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第二話 ゴブリン退治

---


 翌朝、まだ薄暗いうちにフォルタ村を出た。

 アレクは使い込んだ長剣を腰に帯び、小型の弓と矢筒を背負っている。左腕には小型の木製の盾。分厚い外套の下の革の鎧は、紐をいつもより一段きつく締めた。外套の襟元には、透明化したフィーアが潜んでいる。

 アリアは採取用の背負い籠を置き、代わりにロープと最低限の道具だけを詰めた背嚢を背負っていた。腰には煙管と火打ち石、それに山刀を一振り。採取師の仕事道具だが、今日はそれが別の役に立つかもしれなかった。


 ゴブリンの足跡は、フォルタ村の北東の森へ続いていた。

 森に入ると、空気が変わった。木々が密に生い茂り、朝日が地面まで届かない。湿った土の匂い。どこかで鳥が一声だけ鳴いて、すぐに黙った。

 アレクは足跡を読みながら進んだ。レンジャーとして身につけた技術だ。踏み荒らされた下草、折れた枝、地面に残る爪痕。足跡は一本道ではなく、何度も同じ経路を往復した跡が重なっている。獲物を探して出かけ、巣に戻る。その繰り返し。

 アリアも足跡の密度を見ていた。

 「この踏まれ方だと、少なくとも二〇体以上が同じ道を使っています」

 「ええ。それも頻繁に」

 足跡を追うアレクと、地形から先の見通しを立てるアリア。自然と分業になっていた。


 一時間ほど進むと、足跡に血の臭いが混じり始めた。

 家畜の骨が転がっている。肉は食い尽くされ、皮すら残っていない。そのすぐ先に、別の骨があった。衣服の切れ端がこびりついている。

 アリアが足を止めた。顔色は変わらなかったが、唇を引き結んでいた。

 アレクは骨を一瞥して先へ進んだ。足跡の密度がさらに上がっている。巣が近い。


---


 やがて、森が途切れた。

 山腹に、横穴が口を開けていた。

 自然の洞窟ではない。崩れかけた石組みが入口を縁取り、風化した梁の跡が残っている。古い鉱山だ。何十年も前に廃坑になったのだろう。入口の周囲には雑草が茂り、蔦が石組みを覆っている。

 だが入口の前に不自然なものがあった。木製の粗末な柵。そして松脂の入ったかがり火台が二つ。火は消えているが、松脂は新しい。

 ゴブリンの知能は高くはないが、低くもない。火を使い、道具を作り、簡単な命令には従える。だがこれは、ゴブリン自身の判断で設置したものではなさそうだった。

 「管理されていますね」

 アリアが低く言った。

 「ゴブリンがこれを作ったんじゃない。誰かが作らせたんだ」

 アレクの声から丁寧語が消えていた。


 入口の周辺に目を走らせた。柵の脇の茂みに、踏み荒らされた跡がある。見張りが座っていた場所だ。今はいない。

 「見張りが外に出ている。先にそちらを片づけます」

 アレクは茂みの裏に回り込んだ。アリアには岩陰に隠れるよう手で合図する。

 ほどなく、森の方から二体のゴブリンが現れた。小柄な体に、粗末な棍棒。夜の見張りから戻ってきたらしい。欠伸をしながら柵の方へ向かっている。ゴブリンの視力は暗い場所には強いが、明るい日中はむしろ鈍い。森の木陰に潜むアレクの姿には気づかなかった。

 一体目が柵の前を通り過ぎた瞬間、背後からアレクが踏み込んだ。長剣の一閃。声を上げる間もなく崩れ落ちる。二体目が振り返る。棍棒を振り上げるが、遅い。盾で受け、返す刀で仕留めた。

