03話 猫になりたい。
――猫になりたいなあ……。
私は何度となくそう思っていた。
※
「猫ですか?」
私が地面に描いた絵を覗き込んで、先生は首をかしげた。
世界を巡る旅の途中で、私は暇さえあれば絵を描いた。
私は彼の言葉を真似る。
「ニェコ」
「猫、ですよ」
「ニャコ」
「ね、こ」
「ね……、こ」
「そうです」
「猫!」
よくできました、と先生がにっこりと笑った。
私はこうやって言葉を覚えていく。
相手の言葉はわかるけど、自分の言葉は通じないため、私は相手の言葉を一方的に聞くしかない。
「近所に野良猫がいるんですけど、すごく懐いていてかわいいんです」
先生が首をかしげた。
私の言葉は五分の一も彼らに通じない。おそらく、先生がわかったのは私がいま覚えたばかりの言葉、野良猫の「猫」や「かわいい」の部分だけだ。
だから、私も気にしないで話し続ける。
「黒くて、艶があって、目が金色なんです」
足元に寄って来て、身体をすりすりしてくる様のかわいいことかわいいこと。
頭や背中を撫でると、長くてまっすぐな尻尾をゆっくり嬉しそうに揺らす。
一日の大半を寝て過ごし、束縛されないで生きる猫。
私は、生まれ変わったら猫がいいな、と思うくらいに彼らが羨ましかった。
たぶん、高校受験で勉強三昧、遊ぶことすら出来ない状況が余計にそう思わせたのだろう。
受験の辛さなんて、同じ年頃の誰もが経験していることだ。でも、受験を控え、気分に余裕がなくて、いっぱいいっぱいの私は自分のことだけしか考えられない。
そんな中で、側に寄ってきて甘え、気が済むまで撫でさせてくれる猫は、癒し以外の何ものでもなかった。
私は足元にあった石を拾って、先生の目の前に出して言った。
「これは何ですか?」
言葉も文字もわからない国で、私が最初に覚えた言葉は「闇の神子さま」で、次に覚えた言葉は「これは何ですか?」だった。
ある日、私は、召喚されてからしばらく身の回りの世話をしてくれた女性に、花の絵を描いて見せた。そして、にこりと微笑んだ彼女に、次は意味のない絵を描いて見せたのだった。
最初は首をひねるだけだった彼女に、再び違う絵を描いて見せ、それを三度繰り返すと、彼女は私が求めていた言葉を口にしたのだった。
「これは何ですか?」
――やった!
望んでいた言葉を引き出して、私は歓喜に震えた。彼女の言葉どおり、私がこの国の言葉で「これは何ですか」と聞くと、相手にも通じて、いろいろと教えてくれるようになった。
一つ一つの単語を、相手も丁寧に教えてくれる。
私は赤子が成長していくように、この国の言葉を、文字を、少しずつ覚えていった。
不安じゃなかったと言えば嘘になる。戸惑ってもいた。でも、怖くなかったのは、彼らがとても優しく、私のことを丁寧に扱ってくれたからだろう。
むしろ、こんな目にあったのに落ち着いている私に、彼らの方が驚いているようだった。
台風や雷雨、暴風、河川の氾濫、地震、雷、火事、津波のような自然災害を前に後ろ向きでは生きていけない。
大きなトラブルや災害が起きたときに、集団の中では男よりも女のほうが肝が据わると聞いたことがある。
女性のほうが血にも強いというし、精神的に強いのか、それとも適応能力が高いのか。
召喚された際に足を挫いて動き回ることが出来ないのだから、慌ててもしょうがない。
――そう思っていた。
足が治るとすぐに神殿を出て大陸中を旅することとなったのは予想外。
だって、やっと日本に帰れる! と思っていたのに、私が連れて行かれたのは大使館でも空港でもなく、戦場だったのだ。
飛び交う魔法。
襲ってくる魔物。
剣と魔法の世界。
そこは、明らかに地球とは違う世界だった。
※
――闇の神子さまのことは猫として扱うように。
宰相である先生の言葉を聴いた誰もが、頭にハテナを浮かべて「え?」と瞬いた。
私だって、当事者じゃなかったら「は?」と思ったはずだ。
「闇の神子は余の愛玩動物となった」
皇帝リヴァイスの言い放った言葉がレスタ宮殿の広間に響いた。
え、冗談? 誰もがそう思ったに違いない。ざわめく人々の視線が、宰相の斜め後ろに立つ私に集まった。
私は一歩前に出ると、丁寧に頭を下げて挨拶をした。
「三宮珠子です。よろしくお願いします」
先生がにっこり笑う。
「神子さまが宮殿内を自由に歩き回っても、猫だと思って放っておくように」
彼らは顔を見合わせ、どう対応したのかといえば。
つまり、猫だと思えばいいんですね? 了解です!
