@JR八王子駅
「…………ュン?シュン!」
……あれ。
今の声、美南?
「シュン起きて! もうすぐ時間だよ!」
!?
俺は跳ね起きた。次いで、手元を見た。作りかけのアレがない! ──と焦りかけて、思い出す。そうだ、完成させて紙袋にセットして、ほっとした辺りまでは記憶がある。あの後すぐに、寝落ちしたんだな。
「シュン、なんでそんな所で寝てたの?」
「ベッドの中央を陣取って爆睡しておいてそれはないだろ……」
「え、そうだった……? ごめんごめん」
「……まぁ、いいよ。どうせ同じベッドで寝るわけにはいかなかっただろうしさ」
「私は別にそれでもよかったんだけどなー。背中寒かったし……」
「俺が恥ずかしいんだよ! つーか、寝相の悪さを少しは自覚してくれ!」
てへっ、と後ろで美南が笑う。
あんな遅くまで起きてたくせに、目の下には隈の一つも見当たらない。くたびれたのは服だけみたいだ。って言うか、早くその襟元と裾を直してください。夜通しナニかやってたみたいじゃないですか。
「ミナ、朝はどこで食べるんだ?」
欠伸をしながら訊くと、美南はガラス窓の外へと目をやった。まだ四月の午前三時台、八王子の空は真っ暗だ。
「んー、まだ日が上るのにもかかりそうだし……、新幹線に乗ったら考えようかな。八王子から東京まで一時間だもん、それくらいがちょうどよさそう」
「乗ったらって……新幹線なんかで駅弁買ったら高いよ?」
「大丈夫! 私の財源に天井の文字はない!」
「ついに言い放ったな」
「……ホントは、もう自分のお金じゃなくてお母さんに貰った非常用のお金に手をつけてるんだけどね」
「おい!」
……金銭感覚がおかしい、はモテない条件に入るんだろうか。
運賃の安さではJRを凌駕する京王線を使えば、少しはかける迷惑が減るぞと提案しても、美南は納得しない。曰く、乗り換えが面倒だからだそうだ。ここまで来ると美南の徹底的な適当さに清々しささえ覚えてくる。違う、適当なんじゃない。マイペースなだけだ。
本当に、変わってないな。
俺もお前も。
「……じゃあ、行くか」
窓を閉めると、俺は美南に右手を差し伸べた。
ほんの少しの間、美南は目をしばたかせながら俺を見ていたけれど、やがて意を決したようにぎゅっとその手を握り返した。
「うん」
その笑顔は、昨日最初に会った時の笑顔に似ていた気がした。
朝焼けすらも見えない早朝の八王子の町はまだ肌寒く、まるで並ぶ家々が湯気でも上げそうな冷えた空気に覆われていた。
大半を昨日のうちに送ってしまった美南の荷物は、今やあのウエストポーチのみだ。これから北海道まで行く人の姿にはとても見えない。しかも、その格好で北海道はまだ寒いんじゃないだろうか。上着を貸すことも考えたけど、まぁ大丈夫だろう。多分。きっと。
東京から新幹線で北海道の長万部まで直行、そこから室蘭線というのに乗って行くらしい。所要時間、十時間近く。飛行機だったら超ラクだったのに、と口ではぼやきながらも、美南は何だか楽しそうだった。外の世界にあまり出たことがないと言っていた昨日が思い出されて、一瞬返事に詰まってしまったっけ。
そうこうしている間にも、足は進む。エスカレーターで南口のデッキに上り、CELEOを横目に見ながら長い長い直線通路を進むこと二百メートル。八王子駅の大きな改札口が、目の前に現れた。
「……始発、四時三十五分かあ。もうあと三分しかないね」
「俺、中まで入るよ。ここで別れるのもなんか寂しいしさ」
「うん」
ピッ、と声を上げて扉が開く。
改札口を抜けた俺の身体は、すぐに微かな刺激に覆われた。俺が踏み込めるのはここまでである事を、言わずとも全身が把握していたのかもしれない。横を歩く美南の足音が、不思議と甲高く耳に響いた。
四時三十五分発の東京行は、二番線からの出発だ。まだ真っ暗にも関わらず、蛍光灯に照らされた当のホームにはそこそこの人影がある。
みんな、この町から旅立ってゆくんだろうか。
「ミナ」
「?」
「今日はもう、留まりたいとは言わないんだな」
適当なドアの位置に立つと、美南は俺を振り返って苦笑いした。
「今は、もうね。やっぱシュンにもシュンのお母さんにも、メイワクはかけられないもん。昨日は無茶言って、ごめんね」
やっぱり、思った通りだ。
俺は後ろ手に握った紙袋に、密かに力を込めた。
どうか、深夜のあの努力が実りますように。そう念じながら見上げた電光掲示板が、点滅を始めた。
──『まもなく二番線に、各駅停車東京行きが参ります。黄色い線の内側までお下がりください』
「…………もう、行かなきゃだね」
「ああ」
ふいに、冷たい風が吹き抜ける。
膨れ上がった髪をさっと梳くと、美南は俺に振り向いた。流れてゆく風の合間に、あの茉莉桑の薫りが舞った。
