02話 願いをひとつ。
「闇の神子さま――」
私がこの世界に召喚されて、初めて聞いた言葉がそれだった。
※
三年前のあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。
突然の衝撃は空中から落下したためで、私はてっきりベッドから落ちたせいだと思ったのだ。
足首と腰に激痛が走り、腰をさすりながらうんうんと唸ること数秒。
目を開ければ自分の部屋――ではなく、複数の外人に囲まれていて心臓が飛び上がった。
え?
え??
何!?
戸惑う私に、優しい笑顔で話しかけてきたのは長い銀髪に青い目の麗人だった。
「闇の神子さま」
穏やかな美声。
しかも、女性じゃなくて男性だ――。
彼が口にした言葉は日本語ではなかった。英語でもない。それなのに、私の頭の中ではきちんと意味が理解できていた。
相手が「アップル」と口にした単語が、「リンゴ」と理解できているのと同じ。
私は慌てながらも彼から視線をはずして、状況を把握しようと周囲を見回した。
親戚の結婚式で入った教会の内部みたいな場所。天井は高く、一連のステンドグラスが何かの物語を描いている。
悪魔の召喚術みたいな模様の真ん中にいたので、なんだか召喚されたらしいぞ――自分が、と脳内で突っ込む余裕すらあった。
神父さんに似た長衣や、中世ヨーロッパ風の服装をした人たちが、私を等間隔に囲んでいる。いちにいさん……、総勢十二名。おおむね、彫が深くて鼻が高い。いかにもな「外人さん」だ。
――夢?
どこかの宗教行事で、うっかり召喚されてしまったのだろうか。
まさか、そこが地球上ですらなかったとは、思いも寄らず。
ここはどこなのか、あなたたちは誰なのか。
訴えても、彼らは困ったように首を横にふるだけ。
私が口にしているのは日本語で間違いない。でも、相手には通じていないようだった。
「ジャパニーズ、ジャパン、ジャポン、ジパング、ジーペン、ニホン、ニッポン……、えっと、ほかに、オハヨー、コンニチハー」
とりあえず私が日本人だとわかれば、何とかなるだろうと思った。
日本大使館に連絡を取ってもらえれば日本に帰れるはず。
「……知りませんか?」
彼らは顔を見合わせて首を横に振る。
筆記している人がいたので、ペンを借りて、日本の国旗を描いてみてもだめだった。
「神子さま、こちらへどうぞ――」
相手の言葉はわかる。
でも、自分の言葉は相手に通じない。
困ったな、とは思ったけど、焦ってはいなかった。
だって、いつかは日本に帰れるだろうと楽観的に考えていたから――。
※
「三宮珠子です」
皇帝を前に、自分の名前を口にすると、彼はきょとんと瞬いた。
「サンノー……」
「サンノ、ミヤ、タマコ」
「サンノー、ミーヤ、マタ、……マタマ、コ?」
「……」
――ああ。
私も、きっと彼の名前を聞いたときに、こんな表情をしたのかもしれない。
サンノミヤタマコ。たったの8文字だ。皇帝の御名に比べたら特別言いにくい名前とは思わないのだけれど、不思議とうまく発音できないようだった。
彼のように「まあいい」と適当に流すことも出来たけど、彼が一生懸命に覚えようとしてくれているのがわかったので、私は言いやすいようにゆっくり発音した。
「サ・ン・ノ・ミ・ヤ、タ・マ・コ」
「サンノ、ミヤ、タマコー」
「はい」
こくん、と私がうなずくと、彼はにぱっと子供みたいに笑った。
うわ。すごく嬉しそう。
「サンノミーヤ! サンノミーヤか! いい響きだな!」
「珠子でいいですよ?」
「タマコー?」
「はい。そっちのほうが名前だし、言いやすいんじゃないかと……」
思うんですけど、とは口に出来なかった。なんだか皇帝の表情が暗く、ぶつぶつとつぶやき出したから。
「タマコー……タマコー……」
マにアクセントがあるため、発音が「ハマコー」と「ナマコ」の合いの子っぽく聞こえる。
「……」
私は不安になって先生に顔を向けた。