なぜか、にっこり笑顔で受け入れられた。
「なんだか……変わった人たち、ですね」
願いを言えといわれて、猫にしてほしいと口にした女に言われたくないだろうけれど。
「これでいいのかな……」
部屋に戻って溜め息をついた私に、侍女であるエスティナさんとルシィーナさんが朗らかに笑った。
「大丈夫ですわ」
「そうそう。大丈夫ですよぉ」
「わたくしたちも陛下からお話を伺ったときには驚きましたけど」
「神子さまが『自由を願った』とお聞きして納得いたしましたもの~」
猫の世話係としてつけられたふたりは、麗しき双子の姉妹だった。
お姉さんのエスティナさんのほうが青みが強いストレートの髪と瞳で、妹のルシィーナさんは水色の波打つ髪と瞳だ。
彼女たちは、皇帝の侍女も兼任しているという。
身長は男性並みに高くて、スタイルもいいんだけど、そもそも龍人というのは男女共に容姿端麗で背が高いのが特徴らしい。
双子の身長はおそらく175センチくらい。皇帝はそれより10センチくらい高く、さらに先生の方が皇帝よりも少しだけ背が高い。
私の身長はこの世界に来たときからほとんど変わっていないので、おそらく155センチ。皇帝の肩ほどくらいの身長しかない。
兵士の中には身長が2メートルを超える人たちもいて、龍人の中に私がいると、完全に大人と子供(小学生)だった。
エスティナさんもルシィーナさんも、年齢は私よりも少しだけ上――20歳くらいに見えるのに、不老長寿の龍人というだけあって、実際の年齢は100歳を超えているという。
皇帝と先生のオムツまで替えたことがあるんだって。
「可愛かったんだろうなー」
小さな皇帝と先生を想像して和んでいたら、うふふ、とふたりは声をそろえて笑った。
「神子さまのほうが可愛らしいです」
「本当に、陛下や閣下が神子さまを気に入られるのもわかりますわ~」
私のことを「神子さま」と彼女たちは言うけど、皇帝だって光の神子なのだから紛らわしくないのかと首をかしげる私に、皇帝のことは「陛下」と呼ぶから問題ないと説明してくれた。
エスティナさんは常に穏やかで静かに微笑んでいるし、ルシィーナさんは間延びした話し方が特徴で、自由奔放な言動が目立つ。なにより、エスティナさんは羨ましくなるくらい綺麗な髪と細い腰で、ルシィーナさんは爆乳の持ち主。
よく男は女の胸に目が行くと言うけど、女だってすごい胸を見たら目を奪われる。
宮殿にいる女官は皆アオザイ風というかチャイナ風というか、縦襟の服装で統一されているので、身体の線が如実にわかる。
ふわー。おっきいー。ゆれてるー。
いいな、触ってみたいなー。
もう目は釘付けだ。
初対面のときからルシィーナさんの胸が気になっている私に、彼女はにっこり笑って「触ってみますかぁ」と言ってくれたのだった。
以心伝心!? それとも、人の心が読めるの?
にこにこ笑っているルシィーナさんを前に、私の答えはもちろん背筋を伸ばして、元気に「yes!」だ。
わーい!
許可してもらっちゃった。私はソファから立ち上がると、ニコニコ笑って両手を出した。
ルシィーナさんのお胸を両手でつかんだときの衝撃。
包みきれない!
