07話 扱えし者。
「陛下!」
回廊の奥から先生の声がして、ほぼ同時に近衛隊長も姿を見せた。
先生は先端に青い宝玉がついた大きな杖を持ち、柄で床を突きながら早歩きで近づいてくる。ゆっくりと歩いてくる隊長は大きな槍を肩に担いでいた。隊長の後ろにはシルトさんがいて、さらに「なんだなんだ、何があった」とばかりに他の近衛騎士たちが付き従っている。
近衛隊は訓練中だったのか、近衛の正装ではなく上着を脱いでいた。上半身は黒いシャツだけで、筋肉もりもりだ。胸板も厚い。
全員が身長2メートル前後で鍛え抜かれた体格をしているので、決して狭くない回廊の奥が見えなくなっていた。みんな巨人のように大きいから、近づいてくるとすごい迫力だ。それでも、いかにも武人の集団なのにゴツイという感じがしないのは、隊長を筆頭に龍人特有の整った顔立ちをしているからだろう。
私に気づいた騎士の何人かが「お! 神子さまだ、神子さま~!」と騒いで手を振ったけど、隊長が振り返った瞬間、彼らは何事もなかったかのように真面目な顔になった。その様子が可笑しくて、いつもの私だったら笑っていただろう。
近衛隊が私を見る目は、年が離れた末の妹に笑いかけるみたいに暖かい。
でも、そんな優しい彼らも、私がしたことを知ったら顔を強ばらせるに違いない。
先頭を先生が歩き、近衛隊がそれに続く。
遠目にも、私を見る先生の顔が緩んだとわかった。
「神子さま、どうなさいました」
問う声も優しかった。でも、皇帝の腕の中で泣きそうな私に気づいたのか、先生の顔が険しくなって、皇帝を見つめる視線は氷のように冷たくなった。
「陛下、神子さまに何か」
「勘違いするな。――シルトに聞いたか」
「聖杖を持ってくるようにとしか……」
言った先生の視線が、皇帝の腰にある聖剣に向けられた。驚いたように目を丸くして、何か問いたげに口を開くが、隣に控えた隊長を見て軽く息を吐くだけにとどめた。
「ランティスまで……。いったい、何事です」
隊長が持っている長槍にも聖剣と同じく大きい宝石が埋め込まれていた。ルビーのように赤い宝石が陽光を受けて揺らいでいる。石の中で炎が燃えているように見えて、思わず暖かいんじゃないかと手をかざしてみたくなる。40センチくらいある刃には、聖剣の鞘と似た装飾のカバーが被せられていた。
一方、先生の杖に輝く青い宝珠は、まるで占い師が使う水晶のように丸くて、小波のように光が揺らいでいる。珠を黄金の竜が抱くような金の装飾が美事だった。
「俺が言うより、見たほうが早い」
皇帝が私の肩を抱いたまま回廊から中庭へと歩み出る。
中庭は芝生が敷き詰められ、綺麗に整えられている。ここでお昼寝したら気持ちいいだろうな、と普段なら思うくらいにふかふかの足元は暖かい。
皇帝は広い中庭の中央まで行って立ち止まった。
「ランティス、槍を珠子に持たせてみろ」
「陛下!?」
驚いたのは先生で、隊長は無言のまま肩に乗せていた槍を地面に立てた。
ドン、と重みだけで地面が揺れる。
「珠子」
皇帝が私の肘を軽く押し出した。
「持ってみろ」
「……」
不安になって、皇帝を見上げる。返ってきたのは、大丈夫だからと言いたげな笑み。
次いで先生を見れば困惑しているのが分かる。
私は静かに見守っている隊長を見上げ、太い腕の延長上にある槍を見つめた。
隊長の身長よりも長い槍は、持ち手の部分に鮮やかな装飾が施されていた。
私は一歩前に出る。
軽く息を整え、隊長の大きな手が持つ下の部分を両手でつかんでみる。柄は指が回りきれないくらい太い。
私が持ったことで何か変化が起こるのかとドキドキしたけど、ひんやりとした金属の感触を覚えた以外は何の変化もない。ちょっとだけ肩透かし。
倒れてきたらつぶされそう……と思いながら、宝石を見上げた。やっぱり炎が揺らいで見える。
「ランティス、手を離せ」
皇帝の言葉に、私は瞬いた。きっと、隊長も問いたげな表情だったに違いない。
「珠子、持ち上げてみろ」
「え?」
――何?
