01話 闇の神子。
――その願い、かなえよう。
皇帝であるその人が言った。
※
光と闇の均衡を保つため、私が異世界から召喚されたのは三年前。
最初は何もわからなかった。
私を「闇の神子」だと言う彼ら。
巫女のようなものかと思っていたけど、存在的には神に近いらしい。
何をするわけでなく、ただいるだけでいいと言う。
簡単なお仕事ですね、なんて思ったのは最初だけ。
存在することで均衡が保たれるため、召還が出来ないと言われたのは、一年が経ったころだった。
この世界で生きるしかない。
私は崩れた均衡を安定させるために世界中を連れ回されながら、この世界のことを頭に叩き込み、染み込ませた。
文字、言葉、習慣……。
ところが、ようやく世界が落ち着いたら、今度は何もするなと言われてしまう。
私が下手に動くと、逆に均衡を崩してしまうらしい。
ただ、存在すればいい。
はいはい。
わかりました。
おとなしくしています。
私は素直に従った。
もともと出不精だし、ぼうっとしていることが好きだったから問題はない。
三年間でこの世界の言葉や文字も覚えたし、衣食住に困らない生活が約束されている。
日々遊んで暮らすだけでいいなんて、18歳にして、最高の年金暮らし。
文句なんて言いません。
私は皇都セヴァリスタにある闇の神殿で暮らすことになった。
暮らすといっても、神職である神官や巫女は別にいて、私はただそこにいるだけ。
働きますと言ったら、何もするなと言われてしまう。
掃除をしたら怒られる。
神殿へ来る者に直接祝福すら与えられない。
行動はご自由に、と言われたので、ひとりで黙って街に出たら「神子さまが行方不明!」と大騒ぎになってしまった。次は声をかけてから街に出たら、後ろに神官や巫女、護衛たちが付き従って、まるで病院の院長回診。
「なんだかな……」
思わず溜め息をつきたくもなる。
世界を回っていた時のほうが忙しかったけど落ち着いていたくらいで、結局、私は神殿の奥で本を読み、花を愛でるだけの日々を送ることになった。
そんな毎日が続いて、ちょうどひと月が経った頃、私は大陸帝から呼び出されたのだった。
皇帝陛下いわく「直々に褒美を取らせるから来い」と。
神官長はもう少しオブラートに包んだ言い方をしていたけど、たぶん、内容的には間違っていない。
私が召喚されたのは皇都セヴァリスタにある闇の神殿だけど、すぐに世界中を連れ回されたので、皇帝のことは絵姿でしか見たことがなかった。
金の髪に紫の目、端正な顔、長身で足も長い。大きな宝石がついた剣を杖のようにして、紫色の豪奢なマントが広がっている。縦襟の盛装した姿はとてもかっこよくて「わー」ってなったけど、だいたいこういうのは本人よりかっこよく描かれているもので、実際はもっと平凡な顔だったり、身長が低かったりするのだ。
私が知っている皇帝といえば、中国とかロシアの皇帝だったから、大きな宮殿に住んで、たくさんの美女に囲まれているのだろうと思った。
――どんな人なのだろう。
日本の天皇陛下みたいに穏やかな方だったらいいけど、この世界の大半が中世ヨーロッパ風だったから、どちらかといえばロシアの皇帝を想像した。
――うん。
強そう。
怖そう。
逆らわないようにしよう……。
静々と、神官長に連れて行かれたのは、大きな宮殿の奥にある本殿。
その入り口で待っていたのは、銀の髪に青い目の男性だった。
男の人なのに、少し女性的というか、中性的な感じで、相変わらず綺麗な人だった。
背が高く、若くてかっこいいから、見ているだけで目の保養になる。
「セイフォン様」
私は目線を下げると、軽くひざを曲げて挨拶をした。
彼は、私が召還されたとき最初に話しかけてくれた人で、世界を回るときも常にそばにいて、この世界のことを教えてくれた人だった。
世界の均衡を保ってからは会うこともなかったけれど、もともと皇帝の下で政治を支える宰相なのだと聞かされたのは、世界を巡る旅を終える間際だった。
