第三話 道具の末路
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ラヴェルは立ち上がると、作業台の上の書き物を丁寧に閉じた。
「素体が逃げた、か。面倒だな。だがまあ、また集めればいい」
その言葉には怒りも焦りもなかった。在庫が切れた、程度の響きだ。
「それより、お前は面白い。工房を燃やし、キメラを三体倒し、ここまで辿り着いた。いい戦闘データが取れそうだ」
ラヴェルの手が動いた。
床の術式魔法陣が淡く光る。広間の石壁が唸りを上げ、壁面から石柱がアレクに向かって突き出した。
横に跳んだ。石柱が背後の壁を砕く。着地した瞬間、足元の床が隆起する。転がって躱す。膝をついた姿勢から剣を構え直した。
術式魔法だ。古代エテルニアの攻撃呪文。研究者だが、遺跡の防衛手段として戦闘用の術式も解読していたのだ。
「なるほど、反応がいい。やはり若い男の素体は貴重だ」
ラヴェルの手が再び動く。床の魔法陣が光り、石壁が左右から迫ってきた。挟み潰す気だ。アレクは前に跳び、作業台を飛び越えて間合いを詰めた。
ラヴェルが後退しながら床を隆起させる。足元が崩れる。バランスを崩しかけたが、踏みとどまった。
距離が足りない。術式の発動が速い。走り込んでも、間合いに入る前に石壁で止められる。
目が広間を走った。壁に掛かった短弓と矢筒。
アレクは剣を構えたまま、横に走った。ラヴェルが石柱を撃ち出す。躱しながら壁際に到達し、左手で弓を掴み、矢筒を引きちぎるように取った。
走りながら矢を番える。弦を引き、放った。
ラヴェルの手が動き、空中に薄い光の壁が浮かんだ。防壁。矢が弾かれる。
だがアレクは止まらなかった。矢を放った直後に踏み込み、剣を振る。ラヴェルは防壁を張り直す暇がない。石壁を操ろうとするが、矢と剣の二択を同時に捌けない。
アレクの剣がラヴェルのローブの袖を裂いた。浅い。だがラヴェルの顔に、初めて余裕以外の何かが浮かんだ。
距離を取ったラヴェルに、間髪入れず矢を射る。防壁。その瞬間に踏み込む。石柱が横から突き出る。身を捻って躱し、剣を突き出す。
刃がラヴェルの左腕を掠めた。革手袋の下から血が滲む。
「痛いな」
ラヴェルは腕を見下ろした。怒りではなかった。不快ですらなかった。ただ、実験結果を確認するような目だった。
「なるほど。遠近の二択を同時に使える人間は厄介だ。データとしては十分だが――」
ラヴェルが広間の奥に走った。
鎖に手をかける。
「実戦データは、こちらの方が欲しい」
鎖が外れた。布が落ちる。
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それは、ゴブリンではなかった。
ゴブリンの四倍以上の体躯。天井に頭が届きそうな巨体が、ゆっくりと身を起こした。
複数の生物を外科的に融合した異形だった。腕は太い樹木のように節くれだち、肩には別の生き物の骨格が接合されている。目が三つ。額の中央にもう一つの眼窩が開いている。全身に縫い合わせの跡が走り、その隙間から肉が盛り上がっていた。
まだ成長している。
月光草の過剰投与で、体の成長が止まっていない。縫い目の端から筋繊維が覗き、脈打つように膨張と収縮を繰り返していた。
量産型のゴブリンキメラとは、別格だ。
ラヴェルが手を上げ、声を発した。古代語の命令だ。
キメラの三つの目がラヴェルを見た。
動かなかった。
「……まだ調整が終わっていない。だが今使うしかない」
ラヴェルが再び命令を発した。声が強くなる。
キメラが動いた。一歩、踏み出す。
アレクに向かうかと思えた。だが方向が変わった。
ラヴェルに向かった。
「止まれ」
ラヴェルの手が術式を描く。光の防壁が浮かぶ。キメラの腕が振り下ろされた。
防壁が砕けた。
紙のように。
キメラの拳がラヴェルの体を捉えた。紺のローブが宙を舞い、石壁に叩きつけられた。鈍い音が広間に響いた。
ラヴェルが壁際に崩れ落ちた。口から血が溢れている。胸の形が変わっていた。肋骨が折れている。
自分が作った「道具」に殺される。