「昨日は、ううん……これまで、ほんとにありがとう。シュンには小さな頃からずっと、お世話になりっぱなしだったよね」
遥か西の彼方から、微かな走行音が聞こえてくる。
それと共に、言葉に出来ないなにかが胸を押し上げて、顔の近くまで迫ってきた。
「そんなことないさ。俺だって、ミナに教わったことはいっぱいあるし。お互い様だよ」
言葉を選びながら、俺はゆっくりと噛み締めるようにそう返した。
ぼんやりと思い出した。この苦しさはいつか、父さんが単身赴任する前の日に感じたのと同じものだったと。
俺、どんな顔をしていたんだろう。少し俯く俺を見て、美南は言う。
「大丈夫、心配しないで。私、向こうの町でも頑張るから。不安はいっぱいあるし、自信もないけど、それでも私一人で頑張るから。だから、安心して」
……そうだな。
俺も安心した。
今の美南の笑顔を見て、安心した。
今なら分かる。その顔で繕って誤魔化された、寂しさも不安も何もかもが。
そして、俺にはそれを否定するつもりも矯すつもりもない。美南は美南のまま、ちょっと臆病でちょっと寂しがり屋で、ちょっと夢見がちなそのままでいい。
背伸びしてみるのも、たまに甘えるのも、忘れないで欲しいな。
プァアン!
ホームの端に入線してきた銀色の車体が、二つのライトを煌めかせながら迫ってくる。
後ろで持っていたあの紙袋を、俺は前に出した。美南は一瞬、きょとんとしたように俺を見上げる。
「これ、受け取ってほしいんだ」
押し付けるように、俺はそれを差し出した。
もう、ネタバレしてもいいだろう。あの紙袋の中身──さっき苦労して作ったあのファイルは、俺と美南の写った写真やコメントで埋め尽くされた即席アルバムだ。幼馴染な上に俺にも美南にも兄弟がいなかったので、一緒に写り込んだ写真なんかたくさんある。家中のアルバムやパソコンを漁って見つけた写真を手当たり次第にプリントアウトして、コピーを家用に取っておいた。つまりこっちが本物だ。
恐る恐るといった手つきで紙袋を手に取った美南の目が、開けてもいいか聞いている。しっかりとはっきりと、頷いてみせた。
「ミナ」
がさがさと紙袋を開き、中を覗き込む美南に、俺は口を開く。
多分、声をかけられるのはこれが最後のチャンスだ。どんどん迫り来る白色のライトを横目に、俺はそう確信していた。言えるのは、今しかない。
「一つだけ、忘れないでほしいんだ。辛かったりしんどかったり、泣きたくなるような事があったら、いつでも俺たちを頼っていいんだからな。どうしてもって言うなら、迷わずに八王子へ帰ってこいよ。この町はきっといつだって、ミナを温かく迎えてくれる。
お前が頑張るなら、俺は応援する。道を見失ったなら、一緒に探そう。頑張れなくたって恥じることなんかないよ。そんな暇があったら、俺たちのことを思い出してくれよ。そのアルバムを開けさえすればいい。それだけだからさ」
車外スピーカーから電子音が流れて電車のドアが開き、温い空気が溢れ出してくる。
ファイルを開いた美南の目に、じわりと何かが浮かんできたように見えた。
かく言う俺も、限界は近い。ダメだ、俺。せめて美南が行ってしまってからにしろ。
「この気持ちが何なのか、俺にはよく分からない。けど、これだけは絶対に言えるから。
例えどこにいたって、彼氏を何人侍らせていたって、俺にとっての横山美南はいつまでも────」
そこから先は、言わせてもらえなかった。
正面から、美南に抱き締められたからだった。
全身に纏った寒さは一瞬にして熱に換わり、息を苦しめる。あつく火照った顔を斜め下に向けたら、顔を上げた美南と目があった。
「……それ以上は、言わないで。分かってる。私も分かってるから」
そう言うなり、
何かが唇に触れた。
甘酸っぱい香りと温かな感触が、顔いっぱいに広がった。
その間きっかり、十秒。発車メロディーの場違いな『夕焼子焼』が、遠く霞んで聞こえた。
唇を離した美南の顔は、隅から隅まで真っ赤だった。
「私も、大好きだよ」
その一言が、最後に聞いた台詞になった。
俺の顔から決して目線を外さないまま、美南が中央線の車内へと乗り込んだからだった。直後、またあの電子音がホームに響き渡り、俺と美南の間に金属の壁が滑り込む。
ガラスの向こうで、美南は笑っていた。
小さい頃から一番好きだった、屈託のない──でもちょっとだけはにかんだあの笑みを、浮かべていた。
何も考えることが出来ないでいる間に、銀色の電車は静かに滑り出す。追いかける力も何もかも、もう俺には残ってない。
あるのは、
「…………また、いつか…………」
遠ざかるその窓に、手を振る力だけだ。
なあ、美南。
本当は、伝えたいことはもっとたくさんあったんだよ。