きっと、私の目はすごくキラキラしていたと思う。
押せば、ぷよーん、と弾かれる。
もみもみ。
「おっきーい!」
思わず顔が緩む。
マシュマロみたいな感触。
ふにふに。
「やわらかーい!」
むぎゅ、と私はルシィーナさんに抱きついた。当然、私の顔はルシィーナさんの胸に埋まる。あったかいですー。
ああああ、いい匂い……。
「あらあら」
うふふ、とルシィーナさんは私を抱きしめた。
ああ……このまま窒息死してもいいかも。
「何をやっているんだ」
呆れた皇帝が私の襟首をつかんで引き離した。
そのままくるりと向き合うようにひっくり返される。私は皇帝の腕につかまって、ぴょんぴょんと撥ねた。
「陛下、陛下、ルシィーナさんのお胸、気持ちがいいですよっ」
興奮する私に、皇帝は眉を寄せた。
「陛下と言うな」
「光の神子さま!」
「違う」
「?」
意味がわからずに首をかしげると、皇帝は私の身体をひょいとすくいあげて、子供のように抱きかかえた。
「珠子」
本当に、背筋がぞくっとするくらい美声だ。
まっすぐに私を見る真剣な目。
整った顔が間近で、ドキッと心臓が跳ねた。
この世界には、先生をはじめ綺麗な人はたくさんいるのに、なぜこの人にだけ胸が熱くなるのだろう。
同じ神子だから?
私は、紫の目にかかる金色の髪を指で撥ね退けた。
長いまつげ。
「珠子、俺の名を呼べ」
「え?」
「名前だ。教えただろうが」
「……リヴァイスさん」
「さんはいらん」
「リヴァイス」
そうだ、と皇帝が口角を上げた。
「忘れるな。その名を口に出来るのはお前だけだ」
――私だけ?
首をかしげる私に、皇帝は笑った。子供みたいな笑みで。
「俺の猫もお前だけだ。大切にしてやる。だから、ずっと側にいろ」
先生が教えてくれたけど、皇帝はずっと前から闇の神子に会いたかったんだって。
でも、光と闇の均衡が崩れている間は会うことを禁止されていたらしい。
皇帝が、私のことを気に入っているのはわかる。ただ、闇の神子だから気に入っているのか、それとも、突拍子もないことを言い出した娘を面白がっているのかはわからない。
それでも、大切にしてくれるという言葉が嬉しかった。
側にいろ、と思ってくれているのが嬉しかった。
「うん」
私は笑った。
大切にしてね。
側にいさせてね。
「あなたの子供や奥さんとも仲良くやっていくから」
「ん?」
皇帝が瞬いた。
「なんのことだ」
「結婚しているんでしょう?」
「してない」
「子供、いるんでしょう?」
「いない」
「……」
私は困って、双子の侍女を見つめた。
「そこの壁にある絵って、リヴァイスなんですよね?」
部屋に飾ってある油絵には、皇帝一家が描かれている。ソファに座っているリヴァイスと、寄り添うようにして微笑む赤毛の女性、その腕で、赤子が眠っている。
その絵の複写を旅の中で見たことがあった。それに目を奪われていた私を見て、先生が教えてくれたのだ。
それ、皇帝陛下ですよ、と。
「陛下はこれですよぅ」
これ、とルシィーナさんが指差したのは、赤子だった。
おそらく、先生が言った「それ」とルシィーナさんが言った「これ」は同じ。
「…………」
長い長い沈黙の後、私は皇帝を見つめた。
「結婚、してないんですか」
「してないな」
「…………お父さまと似てますね」
ふ、と笑ったのは皇帝。
次いで、わはは、と声を出して笑いはじめた。
「俺が独身だと困るのか?」
「……恋人はいますよね」
「いない」
「……」
家庭持ちのペットと、独身者のペットじゃ、大きく意味が異なってくる。
龍人たちを前に、私のことを紹介した皇帝と先生の言葉が脳裏で繰り返された。
彼らは、どういう意味に受け取ったのだろう。
――最悪、だ。
私が勘違いしていたことがおかしいのか、皇帝はくくくと笑い続けている。
「珠子、願いを変更してやってもいいぞ?」
「……」
「俺の后妃になるか?」
「なりません」
「即答か!」
「猫でいいです」
私は開き直った。