キメラはラヴェルにもう興味を失っていた。広間の中を見回し、唸り声を上げている。何かを探しているのではない。ただ暴れたいだけだ。
ラヴェルがアレクの方を見た。
壁に背をつけたまま、最後まで目は冷静だった。
「……惜しいな。あと少しで、完成だったのに」
自分の死よりも、研究の中断を悔やんでいた。
それだけ言って、動かなくなった。
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キメラが咆哮した。
竪坑の空洞に声が反響し、上層から粉塵が降った。制御者がいなくなったキメラは、完全に暴走していた。
広間を飛び出し、竪坑の吹き抜けに躍り出る。巨大な腕が足場を砕き、梯子をなぎ倒す。その先にいたゴブリンが叩き潰された。悲鳴すら上がらなかった。
火災の混乱で逃げ惑うゴブリンたちと、暴走するキメラ。ボスを失った群れは完全に統率を失い、坑道の中が混沌に沈んでいく。
アレクは岩陰に身を潜めながら、考えた。
キメラを倒す必要はない。
女性たちはもう逃げた。自分も逃げればいい。ここに留まる理由はない。
上層へ向かった。女性たちとは別のルートだ。火災の煙が充満する坑道を、布で口を覆いながら駆け抜ける。
背後から、キメラの咆哮が追いかけてきた。ゴブリンを蹴散らしながら竪坑を登っている。こちらに来る。
だが坑道に入った瞬間、追撃が止まった。
キメラの巨体が、坑道に入れなかったのだ。
肩が壁にぶつかる。天井を砕こうとする。岩が崩れるが、通路が狭すぎる。ゴブリンの四倍以上の体躯が、人間用の坑道を通れるはずがない。
アレクは狭い坑道を選んで走った。背後で壁を砕く音が遠のいていく。キメラの咆哮が反響するが、それも次第に小さくなった。
逃げ切った。
前方に光が見えた。坑道の出口だ。外の光が差し込んでいる。
走った。足が重い。左肩の傷が熱い。だが出口は近い。
光の中に飛び出した。
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山腹の斜面だった。
古い選鉱場の跡が広がっている。鉱石を洗うための石組みの水路が残り、沢の水が引き込まれていた。その斜面一帯に、見覚えのある青白い葉が一面に広がっていた。
月光草だ。
水と日光がある選鉱場の跡地を、そのまま栽培地に転用している。アリアの採取地から根ごと持ち去られた株が、ここで大量に育てられていた。
だが足元の花を見ている余裕はなかった。
地面が揺れた。
山腹の上方で、土砂が崩れた。岩壁の一角が内側から弾け飛び、粉塵の中から巨大な影が現れた。
キメラだ。
坑道を通れなかったキメラが、竪坑を駆け上がり、別の出口を力ずくでこじ開けてきた。岩壁を突き破った体は傷だらけだったが、動きは衰えていなかった。三つの目がアレクを捉える。
地上に出たキメラは、坑道の中とは別物だった。遮るものがない。巨体が自由に動ける。四つん這いに近い姿勢で斜面を駆け下りてくる。速い。
だが同時に、変化も加速していた。全身の縫い目から肉が盛り上がり、背中の骨格が軋みを上げている。成長が止まらない。
アレクは長剣を構えた。一本しかない。弓はラヴェルの研究室に置いてきた。盾もない。肩に傷があり、息が上がっている。
だが地上には、洞窟にはなかったものがあった。
日光だ。
キメラの三つの目が、一斉に細まった。
洞窟の中で育った目だ。地上の光に耐えられない。頭を振り、目を瞬かせ、一瞬だけ動きが止まる。
その隙に、アレクが走った。
斬りつけた。キメラの腕に。硬化した皮膚が刃を弾く。手応えがない。
だが腕の付け根に、縫い目の裂けた箇所があった。岩壁を突き破った時に裂けたのだろう。赤い筋繊維が覗いている。
そこに刃を入れた。
深くは入らない。軽い一撃だ。
だが裂け目が広がった。
切り口から成長が暴走し始めた。筋肉が不規則に膨れ上がり、腕の付け根が引きつる。キメラが腕を振り回そうとしたが、軌道が歪んだ。膨張した筋肉が関節を押し、動きを狂わせている。
これだ。