これを?
どうするって?
「ランティス、離せ」
「……」
隊長は軽く首をかしげたあと、皇帝の言葉に従ってゆっくりと手を離した。
「え、え、ええ!? 嘘!」
私はうろたえた。
離れて行く大きな手。でも、地面に立てた時、先端が深く突き刺さったのか、隊長が離れても槍は倒れなかった。私は支えているだけのようなものだ。
「――び、びっくりした……」
ホッとした私に、皇帝は持ち上げてみろ、と無茶を言う。
「無理です」
「いいからやれ」
「横暴!」
横暴、なんてこの世界の言葉、覚えてもまさか使う日が来るとは思わなかった。
皇帝が喉を鳴らして笑った。
何が楽しいのか。
「やってみろ、できるから」
横暴なくせに、優しい物言いと瞳で、できないとは思っていない顔だった。
皇帝は、私と槍だけを残し、右手を軽く横に広げてみんなを下がらせた。
まさか、とつぶやいたのは先生だ。
視線を向ければ、玲瓏な顔が驚くように私を見ていた。
白銀の髪が揺れ、青い瞳が皇帝に向かう。
太陽の眩しい光の中、金の髪に紫色の瞳の皇帝は、先生の考えを肯定するかのようにニヤリと笑った。
「三年間も側にいたのに、気づかなかったのか?」
「――本当なのですか」
「見ればわかる」
見れば、の言葉通り、先生の目が輝いて私を見た。
――え。
何、その期待に満ちた瞳は。
何なんですか!?
「神子さま」
先生の声に、嫌な予感を覚えて耳を塞ぎたくなる。
「……はい」
持ち上げてみてください、と先生が言った。穏やかだったけど、否を言わせない物言いだ。
私は困惑してしまう。
「無理です」
「神子さまならできます」
そのいい加減な自信はどこから出てくるのか、膝を付き合わせて問い詰めたい。
「私が握力も腕力もないのは知っていますよね?」
「知っていますとも」
先生は、みんなが簡単に開けてしまう瓶のフタを相手に格闘する私を何度も見ているのだ。
それでも出来ます、と先生は言う。その目には真剣な光が浮かんでいる。何かを見定める眼差しだ。
私は息を吐いた。
「……持ち上がったら、何かあるんですか……」
聖剣と同じ宝石がついた武器。装飾も似ている。それらにつながりや意味がないと思うほど鈍くはない。
風をまとった白銀の貴公子は、爽やかに笑った。まっすぐで細い髪が風になびいてサラサラと音を立てる。
「持ち上がれば自ずとわかります。そちらが無理と思うのでしたら、こちらでもかまいません」
こちら、と先生は自分が持っている杖を私に向けて差し出した。杖といっても、老人が身体を支えるための物ではなく、長さは2メートル近い。装飾も見事な儀式用と思われる代物で、全体が白い金属でできていた。
どちらも重そうなことに変わりはない。
「先生……」
私はため息をついた。
持ち上がればわかると先生は言った。つまり、槍に何かが起こるのだろう。私にもわかる状態で。
――何を知ろうとしているのですか。
隠し事はしないでください、と先生にお願いしたのはずっと前のことだ。
私が元の世界に帰れないことを嘘偽りなく教えてくれた人。だから、逆に彼が信じられた。
彼の言うことは信じよう、と思った。
龍人たちは急かすことなく、私の行動を待っている。
そのとき何が起こるのか分からずにいるのは後から呼び出された龍人だけで、私が聖剣を振ってしまったことを知っている人たちは、何が起こるのかを確信している瞳で私を見つめていた。
三年も一緒にいて先生が気づかなかったこと。
先生が見逃した何か。
――それは何?