「神子さま」
セイフォン様は穏やかに微笑んだ。
お久しぶりです、と言われたので、お久しぶりです、と返した。
セイフォン様はどこか困ったように小首をかしげた。
「もう先生とは呼んでくれないのですか?」
「だって、宰相様だから……」
「……誰かに何か言われましたね」
かすかに低くなった声に、ビク、と怯えて震えたのは隣にいた神官長だった。
セイフォン様はまっすぐに私を見下ろした。
「貴女は私の生徒なのですから、私のことは先生と呼んでいいのです」
彼の言葉に、私は笑った。
「はい、先生」
先生が改めてこの三年間のことを労ってくれたので、私は小さくうなずいて、彼を見上げた。
「髪を切られたのですね」
腰先まであった長い髪が、肩先でゆれている。肌の色が白すぎて最初はびっくりしたけど、日焼けしない体質なのは旅の中でわかった。
先生は微笑んだ。
「神子さまのおかげですよ」
穏やかな物言い。
長い髪は生まれ持った強大な魔力を封じるために伸ばしていたという。光と闇の均衡が保たれて、やっと髪が切れると口にしていたから、それを実行したのはわかっていたけど。
常に穏やかな口調で、どんなときでも激昂することのなかった彼は、見知らぬ世界で不安だらけの私にとって、安定剤のようなものだった。
別れるときに、すぐにお会いできますよ、と笑っていたけど、こういうことだったのかな。
「陛下がお待ちです。こちらへどうぞ――」
先生の後に続いて私は歩いた。続いたのは私だけで、神官長が入ることが出来るのはここまでらしい、と気づいて、私はひとり残る老人に向かって頭を下げた。
「お世話になりました」
また後で、ではないことを私は知っていた。
神官長がどんな表情をしたのか確かめることなく、私は踵を返した。
宮殿内にはたくさんの人がいる。
いるけど、姿があまり見えないのは、男も女も柱の影に隠れてこっそり覗いているからだ。
先生の後を大人しくついて歩きながら、彼らが気になって仕方がない。
「……」
ここって、宮殿だよね……?
噂の転入生が気になる生徒、といった様相でなんだか笑いたくなってくる。
目が合った女性に小さく会釈をして笑いかけると、サッと隠れてしまった。その後、周囲がかすかにザワつき、キャーと複数の嬌声が上がった。
――なにこれ。
「神子さま、どうか気になさらずに。前を向いてお歩きください」
「はあ……」
私は軽く首をかしげた。
「もしかして、セイフォン様ファンクラブですか」
「なんですかそれ」
「先生、もてそうだから」
「皆、闇の神子さまが気になるのですよ。普段、お目にかかれるお方ではないので興味津々なのです。無礼ですがお許しください」
「はあ……」
――闇の神子は珍獣か。
私は小さく笑う。
「明るいところですね」
嫌味ではなく、素直にそう思った。
先生に連れて行かれたのは、宮殿の奥にある客間のような場所だった。
舞踏会が開かれるような大広間ではないことにホッとしたが、よく見たら客間とは少し違うことに気づいた。
棚の本は縦横自由に収まっているし、ソファーには読みかけの本や飲みかけのカップが置いてあり、背もたれには上着が乱雑にかけられている。
明らかに私室だ。
先生が室内を見回した。
「陛下?」
――まさか、皇帝の私室?
「来たか!」
寝室とつながった内扉をノックもせずにいきなり入ってきたのは若い男の人で、紹介されなくても皇帝その人だとわかった。
明るい金の髪に紫の瞳。背が高くて、整った容貌。絵姿で見た皇帝そのままで逆に驚いてしまった。
こんな人が皇帝だったら、みんなが誇らしく思うのも納得だ。
普段着なのだろうか、楽に着崩しているが、だらしなく見えないのはスタイルがいいからだ。
――この人が、光の神子。
はじめまして、と頭を下げれば、皇帝は「わはは!」と声を出して笑った。
……!?