焚き火でアリアが語った言葉が蘇った。月光草の過剰投与は成長を暴走させ、体を壊す。このキメラは月光草漬けだ。縫い目を斬れば、裂け目から成長が制御を失う。
縫い目を斬ることは、この体に「壊れろ」と命じるのと同じだ。
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キメラが吼えた。
三つの目が日光に灼かれ、涙を流しながらも、アレクの気配を追っている。視覚だけではない。音と匂いで位置を捉えている。
太い腕が薙ぎ払われた。月光草の群生地を削り取り、土が飛び散る。アレクは身を低くして躱し、距離を取った。
力は変わっていない。動きが崩れた腕でも、当たれば即死だ。
日光がキメラの目を刺す瞬間を待った。雲が切れ、陽射しが強まる。三つの目が同時に閉じる。
走った。
脚の縫い目に斬りつけた。膝の接合部。裂け目が走り、膝から下の動きがぎくしゃくし始めた。着地のたびに体が傾く。
離脱する。キメラの拳が地面を叩く。衝撃で体が浮いた。転がり、立ち上がる。
もう一度、日光が目を刺す。
今度は背中だ。背筋に走る縫い目に刃を入れた。裂け目が背骨に沿って広がり、左右の筋肉が引きつり始めた。体幹が崩れていく。
キメラが振り返ろうとした。だが背中が言うことを聞かない。上半身と下半身の動きが噛み合わなくなっている。
ヒットアンドアウェイ。一太刀入れて離脱する。日光で目が眩む隙に駆け寄り、縫い目を斬り、逃げる。地味な戦いだ。派手な一撃はない。だが一太刀ごとに、キメラの体が壊れていく。
腕の縫い目を斬った。振り回す拳の軌道がさらに歪む。
脇腹の縫い目を斬った。肋骨の接合が外れ、呼吸のたびに胸が不自然に膨らむ。
キメラはますます暴れた。力は落ちない。むしろ暴走する成長が筋肉を膨張させ、一撃一撃が重くなっている。だが体が言うことを聞かなくなっていた。狙ったところに拳が行かない。踏み込んだ脚が折れそうになる。
アレクも限界に近かった。
左肩の傷が開いている。息が荒い。足が重い。躱すたびに反応が遅れていく。何度か、爪が鎧を掠めた。あと少しずれていたら死んでいた。
消耗戦だ。どちらが先に崩れるか。
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キメラの膝が折れた。
右脚の接合部が完全に裂け、自分の体重を支えられなくなったのだ。よろめき、片膝をつく。立ち上がろうとするが、左脚の縫い目も裂けている。踏ん張れない。
それでも腕を振るった。地面を叩き、土砂を巻き上げ、届く範囲のすべてを壊そうとする。だが腕の軌道もまた狂っていた。空を切る拳が、自分の膝を打った。
全身の縫い目が裂け始めていた。
裂け目から肉が膨れ上がっている。成長が止まらない。接合された部位と元の体の間で、筋肉が引き裂き合っている。背中から骨が突き出し、肩の隆起が張り裂けそうに膨張している。
キメラが最後の咆哮を上げた。
それは怒りではなかった。苦痛ですらなかったかもしれない。ただ体が壊れていく中で、動くことを止められない何かが叫んでいた。
もう一方の膝も折れた。
巨体が地面に崩れ落ちた。月光草の群生地が押し潰され、青白い葉が散る。
キメラはまだ腕を動かそうとしていた。だが腕もまた裂けていた。指が開き、閉じられなくなっている。全身から肉が盛り上がり、自分の重さで起き上がれない。
アレクは剣を構えたまま、動かなかった。
止めを刺す必要はなかった。
キメラは自らの成長に押し潰されて、やがて動かなくなった。
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静かになった。
アレクは膝に手をつき、荒い息を吐いた。剣を杖がわりにして体を支える。立っているのが精一杯だった。
足元を見た。
月光草の青白い葉が、一面に広がっていた。キメラの体の周囲だけ踏み荒らされているが、斜面の大部分は無事だ。水路から引き込まれた沢の水に沿って、整然と植えられた列が続いている。
根ごと持ち去られたアリアの採取地の株が、ここにあった。
「アレクさん!」