私は問うのをやめた。
持ち上げれば分かるというのなら、分かってから聞けばいいのだ。
私は大きく息を吸って、呼吸を整えるようにゆっくりと吐いた。
一回、そして二回と深呼吸を繰り返し、よし、と覚悟を決めて、槍の太い柄を睨んだ。
問題は、この重そうな槍が持ち上がるかどうかではなく、地面に突き刺さっている槍が抜けるかどうか、だろう。
私はその重さを利用することにした。穴を広げるために、バランスを保ちつつ、握った槍をゆっくりと前に押し出し、それを手前に引いて穴を広げる。
「……」
――ん?
あれ? と瞬いた。
なんか、軽い……?
いやいや。
まさか。
隊長が肩に担いでいたとき、その重みで固定されていた。槍が軽ければ、歩くときに撓ったり浮き上がったりしたはずだ。
鉄棒を掴んだ時のような、ひんやりとした感触。そして、硬さ。決して、プラスチックのような代物ではない。
――でも。
私は戸惑って隊長を見た。
「これ……」
軽い……。
わけ、ない。
ですよ……、ね?
隊長は私が何か訴えたいことはわかったみたいだけど、軽く首をかしげた。もう一度無言で訴えてみるが伝わらない。がんばれ、と言いたげに口角を上げて、握った拳を軽く揺らしてくれる。
私は息を吐いた。
仕方がない。
覚悟を決めて、槍を右肩に当てて支えると、そのまま身体を下げて草を引っこ抜くように槍を握る。
両足と腰に力を入れて、せーの、よいしょ! と思いっきり引っこ抜いた。
ひょい。
「え!?」
引っこ抜いたはずの槍は、確かに抜けた。
地面から。
そして、私の手の中から。
スポーン、と。
あっけなく。
「きゃあ!?」
私は後ろにひっくり返り、
「うおおお!?」
半円を描くように吹っ飛んだ槍は、近衛騎士たちがいたところに突き刺さった。
ズシ、と重い音を響かせて。
イッタイ、何ガ、オキタノデスカ?
その場が静寂に包まれたあと、ざわりと空気が動いた。
「闇の――」
「まさか」
「そんな……」
龍人たちの動揺する声。
何――?
「珠子、大丈夫か」
呆然とする私の上から、楽しげな声がした。
「リヴァイス……」
皇帝が私の身体を起こしてくれた。声を出して笑っている。
「豪快にひっくり返ったな」
私はまだ呆然としたまま、彼の手を支えに立ち、ありがとうございますと礼を言った。腰を叩き、ほう、と息を吐いた。
「びっくりしました……。あんなに軽いなんて思わなかったから――」
あんなに重そうだったのに、聖剣と同じように見かけ倒しだったのだ。
私は皇帝を睨んだ。
「ひどいです」
人をからかって楽しむなんて。
悪趣味だ。
むっとした私の表情が可笑しかったのか、皇帝は笑いながら私の頭をよしよしと撫でた。
「驚いたのはこっちだ。まさか、そこまでとはな」
笑いの中に、どこか苦笑じみた物言いが混ざる。
「許せ」
からかったことを詫びるように、皇帝は私の頬へと口づけた。
ふん、と私が顔をそらすと、頬を大きな手で固定されて、こめかみに口づけられた。次いで額に、頭上に、と許しを求めるように彼は口づけていく。
真綿に触れるような優しい口付け。
「珠子」
それはまるで深い祈りを捧げているようでもあり、私の名を呼ぶ声は、愛の囁きにも似て、甘く優しかった。
あまりにも心地よくて、目をつむってしまいそうになる。
でも、ハッとして、私は皇帝の顔を手の平で押し上げた。
「先生――」
そうだ、みんないたんだった――。
真っ赤になった私は、振り返ってぎょっとした。
「先生!?」
先生だけじゃない。隊長をはじめ、龍人たちが全員、片膝をついて頭を下げていたのだ。彼らは武器を外し、左の拳を地面に立て、右の拳を左肩に当てていた。地の一点を見つめたまま一言も発しない。
それは旅の中で何度も見た光景だった。
最敬礼。
