@サザンタワースクエア八王子
八王子市。
この町のそもそもの興りは、戦国時代に北条氏によってこの地に築かれた名城『八王子城』にあるらしい。
豊臣秀吉の小田原征伐で城が陥落した後、甲州街道など交通の要衝であることに目をつけた徳川家康が、甲斐の国などから江戸を守るための軍事拠点としたのが、発展の切っ掛けだと言われている。そう、学校の授業で習った。
甲州街道中で最も栄えたこの宿場町では多くの商品が取引され、中でも生糸や絹織物の流通量は凄まじかったそうだ。市内でも多くが生産され、群馬や長野からのものと合わせて輸出港のある横浜へと八王子街道を通して送り出す物流拠点ともなった。『桑都』なんてお洒落なあだ名がこの町にはついているが、由来はそこにあるんだそうだ。
そしてその広大な桑畑が、この町に新たな風を吹き込むことになる。衰退した養蚕業関連の土地を利用した超工業都市化、住宅都市化の進行だ。昭和以降、いち早く市政を施行した八王子は急速に周辺最大の都会へと変貌する事になる。人、商品、学問、仕事。何もかもが集約された現在の八王子市は、そうした経緯のもとに発展を遂げてきた。
俺の父さんの会社は、工業団地の整備が盛んだった頃に八王子市内に事業所を構えたそうだ。
父さんは、仕事熱心な人だった。一年前、台湾の高雄市に出来た事業所の副所長の座へ異動する命令が出るまでの間、思えばいつも難しい顔して新聞を捲っている横顔ばかりを見てきたような気がする。それでも幼い俺がじゃれつけば破顔一笑、一緒になって遊んでくれた。単身赴任に発つ前の夜、父さんがふと見せた悲しそうな顔に、俺もなんだか泣きそうになっていたっけ。
親が転勤を言い渡されると、一番戸惑うのは子供だと俺は思う。
それはきっと、事情を知らないから。父さんがアメリカ支社の社長になろうが何だろうが、子供にとってそれは理不尽な現実でしかない。今あるその日常から無理やり引き剥がされる事には、何の変わりもないから。
だから俺は、父さんはすごい人だと思う。単身赴任なんて口で言うほど簡単じゃない。ましてや行き先は外国だ。それでも父さんは、俺と母さんをこの町に残してくれた。
そしてだからこそ俺は、美南の事が…………。
「何にしよっかなー」
「俺、そんなに腹減ってないや。『たっぷり野菜のミネストローネ』でいい」
「どしたの? 元気ないの?」
「いや……なんか疲れた」
「そっか。ね、ご飯食べたらどこ行こうか」
「……ちょっと落ち着かせてくれよ、頼む」
プラスチックのコップで音を立てながら、美南はご機嫌そうにメニューを眺めている。
わざわざ俺の隣で。何のために四人席取ってもらったんだよ、もう。
サイゼリア八王子駅前店。八王子駅南口すぐの所に聳え立つ多摩最高峰の超高層ビル、サザンタワースクエアの二階に入居するそのファミレスに、俺たちは陣取っている。多摩最大級の公会堂・八王子市民会館も抱えるこのビルは、数年前に再開発で建ったばかりの綺麗な建物だ。店内も明るくて気持ちがいい。
まぁ、向こうに入ってるスイーツハピネスでも良かったんだけど。というかさっきから美南、窓越しにそっちガン見してるし。
「私、『ハンバーグステーキ』と『わかめサラダ』にしようっと」
「あー、旨そう……。食欲さえあればなあ。あ、金もか」
「奢ってあげるよ?」
「そのせいでお前が向こうまで行けなくなったりでもしたら大変だから、いいよ」
「大丈夫だってば、もう乗車券も特急券もあるし」
「そういうところは用意がいいのにな……」
ともあれ、メニューは一先ず決まった。どっちが呼び出しボタンを押すかしばらく争った挙げ句、七回目のじゃんけんで勝った美南がどや顔でボタンを押す。
「それにしてもさ」
店員さんが去ったのを見届けると、俺は口を開いた。
「いつ決まったんだ?」
「何が?」
「引っ越しだよ。さきに情報をキャッチしたのは母さんだったけど、つい一週間前とかだったし……」
「ああ、それね」
プラスチックコップの向こうで、美南の口元が少し微笑む。
からん、と氷が音を立てた。
「揉めたんだ、色々。お父さんの転勤が原因だったから、この町に残るかどうかって所から話が縺れちゃって」
「そっか……」
「私のお父さん、小宮堂印刷って会社で働いてるのは知ってるでしょ?」
「うん、前に聞いたことあるな。工場見学もしたし」
小宮堂印刷株式会社は、北八王子駅前の工業団地に入居する会社だ。業界でもそれなりに名の通る、大手の印刷業者だったんだけど。
「……それがこの前、八王子製紙っていう大きな会社に吸収合併されたの。元から業務提携の体制はあったんだけど、八王子製紙側の都合が何か色々あったんだって。で、その統廃合の過程で、お父さんが苫小牧にある事業所に異動する事になったんだ。
お父さんもお母さんも、引っ越す気でいたみたい。最初に聞かされたのは二ヶ月くらい前だったんだけど、その時から周りに話すのは直前にしようって話になってたの。ごめんね、これまで言わないでいて」
そんな事情があったのか……。
一年前の自分を見ているような気がして、何だか胸が痛かった。揉めた、と美南は一言で片付けたけれど、きっと相当悩んだろうなって思う。俺も、そうだったから。
手を押し当てた膝が、悲鳴を上げそうに痛む。じっと下を向いていると、美南は急に高い声を出した。
「あっ、あっ……その、そんなに気に病まないでね! 私、こうなった事を悪いなんて思ってないから!」
「……そうなのか?」
「うん。本当に」
気づけば美南も俺と同じように、膝を睨んでいた。
その顔は、穏やかだったけど。
「むしろ、チャンスって捉えたいんだ。生まれ育った八王子は離れにくいけど、今までの何もかもを捨て去って気持ちを切り替えられるって思って、耐えきろうと思うの。
私は怖がりだから、切欠がないと色んな事が叶わないままになっちゃうから。勉強も趣味も、何もかも。居心地のいいトコでのんびりしてたら、いつまでたっても成長なんて出来そうにないもん。そりゃあ苫小牧に行ったら出来るようになるなんて保証はないけど、それでも少しくらいは希望を持って行きたいなって。
でも、八王子でお世話になったたっくさんの思い出も忘れたくなくて。だから、お別れをする前に見て回りたいって思ったんだ」
そう言って笑う美南の心が本当に笑っていたのかは、俺には分からない。
直後にメインディッシュが運ばれて来たからっていうのもあるけれど、どんなシチュエーションだったとしてもきっと分からなかっただろうと思う。叶わないことの中に、あれほど言っていた“恋”が無かったのも、少し気になる。
ただ、はっきりと知った。
美南の決意は、本物なのだと。
美南は俺に、いや……この町に、最後に何を望むんだろう。
俺は美南に、何をしてあげられるんだろうか。
前も後ろも分からない気持ちが入り交じったまま食べる晩飯は、いつもより心なしか味が薄かった。
「シュン! これ美味しい! すっごい美味しいよ!」
「良かったな、最後の晩飯が不味くなくて」
「シュンも一口いる? ほらほら」
「うぐっ! 無理やり口に突っ込むなよ! 確かに……美味いけど」
「でしょ! 変わりにシュンのも一口ほしいなー」
「それが目当てかよ!」
最初から言ってくれたらあげたのに。