黙とは言っても、彼がずっと私のことを様々な角度から眺めていたため、まるで彼がまだ話しているように感じた。目というものは、言葉よりも多くを物語るものだ。
私も私で彼を横目から観察していた。こうして見ていると、美園先輩との共通点がたくさん浮かび上がってくる。長身でスラッとした、しかしやや筋肉質な体に、漆黒に近い真っ直ぐな髪の毛。170cmという、女子としてはかなり高い身長の私をゆうに見下ろせるほどだから、彼は185cmほどあるだろうか。
彼のその恵まれた容姿は、会長のファンとはまた違うグループの女性をひきつけていると聞く。明るい先輩とは対象的な落ち着きのある弟は、ちょうど女性から見ると対の様に見えるのだろう。2タイプイケメン豪華セット、といったところだろうか。まあ、私には関係のないことなのだが。
そんなくだらないことを考えながら歩いていた私は、道端に転がっていた石に思わす足を引っ掛けてしまい、危うくベタンと転ぶところだった。
しかし普段から弓道部で鍛えている反射神経が、かろうじて醜態を晒すことから助けてくれた−のだろうか。とっさに体を丸めた私は、何が起こっているかわからないまま前転をしていた。
いわゆる、「でんぐりがえし」というものだ。
後ろから驚いた声と共に手が差し伸べられた。でも、私はうつむいたまま、それを取れずに固まっていた。美園くんに今の奇怪な行動を見られた−ただ、それだけのことなのに、恥ずかしさで動けなくなってしまったのだ。普段鬱陶しく思うこの長く黒い髪の毛も、顔を隠してくれる今はありがたかった。
「武原さん?」
かさっと、衣服が擦れる音がした。直後、バリアのように私の顔を守っていた髪が優しくかき上げられ、かがんだ美園くんが見えたとともに、燃えるように赤くなった私の顔が日の下に暴かれた。
それを見るなり、美園くんは頬を緩ませた。
「…ふっ」
笑いとも取れるような微妙な吐息とともに、その口角が一瞬、上がったような気がした。
「失礼しました、笑ってしまって。大丈夫ですか?」
彼の目はどこまでも底がなく、考えていることが読み取れない。しかし私の落ち着きも戻りつつあった。
「は、はい。ごめんなさい、気にしないで」
「立てますか?」
「はい、怪我はしてませんから。ありがとうございます」
こういう時こそ、冷静さを保たねば。私は無理やり火照る顔を冷ます思いで立ち上がって、スカートについたほこりを落とす。
平然を装い、休み時間が終わってしまうので急ぎましょう、と急かした。
ずんずんと先を行く私に、美園くんはそれ以上何も言わなかった。西棟に入り、階段を上って教室にたどり着いた時、彼はやっと口を開いた。
「面白い方ですね、武原さんは」
「そうですか。そんなことを言われたのは初めてです」
私たちはそのまま自分たちの席についた。挨拶一つ言わずに。
彼の席は教室の廊下側の二列目。私は、窓側の三列目だ。関わることもない。
私はそれで良かった。美園くんを、まるで違う世界に住んでいる、関係のない他人程度にしか思っていなかったからだ。私と話したところで向こうはそんなことを気にも留めないだろうし、きっとこれから話すこともないだろう、と。
そんな推測は、あとから笑えるほどに潔く覆されることになるのを、この時の私はまだ知らなかった。