女性の場合は両腕を胸の前で交差させる。
それは、対象となる者がこの場から立ち去るか、許しを与えるまで身動きの許されない行為だった。
――なんで。
私は隣に立つ男を見上げた。
皇帝は私を見、楽しそうに笑って、「お前が」と言った。
お前が許しを与えろ、と。
「顔を――、上げてください」
言えば、片膝をついたまま顔を上げた龍人たちの視線は、皇帝ではなく、その腕の中にいる闇の神子に向けられていた。
「すみません」
私が謝ると、彼らは不思議そうな顔で瞬いた。きょとん、なんて言葉が似合う。なんで謝られているのか分からない、と言いたげに。
だから、私はペコリと頭を下げた。
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
地面に突き刺さっている槍を見た。
「まさか、あんなに軽いとは思わなかったから」
「……」
全員の目が丸くなっている。
皇帝が笑って、私の頭に乱暴に口づけたのが分かった。他人であればグーパンチのひとつでも食らわせるところだけど、彼は私のご主人様だ。
「立ってください」
私がお願いしても、彼らは跪いたままだ。
どうしたらいいんだろう。
困惑していたら、頭上で呆れたような声がした。
「わかったか?」
頭上に暖かい息吹を感じる。
「珠子」
「え? 私?」
「わかったか?」
「え? 何がですか」
「持ち上げられただろうが」
「――あ、はい。持ち上がりました……。けど」
あんなに軽ければ、当然だ。
でも、だから、何が「わかった」というのか。
私にはさっぱり分からない。
皇帝は相変わらず楽しそうに笑っている。
「聖剣に聖槍、セイフォンが持つ聖杖もそうだ。普通の者には扱えん」
「聖……?」
「聖なる槍に、聖なる杖」
今ある聖剣は、壊れた聖剣に似せて作られたが、作ったのは初代の闇の神子だと言っていた。
おそらく、聖槍や聖杖も初代の闇の神子が作ったのだろう。
「私が闇の神子だから扱えたということですか」
いや、と皇帝は否定する。
じゃあ何。
私が眉を寄せると、皇帝は口角を上げた。
「あれは初代の闇の神子が残したとされる聖遺物だ。それらは持ち手が選ぶのではなく、持ち主を選ぶ」
「持ち主を、選ぶ?」
まるで、物に意思や意識があるかのように彼は話す。
「持ち主にしか扱うことができない代物だ」
「リヴァイスや先生、隊長さんしか持つことができないのですか」
「龍人ならば持ち運ぶことはできる。だが、扱えん。振ったり、放ったり、まして軽く扱うことは絶対にできぬ。唯人の身であればなおさらだ。俺やランティスですら、重さは普通の武器と同じように感じるだけだ。玩具のように軽いと思ったことはない」
「……」
でも、軽かった……です、よ?
――ああ!
だからか。
だから、驚かれたのだ。
「でも、なんで」
私は答えを求めるように先生へと視線を向けた。疑問があれば先生に。それはもう癖のようなものだ。
聖杖を身体の左に横たえ、片膝をついて拝する先生は、顔こそ上げているけど立たずにそのまま答えた。
「かつて、聖剣や聖杖を神子さまと同じように扱った者がおります」
いるんだ……!
私だけじゃなかった、と肩の力が抜けてホッとする。とん、と背中が皇帝の胸に当たったけど、楽だったのでそのまま寄りかかった。皇帝が笑って、私を支えてくれる。なんだか、飼い猫に甘えられて嬉しそうなご主人様的な気配が伝わってきた。
先生は私を見て目を細めた。
「初代皇帝が言い残した御言葉がございます。これらを持ち主以外で扱えるとしたら、我が妻だけだ、と」
「我が、妻」
あまり深く考えずにつぶやいた言葉に、皇帝が笑った。私を背後から優しく包み込むように抱いて、静かに囁く。
「初代皇帝の番は、珠子と同じく、異界の娘だった」