声がした。斜面の下方から、人影が駆けてくる。
アリアだった。選鉱場の下方から斜面を駆け上がってくる。その下に、女性たちの姿が見えた。斜面の下端に固まって座っている。裏手の坑道は選鉱場の下方に開いていたのだ。アリアたちが先に脱出し、上方でキメラの咆哮と地響きを聞いて、ここまで登ってきたのだろう。
アリアが駆け寄り、アレクの左肩を見て顔をしかめた。
「傷が開いてる。座ってください」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです。座って」
有無を言わさぬ声だった。アレクは言われるままに腰を下ろした。アリアが背嚢から布と薬草を取り出し、手早く肩の傷を洗い、草を揉んで押し当てた。採取師の応急処置だ。手つきに迷いがない。
フィーアがいつの間にかアレクの膝の上に降りていた。
「無茶しすぎよ」
「そうですか」
「そうよ」
小さな手が、アレクの指をぽんと叩いた。
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傷の手当てが終わると、アリアが立ち上がり、斜面を見回した。
月光草の群生地を見つめている。しばらく、何も言わなかった。
採取師として、この量の月光草が何を意味するかは分かっているはずだ。根こそぎ持ち去られた自分の採取地。その株が、ここで大量に栽培されていた。自分が毎年通い、丁寧に間引きながら採取していた群生地を、あの男が力ずくで奪い、別の目的に使っていた。
「……これが、あの採取地の株ですね」
静かな声だった。それだけ言って口を閉じた。
フィーアが小声で言った。
「ねえ。これ、お仕事の依頼品よね」
「そうです」
「じゃあ、採らないの?」
アリアがアレクを見た。アレクが頷いた。
「採ります」
アリアが背嚢から採取用の道具を取り出した。プロの手つきで、素早く、丁寧に、月光草を摘み始めた。
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フォルタ村に戻ったのは、翌日の夕方だった。
女性たちを連れた一行が村の入口に現れた時、畑にいた男が鍬を取り落とした。それから走った。声を上げながら走った。
村中が沸いた。
五人の女性が戻った。名前を呼ぶ声。抱きしめる腕。泣き崩れる母親。
アレクは村の外れに立って、それを遠目に見ていた。
赤い手巾の夫が、妻の前に立っていた。何も言えずに立ち尽くしている。妻が一歩近づいた。夫が手巾を握りしめたまま、ゆっくりと妻を抱きしめた。
アレクはそれを見て、すぐに視線を外した。
残りの一五人の女性たちについては、村長のグレドスに事情を伝えた。それぞれの出身地へ帰す手配が必要だ。グレドスは顔を強張らせながらも頷いた。
ゴブリン被害の原因や、女性たちに何があったかは村には伝えなかった。
「ゴブリンの巣を潰しました。もう出なくなります」
それだけ言って、報酬を受け取った。
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翌朝、フォルタ村を発った。
村の出口で、見慣れない女が道端に座っていた。旅装に楽器を背負っている。吟遊詩人だろう。女は歌っていなかった。ただ弦を一本、指で弾いて、余韻を聴いていた。
アレクが通り過ぎる時、女がこちらを見た。何も言わなかった。口元がわずかに動いた気がしたが、それだけだった。
朝靄の中を歩く。アリアが背負い籠いっぱいの月光草を抱えて、アレクの隣を歩いていた。
「師匠が腰を抜かします」
アリアが呟いた。依頼の何倍もの量だ。
「それは良かった」
アレクはそれだけ答えて、歩き続けた。
フィーアが外套の襟元から顔を出した。
「ねえ。次の仕事は山じゃないのがいいわ」
「選べませんよ」
「選びなさいよ」
朝日が山の稜線から差し込んで、街道を金色に染めた。アレクは目を細め、光の中を歩いた。
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(第三話 了)




