@河川敷
何もすることがなくなって、俺たちはしばらくぼんやりと座っていた。
口から魂が抜け出していったんじゃないだろうか。そう思えるくらい、身体が気怠い。重たい。
「……きれいだね」
小さな声でそう言ったのは、美南だ。
常夜灯の瞬く彼方の市街地が、陽炎のように微かに揺らいで見える。
「私、こんな遅くまで出掛けたことなかったから、こんな風景があることも知らなかった。この町の夜景って、キレイなんだね……」
「……夜景、見たことなかったのか?」
「うん」
抱えた膝に口元を埋め、美南は小さく踞る。
半分閉じられたその目は少し、寂しそうだった。
「私、すっごくよく分かった。この町で十五年間も生きて暮らしてきたのに、私ってこの町をほとんど知らないんだなぁって。お買い物にしても遊びにしてもいつだって近場で済ませようって思ってたから、当たり前なんだけどさ。今日一日シュンと色々回ってみて、ほんとに思った。経験って、時間が積み上げてくれるモノじゃないんだね」
ああ。
俺もそう思う。
結局、時間なんて使い方次第だから。
無駄にしようって思えば無駄にできるし、活用したければ活用できる。そのことに気づいたのは、俺だってほんの最近だった。
どんな時間だって、永遠じゃないもんな。
「悔しいなぁ」
たはは、と美南は笑う。
「私、向こうに行っても誰にも説明できないや。前に住んでた町はこんな所だったんだよ、って」
そんなことない。
美南だって今日、二人で歩き回って色んなモノを見たはずだ。それはそのまま、美南の記憶の中の八王子になっているんだから。
そう言ってやりたかった。
でも、やめた。美南はバカじゃない。そんなこと、言われないでもきっと分かっているだろう。分かってて、言ったんだろう。
そう思った俺が黙って足を投げ出したのと、美南が顔を上げてこっちを見たのは、同時に近かった。
「……ねぇ、シュン」
「なんだ?」
「その…………、シュンの家、どのくらい広い?」
「家……? いや、そんなに広くないよ。割と新しい家だし、部屋一つ一つは広いけど」
「そうなの!?」
「う、うん……。急にそんなこと聞いて、どうするんだ?」
じりじり、と尻を滑らせて寄って来ると、美南は俺の膝に手を置いた。
「決めた!」
「…………?」
「シュンの家に居候させて!」
思わず俺は耳を疑った。
……居候、って言ったか!?おい、冗談だろ?苫小牧は?
「ね、お願い! シュンのお母さんにも聞いてみてよ! 私もお母さんに相談してみる!」
「待てよ、なんで急にそんなに心変わりしたんだよ! 落ち着いて考えてみろって!」
「やだ! もう決めたの!」
どうなってるんだ、一体。
あまりの剣幕に俺が思わず口を閉じると、美南はさらににじり寄ってくる。
その顔は、笑ってなどいなかった。口は真一文字に固く結ばれ、街路灯の冷えた光を映したその眼差しは真剣そのものだ。
「私、まだこの町を離れたくない。私一人でいいから、ここに残りたい。シュンと一緒に、色んな所に行ってみたいの。私の知らないことを、もっともっと経験してみたいの! お願い、一生のお願い!」
「無茶言うなよ! お前、自分で何言ってるか分かってんの!?」
「そんなの分かってるもん! 無茶言ってることくらい、私が一番分かってる!」
「分かってるならなんで────」
言い過ぎた。
直感で、そう思った。
「…………自信、ないんだもん……」
俺の膝にかけていた手を、美南はすっと離した。その手はそのまま、美南の膝へと押し当てられる。
「苫小牧で頑張れる自信、ないんだもん。何もかも一から作り直すなんて、出来るわけないもん。シュンもみんなもいない、知らない世界でやってける自信なんて、これっぽっちもないんだもん……」
ぎゅっと握られた美南の膝が、悲鳴をあげている。
入れてしまったスイッチの正体を、俺はようやく知った。別れの前にと町を回った事が、完全に裏目に出た。そう思った。
「だ……、大丈夫だって。どうしてそんなに自信を失ったのか分からないけどさ、人間やればきっと何だって出来るんだよ。だから──」
「……出来ないよ」
「……なんでそうやって決めつけるんだよ」
「だって! 今日一日、私ずうっとシュンに頼りっきりだった……!」
美南の顔はもう、上を向いていなかった。
浅川の静かな流れも、その先に広がる八王子の景色も、きっとその瞳には映っていない。俺の存在も、見えていないんだろうか。
穏やかな川面に言葉を叩き付けるように、美南は尚も叫んだ。
「シュンがいなかったら、みんながいなかったら、私は何も出来ない! 勇気なんて持てないよ! みんなと離れ離れなんて、寂しいよ……! 一緒に……いさせてよ……!
お願い……! おねがい、だからぁっ…………!」
大粒の涙が、膝にいくつも跳ねた。
肩を震わせ、美南は泣きだした。溢れ出す涙に抵抗も出来ないまま、でも決して俺の助けは求めずに、泣き崩れた。
そうだ。
これが、美南の本心だったんだ。
引っ越しの話をするたびに見せた、曖昧な笑顔。意地を張っているような無理をしているような、強い言葉。それはきっとぜんぶ、心の中に不安が巣食っていたからだったんだ。美南はそれを最初から分かっていて、それでも強がり続けていたんだ。
そう分かった途端、今日一日の美南の行動の全てが頭の中で繋がった。
「……つらかったんだな」
嗚咽を漏らす美南の頭を、俺はそっと腕の中に抱きかかえた。
「それなら、そう言ってくれよ。ミナが暗い気持ちを抱えてるなんて、俺ぜんぜん気がつかなかった。言ってくれたら、力になったのに……」
言うわけないだろうな、とは思うけど。
案の定、美南はふるふると首を横に振った。そんなの無理だよ、そう言う声が脳裏を震わせるようだった。
分かる。分かるよ、その気持ち。無性に不安に駈られるその気持ち。学区が変わって周りが知らないやつだらけだった中一の時、俺だってそうだった。小学校からの友達らしい奴らが次々と仲間を形成していく中で、一人だけ取り残される寂しさ。俺だって、痛いほど分かるんだよ。
けどさ。故郷を離れるって、そういうことだと思うんだよ……。
「変わるって、決めたんだろ? 引っ越しを機に、頑張ってみるって一度は決めたんだろ?」
うん。
溢れゆく涙の間に、美南はかすかに頷く。
「大丈夫だよ。俺にもミナにも友達にも、ケータイっていう通信手段がある。どうしようもなくなったら、連絡してくれよ。東京から出来ることは何だってする。約束するから……」
「やだ……! ケータイなんて、メールでなんて……!」
「何言ってんだよ。俺たち、三年間一度も会わなかっただろ? メールしか繋がりはなかったけど、それでも俺もミナもちゃんと中学校でやって行けてただろ? ミナがミナを信じないで、誰がミナを肯定してやれるんだよ!」
「~~~~!」
何か言えば言うほど、美南の泣き方は激しくなる。
俺ももう泣きたかった。しゃくり上げる美南を見ていると本当に貰い泣きしてしまいそうで、噛み締めた唇が痛かった。沈黙の時間がこれほどまでに長く感じられたのは、初めてだ。
ずるいよ。
美南は、ずるい。
別れるのが嫌なのは、離れ離れが嫌なのは俺だって同じなのに。
俺、だって………………。