「本当に頭を下げるんだな!」
なんだか、すごく元気で明るい人だ。
こう言っては失礼だけど、威厳……のようなものはない。だから、恐縮することもなく、普通に観察することが出来た。
皇帝は私をまっすぐに見つめて、口角を上げた。
「初めて会うな、闇の神子」
「はい」
この世界は、光と闇の神によって作られた。
正しくは、人が住めなかった土地を、住めるようにしたのが光と闇の神だった。
世界に均衡をもたらす光と闇。それは、正と邪ではなく、昼と夜のようなもの。
ところが近代、光の神子の誕生後、20年経っても闇の神子が現れることなく、世界は徐々に均衡を崩し始めた。
神子は世界を作った神の力の一端を担う。
存在すれば力は安定するが、不在であれば力は安定を失ってしまう。
神々によって作られたこの世界は魔力に満ちていて、誰もが大なり小なりの魔力を持って生まれてくる。
近年、闇の神子がいないことで闇の力が増大し、魔力の強い者たちが己の力を抑えることが出来なくなった。
人は己の魔力を封印する術を持っていたが、虫や獣たちはなすすべなく、各地に魔物と呼ばれる魔蟲や魔獣が出現しはじめた。
もともと大人しい生き物であっても、魔力が暴走すれば姿が変わり、魔力による破壊衝動が起こる。
抑えたくても抑えられない。
どうすればいいのか――。
答えは簡単だった。
極端な話、均衡を保つために光の神子を殺せばいい。
ところが、光の神子は大陸全土を治める皇帝その人で、失えば世界の均衡を保つどころの騒ぎじゃなくなってしまう。
ならばどうすればいいのか――。
理のない世界から、闇を抑える力を持つ存在を呼び出せばいい。
「黒い髪に黒い瞳か、小さい顔だな。声もかわいいと聞いている」
皇帝は明るく笑った。本当に、太陽みたいに明るい。
「名を呼んでもいいか」
「え」
「名前だ」
私は近づいてくる皇帝を見つめて、瞬いた。
「名前……?」
「ん?」
「名前……」
私がつぶやくと、皇帝は控えていた宰相に顔を向けた。
「頭が弱いのか?」
「いいえ。とても聡明な方ですよ」
「セイフォン、闇の神子の名はなんという」
「……」
先生が私を見た。
「あるのですか」
私は苦笑した。
「あります」
「なんだ?」
皇帝が眉を寄せた。
「俺の頭が弱いのか。今の会話が理解できん」
「私どもは、闇の神子さまのお名前を存じ上げません」
「は?」
「闇の神子さま、もしくは、神子さまとだけお呼びしておりましたので」
「はあ?」
皇帝が呆れたような声を上げた。
「なんだそれは! 召喚して三年だぞ!?」
先生が静かに頭を下げた。
皇帝は大きな溜め息をついて、私の方へと振り返った。
「俺の名は知っているか」
「……」
「ひとつでいいぞ」
「光の……神子」
「それは名前じゃない」
すみません、と私は身をすくめた。
「知りません」
頭を下げて謝ろうとしたら、
「待て。待て待て」
皇帝は私の肩に手を置いた。
「わかった、わかった。俺の名はリヴァイスだ。長い名は省くが、リヴァイス=フォー・クロスト・セイ・クレインザールだ。言ってみろ」
えええ……。
それで省いているの?
「……えっと」
私は何とか聞こえてきた単語を口にしてみる。
「リバイス、フォー・クロスト、セー、クレンザール」
「少し違うが……、まあいい。もう一度言ってみろ」
「リバイス」
「リヴァイス」
「リヴァイス?」
「そうだ」
くしゃりと皇帝は笑って、私の頭を大きな手でかき回した。
「うわっ」
「ははは!」
確か、もう20代の半ばくらいなのに、皇帝は少年みたいに笑う。目をキラキラとさせて、本当に子供みたいだった。
かわいい、なんて思ったと知ったら、侮辱されたと思うかな。
「神子、お前の名を教えてくれ」
「私の名前は……」
三宮珠子
私はこの世界に来て、初めて自分の名前を口にしたのだった。