「変な名前ですか?」
先生はニコニコと微笑んでいる。
「言いにくいだけだと思います」
「そうですか」
私は苦笑した。皇帝に向かって笑う。
「じゃあ、三宮でいいです」
「いや! タマコーが名前なのだろう? タマコーと呼ぶ」
「……正確には、タマコーじゃなくて、タマコ、です。タにアクセントを強く」
「タマコ!」
「タマ、だけでもいいですよ」
にっこり笑ったら、皇帝はふふふと低く笑った。
「タマか! それで通じるのか?」
「はい」
「面白いな!」
「私の国の言葉で、こう書きます」
――珠子
私は空中に漢字を書いた。
「真珠の珠に、子供という意味です」
「真珠の子供?」
「はい」
「珠子」
「はい」
「珠」
「はい」
皇帝は私の頭に手を置いた。
「綺麗で、いい名前だ」
「ありがとうございます」
「珠子……珠子、珠子」
三年間、一度も呼ばれたことのなかった名前が、彼の口からたくさん出てくる。
「珠子」
「はい」
「ご両親にお会いしたいだろう」
「――」
私は。
息と、軽く心臓を止めた。
彼の言葉が、静かに落ちてくる。
――ご両親にお会いしたいだろう。
戻れないと聞かされたときから――。
戻れないとわかったときから――。
「会いたいに決まっているでしょう」
私の声は低く響いた。
会いたいと言えば戻してくれるのか。
「私を帰した後、新しい闇の神子が生まれる可能性はあるのですか」
私の変化がわかったのか、皇帝は自分の失言に気づいたようだ。
少しだけ焦ったように見えた。
「いや。近代ではそなただけだ。そなたを失えば、別の者が他界から呼び出されるだろう。……だが、またそなたが召喚される可能性の方が高い」
「……」
「珠子」
「光の神子である貴方が亡くなれば、私は元の世界に戻ることが出来ると言われました」
「誰がそんなことを――」
「私です」
静かな発言の主――先生を皇帝が鋭い視線で射抜いた。
でも、先生は穏やかな表情のままだ。そこに他意はない。
皇帝は小さく息を吐くと、すべてを焼き尽くすような視線で私を見つめた。
「俺を殺すか、闇の神子」
「殺せるのですか、私に」
怯まずに答えた私をじっと見て、皇帝は小さく苦笑した。
静電気のようにピリピリと、肌へ感じるほど強い覇気が薄れたのがわかった。
瞳の紫が色の濃さを増し、彼は私の髪に触れた。
「そなただけが殺せる」
静かな声だった。
目をそらしたら負けのような気がして、私はまっすぐに彼を見つめた。
「私だけが?」
「光の神子を殺すことが出来るのは、闇の神子だけだ」
「私、だけ」
「ああ」
「皇帝は不死の身なんですか」
「普通に寿命で死ぬな。……セイフォンから龍人のことは聞いたか」
「りゅうじん?」
初めて聴く言葉だ。
「この世界には龍がいる。知っているか」
「はい。龍だけが棲む大陸があると」
「俺は龍と人との間に生まれた子供だ。正しくは、龍と人との間に生まれた子供の子孫、だな。皇宮にいる者の多くが龍人だ」
「……龍になれるのですか」
「なれるのかもしれないが、なったことはない。だが、龍は人の姿になることが出来る。人と交わり、生まれたのが龍人だ。龍人は外見こそ人と変わらないが、人よりも長い寿命を持つ」
皇帝は私の目をまっすぐに見つめた。とても穏やかな目で。
「珠子は俺が何歳に見える」
「……25歳くらい?」
たしか、光の神子が生まれたのはそれくらい前だったはず。
「25……か。珠子には俺が老けて見えるのだな」
「え?」
「龍の血が覚醒したのは今から十年前。それから俺は外見上、年を取っていない」
「……15歳?」
「見た目はな。髪や爪は伸びるが、身体は老化することがない」
「見た目、思いっきり20代ですけど……」
「そうか」
皇帝は苦笑する。
「おそらく、このまま300年くらいは生きるだろう。俺が人と交われば、その者も時を止め、それくらいは生きるようになる」
「不老長寿になる?」
