時雨
今は少し、昔語りをしましょう。
月のない、さみしい夜だから
しとしとと、降りしきる時雨に耳を傾けながら
今はただ、君と語り合いましょう。
「ずいぶん続くわね」
黄泉の国にも冬が訪れた。
この日は朝から、冷たい雨が降り続いていた。
重い夜の空を見上げる壱与の目は、憂鬱というよりどこか楽しげに輝いている。小袿の袖をおさえ腕を伸ばすと、冷たい雨つぶをその手のひらにすくう。雨つぶは壱与の手のひらの上に落ちては一つになり、小さな水たまりをつくった。
「壱与、中へ入りなさい。君まで風邪をひいてしまうよ」
白の単姿の華羅は、今はほとんどの遣戸を閉めた広廂から、庭へ面した簀子縁に立つ彼女へ穏やかに声をかけ、手招きをした。
熱のせいで腫れた瞼の華羅は、昨夜よりも顔色は良いとはいえ、まだどこか青白い。いつもならきりりと結い上げている髪は、今ではばらばらと崩れかけていた。
少年のような姿をしている彼は、黄泉の国で特別治安部の頭を務めている。
「濡れていないかい」
「ええ、平気よ。……ここは冷えるわ。さ、中に入って」
御簾を持ち上げると、華羅を先に入れ、続いて自らも内へ入った。火鉢には炭が十分にくべられており、燭台の灯りは室内をやさしく照らしている。
華羅は高麗端の畳に敷かれた夜具の上に胡座をかき、壱与はその傍らの円座に腰を落ち着けた。
「気分はどう」
「うん、昼間よりもいいよ」
やんわりと微笑み、壱与は華羅の額へ手を当てた。その指先は、時雨のせいでひんやりと冷たい。
「まだ熱いわね……もうちょっと横になっていたほうがいいわ。それとも何か食べられそうかしら」
「……少し、起きていたいんだ。熱にうかされて、何だか眠るのが怖いんだよ」
いつもは強気な華羅は、はにかむような顔で弱弱しく言うと目を伏せた。
「華羅がそんなに弱気だなんて、珍しいわね……さ、横になって。わたしが側にいるから、だいじょうぶ」
愛おしむような声。
壱与は静かに目を細めた。
「……オレ、こどもみたいだな」
苦笑しつつ横になる。
「病気になると、誰でもそうなるものよ。心も弱ってしまうのね」
ふたりは小さく笑い合った。灯りの火も笑うようにゆらめいた。
ふと格子の向こうへ目を向けると、華羅は雨の音に耳を傾ける。
「雨の音は、きれいだな……壱与は昔から雨が好きだったね。広廂に座って、ずっと空を見上げていた。彩夜の生まれた晩も雨が降っていて、外が見たいという君を抱えて一緒に夜空を仰いだのを覚えているよ……あの日は雨だというのに、美しい夜だった」
「ええ、きれいな夜だったわね。春雨が薔薇へ柔らかに降り注いで、若葉を温かくゆらしていた……まるで精一杯生きなさい、と励ますかのようだった――彩夜も激励されているんだって、きっと強く優しい子に育ってくれるのだと感じて、とてもうれしかったわ」
遠い日々の幸せが、ふたりの間に広がっては、再び静かに消えた。
「雨だれは、いろいろな記憶を思い出させるの。いい思い出ばかりじゃないわ。悲しいこともたくさん……――華羅が亡くなった日も、冷たい雨が降っていた。わたしが天津國へ初めて足を踏み入れた時も、大雨が降っていたわね……ひどい雷だったわ」
微笑の中にどこか悲しい色を湛えた壱与の眸が、華羅の眼を捉えた。
「――オレたちが出逢った日は、桜の雨が降っていたね。壱与が桜の精のようだと思った……本当に、美しかった……」
最後はその光景を目の前に見ているように、華羅はささやくようにうっとりとつぶやいた。
「ふふ……あの華羅の驚いたような顔が、桜の花びらの影にかくれたり、あらわれたりする様子が、まるで昨日のことのように鮮明に覚えているわ。あの時も華羅は、わたしに“桜の精か”と訊いたのよ。覚えているかしら」
「ああ、覚えているさ」
燭台の油が、ジジっと鳴いた。
灯りが揺れ、ふたりの影もそれに合わせてゆらゆらと揺らめいた。
「そろそろ、眠れそう」
壱与の問いに、華羅は小さくうなずいた。
「だいぶ落ち着いてきたよ……ねぇ、抱き締めていいかい」
華羅は静かに尋ねると、体を起こした。
壱与は答える代わりに、小さく微笑む。華羅も微笑み返すと、そっと壱与の肩を抱き寄せた。
華羅の腕は熱のせいか弱弱しく、熱かった。
大切な人が、早く元気をとり戻しますように、と祈りを込めて、壱与も華羅の背中を抱き締めた。
しばらく静寂と、軒を打つ雨だれの音が、時を流れた。
「……ありがとう。もう、大丈夫」
そっと腕を解く。
雨はまだ、暗い地面へ落ちてはさわさわと歌っている。