でも、言えなかったことを後悔なんかしてない。最後の一言が、美南は全て分かっているってことを証明してくれていたから。
あの『大好き』に、恋的な意味があるのかは分からない。別になくてもいい。少なくとも、俺がそうであるように美南もまた、一人の人としての俺を好きだと言ってくれたってことだと思うから。
素直に、嬉しかったんだ。
またいつか、帰って来いよ。俺もこの町も、その時が来るのをいつまでも待っているから。
そしてまた会えたなら、その時はお返しに俺が抱き締める。誰が何と言おうと嫌がろうと抱き締める。八王子の玄関口たる、あの桑都の橋の上で。約束だよ、美南。
紙袋が消え空になった右手で、俺は頬を拭った。この顔を美南に見せないで済んで、本当によかった。安堵と疲労と緊張で今にも倒れそうだったけど、それでも左手は懸命に振り続けた。二つの尾灯がビルの陰になって、お互いの姿が完全に見えなくなるまで。
この町の元となった八王子城が築かれてから、八百年。
時代を超えて、ここには多くの人が移り住み、多くの人がここを離れていった。これからもきっと何十年、いや何百年も、この町はこの町であり続けるんだろう。自然と安さとのんびりした空気が自慢の、日本の一都市として。
そりゃあ変化だってたくさんある。八王子駅前からは昔よりずっとデパートや大型店舗が撤退してしまった。溢れそうな緑を潰して、高速道路や住宅が次々に建設された。幼稚園の頃によく行ったお店や空き地なんて、もう残っているのかも分からない。
それはもう、仕方がないと思う。変化してこその都市だと思うし、昔からそうやって消滅と誕生を繰り返してきたからこそ今の八王子があるんだろう。それにどれだけ変わったところで、ここが永久にたくさんの人々の故郷であり、家であり、帰る場所であることは少しも揺るがない。
疲れたら、いつでもそこに帰れる。そう思うから、人は何にでも頑張れる。故郷って、そういうものだと思うんだ。それは場所に限らない。モノだって人の心だって、故郷にはなり得るはずだ。
誰かの心の拠り所になる。それが、愛されるってことなのかもしれない。
俺も、美南に負けないくらい頑張らなきゃな。
いつも通りの月曜日が、始まろうとしている。
少しだけ白んだ東の空を見上げ、俺は息を吸い込んだ。
初めてのキスを唐突に経験したその口の周りには、桑のような仄かな芳香がまだ漂っていた。
これにて、「八王子戯愛物語」本編は完結となります。
いかがだったでしょうか。
投稿直後のTwitterによる情報拡散、イラストの挿入、現地ロケの敢行など、初めての試みも多かった本作でしたが、作者も書いていて非常に楽しかったです。総字数五〇〇〇〇字突破という非常識な短編になってしまったのもそのためです。二二〇〇〇字のつもりだったのにな……。
原案はFUNKY MONKEY BABYS「八王子純愛物語」。当初はベタベタなデート作品に仕上げて日頃の鬱屈を晴らそうと思っていたのに、出来上がってみればなんだかしんみりした作品に。どういうこったい……。
まあ、放っておくとシリアス作品になってしまうのが自分の作風なのだろうな、と今は思っています(笑)
素晴らしいイラストを提供してくださった、ビビンヴァ猫様。
デートプランについてご教授くださった、S様。
作者が入ったこともないプリクラについて色々教えてくれ、さらに写真まで見せてくれたT君。
JCでも香水は使うことがあるよと貴重な情報をもたらしてくれた、Sさん。
本作の執筆に協力してくださった、全ての皆様。
本当にありがとうございました。
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なんと今回は、三つの【おまけ】を用意しています!
① 作中に登場した施設や店舗の実在モデルの地図、リンク先の一覧。聖地巡礼をしたいという方にお勧めです!いないと思いますが←
② 作中にばら撒かれた大量の小ネタの解説。必見です!でないと撒いた意味が……。
③ 続編「とあるマイペース少女の北海道旅行記」。八王子を出発した横山美南のその後を描いた短編です。今度こそ短編です。一五〇〇〇字くらいです。
ぜひご覧ください。それぞれのアップロード予定日は、①が六月一六日、②が六月一七日、③は六月一八日~二二日となっています。時刻は共通で、一九時となります。
さらにさらに、④として作者自身による八王子ロケの紀行文も公開しようかと思っていたり。
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本作は「六月期テーマ短編」企画に参加しています。
評価・感想など、ぜひお寄せください。
2014.6.16
蒼旗悠