「子を身ごもれば、だな。龍の血が母体を守るために身体を変えるらしい」
「皇帝の子供は光の神子として生まれるのですか?」
光の神子は、必ず皇帝の血筋から生まれるという。
「俺が死ねばいずれ生まれるだろうが、生きている間は生まれない。闇の神子もそなたが生きている間は生まれないだろう」
「私が死ねば……生まれる、の?」
「死にたいのか」
「……」
死にたくない。
死にたいと考えたこともない。
「ただ……」
自由がほしいだけ。
「珠子」
皇帝が私の頬を両手で包んだ。
「願いを言え。ひとつだけかなえよう」
私は紫水晶のように綺麗な目を見つめた。
「ひとつだけ?」
「何を願う」
「……」
私は彼の手に自分のそれを重ねた。
大きな手。
暖かい手。
私は目を閉じて、小さく笑った。
「先生が……、セイフォン様が願いをひとつだけかなえてくれるというので、私の記憶をなくしてほしいとお願いしました」
あれはいつだったか。
すでに世界を回って一年は経っていたと思う。
元の世界に帰せと泣く私に、世界の均衡を保つため元の世界に戻すことは出来ないと言った後、先生が皇帝と同じことを言ったのだ。
貴女の願いをひとつだけかなえましょう、と。
「珠子の記憶?」
「両親や、私のことを知っている人たちが、私のことを忘れるようにお願いしました」
それならできると言われた。
三宮珠子という存在をなかったことにするのではなく、授業中や旅行の間は家族のことを思い出すことがないのと同じように、急にいなくなった私をいつまでも忘れずにいるのではなく、いなくても気にしない状態にしてもらいたいとお願いした。
私がいないことを悲しむのではなく、遠いところへ嫁にやったつもりで、穏やかに暮らしてほしい。
「願いは今すぐでなくてもいいぞ」
皇帝の穏やかな声に私は目を開けた。
「いいえ」
まっすぐに皇帝を見上げた。
「願いはあります」
「……」
もう、決めてきた。
「どんな無茶でも聞いてくれますか」
「……内容にもよる」
「私を貴方の愛玩動物にしてください」
「……」
皇帝の身体が停止した。
私は小さく笑う。
「聞き間違いじゃないですよ」
「ペット……と、聞こえたが」
「はい。そう言いました」
「……セイフォン」
「はい」
皇帝が困ったような顔で、先生を見た。
「言葉を間違って覚えているということは」
「ないと思います」
「后妃ではなく?」
「ではなく」
「……珠子」
「はい」
「それは本当の願いなのか?」
私はにっこりと笑った。
「私のことは猫のように扱ってください」
「猫」
「私が求めるのは自由です。束縛されず、自由に歩きたい。寝たいときには眠ります。行きたい場所にも行きます。この宮殿の中だけでいいです。自由をください」
「……猫、か」
「猫です」
「部屋はどうする」
「屋根裏部屋でもあればそこで」
「そんなものはない」
皇帝は突然、小さく笑った。
「世話をする者をつけてもいいのか」
「そうですね……ひとりか、ふたりなら。でも、後ろをついて歩き回られるのは嫌です。護衛もいりません」
「食事はどうする。自分で獲るのか」
「ご飯はください。野良じゃないですから」
「服は着るんだろうな」
「裸の方がいいんですか」
「それは困る」
「じゃあ、用意してください」
「触ってもいいのか?」
「ご自由にどうぞ。――あ。あと、水ではなくて、暖かいお風呂に入りたいです。できれば、毎日」
「猫なのに入浴が好きか」
「猫だけど好きです」
くくく、と皇帝が笑った。
「ほかに望むことはあるのか」
願いはひとつと言ったのに、彼は私の発言を楽しんでいるようだ。
「ええと、特には。思いついたら、また追加してもいいですか」
「よかろう」
皇帝は私の頭を両手でくしゃくしゃと撫で回した。
「気に入ったぞ、珠子!」
「え、わ――っ」
皇帝が身をかがめると、私の身体はふわりと浮き上がった。
子供みたいに抱かれて。
満面の笑みで彼は言った。
「その願い、かなえよう――」