@十六夜庵
「よっ、と」
肩越しに、美南の声が聞こえた。ふわりとした感触が、背中を撫でる。
「ね、これとかどう?」
肩にかけられたそれを、俺は眺めた。
水色のシャツだ。
「色合いがすっごく爽やかだし、きっと似合うと思うんだけどな」
「これ、いつの間に……?」
「さっき見つけてきたの。……あのTシャツと合わせて着たら、ちょうどいいかなって思って」
手にすると、袖を通してみる。
確かに……カッコいいかもしれない。
「いいじゃん! もう買っちゃいなよそれ!」
美南がぱちぱち手を叩いた。
不思議だな。そう言われると、何だか買いたくなっちゃうんだ。
「似合ってる?」
「うん、さっきのに比べれば断然!」
さっきの、ってTシャツの話か。それ比較できないだろ。
とは言え、もうほとんど俺の心は決まっていた。念のために値札をチェック。良かった、買えない額じゃない。さすがキクマツヤだ。
「買おう……かな」
「おー、じゃ私外で待ってるから!」
初めて、自分で買った服だ。
いや、選んだのは美南だけど。
でもちょっと、嬉しいな。
店の外に出ると、日差しはさらに厳しさを増していた。おい、今日まだ春先だよな。七月か何かと間違えてるんじゃないのか?
燦々と降り注ぐ陽光の中に、八急スクエアの袋を抱き抱えた美南が待っていた。
その笑顔が、さらに眩しすぎる。俺が勘定済ませてる間に、何か良いことでもあったのかな。
「ねえ、シュン」
「ん?」
「……お腹空いた」
「は?」
「だから、その……どこか入らない?」
「はぁ……」
「なんでさっきから一言しか返事してくんないの!?」
「いや、だってあんまり唐突だったから……」
「その……言いにくいんだけど、今朝ご飯食べてなくて……」
「え、そうなの?」
「うん。なんか、喉を通らなくって。それに、ちょっと足疲れたし……」
どうやらここまでずっと、空腹の苦しみを隠していたらしい。
それならそうと、早く言ってくれればいいのに。俺は無言で美南から袋を奪い取って、手に持った。
「ちょっ……シュン……?」
「俺も早く店に入りたいから」
それだけしか言わなかったのは、照れ隠しじゃない。断じて違う。
ただ……そういう関係じゃなかろうと何だろうと、女の子には優しくするのが男だろ? そうだろ?
ユーロードはしばらく行くと、大きな道にぶつかって消滅する。甲州街道、江戸時代の七街道の一つだ。
その交差点の近くにあるそば処に、一先ず俺たちは腰を落ち着けることにした。
そば処『十六夜庵』。前に家族と入って以来、何度か俺がお世話になったことのある店だ。
「どれにする?」
腕を捲りながら尋ねると、ジャケットを脱ぎながら美南はお品書きを捲り始めた。
どうでもいいけど『脱ぎながら』って言うとなんかエロくなるのはなぜだろう。幼馴染を相手にこんな不謹慎な事を考える俺はアレか、変態なのか。
「私、鴨汁にしようかな。お肉が美味しそう」
「温かい系か、俺は天せいろにしよっかな」
「1050円かぁ。へえ……普通のトコより立派なのに、こんなに安いんだ」
「だろ?」
それにしても八王子、安いスポットが多いな。
注文を済ませると、二人してお冷やを啜る。気持ちいいくらいに晴れ渡った空が、高いビルの後ろを彩っているのが見えた。
◆◆◆
この町で、俺──柚木俊介が産まれてから、今年でもう十五年になる。
産まれも育ちも八王子、ちなみに母さんと父さんは二人とも栃木県日光市出身。この町に住んでいるのは、父さんの勤め先があったから。それだけだ。
そんな俺が美南と出会ったのは、まだ幼稚園にも入っていない二歳の時だったそうだ。住んでいた家が隣で同い年だったから、よく遊んでいたらしい。当然のように幼稚園も小学校も同じで、何かと仲のいい俺たちはいつも一緒だった。
そこに、友達とか恋人とかいう概念は存在しなかった。いるのが当然、いないと不安になる。そんな、定義付けの出来ない曖昧な関係だった。もし当時の俺に好きな女の子が出来ていたら、きっとその存在は一瞬にして美南を押し潰していたに違いない。
そして、そんな関係が保たれていたのは小学校までだった。家の老朽化とか色んな事情が重なった結果、俺が市内で引っ越すことになって、家も中学も離れた。以来、ケータイをまともに使おうとしない美南との間に交流はほぼ断絶。辛うじて母さんのもたらす情報と、五日に一度くらいのペースでしか行われないメールや電話だけが、常に俺と美南を繋いでいた。
大雑把に言うと、今の俺と美南はそういう間柄だ。
「……なあ、ミナ」
「んー?」
「そういえば聞いてなかったんだけど、どこに引っ越すんだ?」
お冷やを抹茶か何かのように丁寧に飲み干すと、美南は笑って言った。
「苫小牧」
「なんだ苫小牧か────って、ええ!?マジで!?」
驚いたな。
よりによって、北海道か。
JR東日本の管区内ですらないのか。ってそこじゃないだろ俺。
ずいぶん、遠くに行ってしまうんだな……。
「じゃあ、飛行機か。それともこの前全線開通した北海道新幹線?」
「飛行機なんて私一人じゃ乗れないよー。新幹線、新幹線」
「一人? おばさんたちは?」
「今日、もう行っちゃった」
おい、ちょっと待ってくれ。理解が追い付いてない。
美南は苫小牧に引っ越す予定で、家族はもう新幹線で向かってしまった……と。
「私だけ、無理言って残してもらったんだ。私一人分の新幹線特急券があるから、これで乗り換えの長万部駅まで行くつもり」
ウエストポーチから取り出した新幹線の特急券をヒラヒラ振り翳しながら、美南は俺をまっすぐ見つめる。
受け止めきれないほどの力が、その華奢な身体から発せられてるように思えた。
「……そこまでして、今日回りたかったのか?」
「うん。だってシュン、昨日まで用事とか色々あったんでしょ? 今日しかなくなっちゃってさ」
「何も俺なんかに合わせないでも、友達と回ればよかったのに」
「中学の友達にはもう、お別れしちゃったの」
ふーっ。
小さく息を吐くと、美南はその目を外へと向けた。
……俺は、敢えて選ばれたんだろうか。
美南の、この町での最後の相手に。
なぜ。どうして。
俺たち、最近なんて大して交流もなかったのに。中学さえ別になって、お互いの文化圏も友達関係も把握していないのに。
「お待たせしました、鴨汁と天せいろになります」
お目当ての品がやって来た。
途端、美南の目がぱっとスパークする。
「わ、美味しそう!」
「俺のも美味そう!」
よほど腹が減っていたんだろう。美南は全自動卵割り器か何かのような勢いで箸を動かしている。
さっきの事は……まあ、いいか。
俺も箸を手にすると、麺を抓み上げた。