 死体を茂みの奥に引きずり込む。アリアが岩陰から出てきた。

 「見事ですね」

 「慣れています。こういうのは何度か」

 師匠と呼んだ元冒険者に教わった、最初の仕事。山に出たゴブリンを追い、巣を潰す。やり方は知っている。


---


 入口の前で準備をした。

 アレクはまず、仕留めたゴブリンの死体に目をやった。腰の小刀を抜き、ゴブリンの体液を布に取ろうとする。

 「何をしてるんですか」

 アリアが眉をひそめた。

 「臭いを塗ります。ゴブリンの巣に入るなら、人間の臭いは消した方がいい」

 「それは分かりますが……もっといい方法があります」

 アリアが背嚢から乾燥した草の束を取り出した。揉むと、青臭い匂いが広がる。

 「忌避草です。獣避けに使うものですが、人間の臭いも消せます。ゴブリンの体液よりはましでしょう」

 アレクは小刀を引いた。確かに、ゴブリンの臭いを全身に塗るのは気が進まなかった。

 「助かります」

 忌避草を手で揉み、体に擦りつけた。アリアも同じようにする。肌に触れるとひんやりとした清涼感があり、自分の体臭が草の匂いに紛れていくのが分かった。


 次に灯りだ。

 ゴブリンは暗闇に強い目を持つが、完全な暗視ではない。洞窟の中でもかがり火や松明を使う。人間の真似ができる程度には知恵がある。

 逆に言えば、坑道の奥には灯りがあるはずだ。だが入口付近の暗がりは、灯りなしでは進めない。

 アリアが背嚢から小さな灯りを出した。獣脂を浸した布を金属の筒に入れたもので、ごく弱い光しか出さない。

 「遠くからは見えない明るさです。採取で洞窟に入る時に使います」

 「自分は多少暗くても見えるので、先に行きます。灯りはアリアさんが」

 精霊の力を借りた目――インフラビジョン。微かな光でも捉えて輪郭を見る能力だ。精霊使いとしての技能の一つだが、アレクはそのことを口にしなかった。採取師に説明する必要はない。

 アリアは少し不思議そうな顔をしたが、追及しなかった。「分かりました」とだけ答える。

 準備を終え、二人は顔を見合わせた。アレクが頷き、先に立って坑道へ踏み込んだ。アリアが続く。


---


 坑道に入った。

 入口の光がすぐに届かなくなる。アレクは目を凝らした。インフラビジョンが捉えるのは微かな光の残照だ。完全な闇では効かないが、坑道の奥からかすかに灯りが漏れている。ゴブリンたちが使うかがり火だろう。それだけあれば輪郭は読める。

 アリアが背後で小さな灯りを掲げている。足元を照らす程度の弱い光。二人の間で役割が分かれた。アレクが前方の気配を読み、アリアが足元の安全を確認する。

 坑道は朽ちた木の支柱に支えられていた。壁面は粗い岩肌で、ところどころに錆びたトロッコのレールが残っている。足元には砂利と泥。そして、ゴブリンの糞尿と獣の臭い。忌避草の効果で自分たちの臭いは消えているが、向こうの臭いは容赦なく鼻を突いた。


 奥へ進むにつれて、坑道にゴブリンたちの痕跡が増えていった。壁に引っかいた跡。骨をかじった食べ残し。松脂のかがり火台が一定間隔で置かれている。火は消えているものもあるが、いくつかは小さく燃えていた。ゴブリンたちが日常的に使っている通路だ。

 坑道は分岐が多かった。いくつもの横坑が左右に枝分かれし、暗闇の中に消えている。

 巡回のゴブリンと遭遇した。三体が連れ立って坑道を歩いてくる。松明を一本持ち、だらだらと歩いている。巡回というよりは散歩に近い。

 アレクはアリアに手で合図して止まらせ、灯りを消させた。自分は横坑の陰に身を潜める。

 ゴブリンたちが通り過ぎる。最後尾の一体が少し遅れた。アレクが背後から音もなく近づき、一息で仕留める。残りの二体が気づいて振り返る前に、踏み込んで斬る。一体目。続けて二体目。

 死体を横坑に押し込んだ。アリアが灯りを点け直し、足音を消して追いついてくる。

 その後も二度、巡回と遭遇した。二体と四体。石を投げて一体を引き離し、横坑の陰で仕留める。残りがいぶかしんで来るところを、一体ずつ片づける。死体はすべて横坑に押し込んだ。

 三〇体の群れなら、巡回で消えた分に気づかれるまでに、できるだけ奥へ入りたかった。


 足場の悪い箇所があった。坑道の床が崩れ落ち、下の階層が覗いている。幅は二メルほど。跳び越えられなくはないが、着地で音が出る。

 アリアが壁面を見た。アレクも同じ場所を見ていたが、アリアの目はもう一歩先を読んでいた。

 「あの出っ張りにロープをかけてください。ここは脆いですが、壁際のこちらは堅い岩盤です」

 岩の質を見分ける速さが違う。アレクにも分かることだが、アリアは一目で判断する。毎日のようにこういう場所を歩いている人間の目だった。アレクがロープを使って静かに渡り、アリアが続いた。


---


 坑道が下へ下へと続いていた。

 空気が変わり始めた。冷たく、湿っていて、どこか甘い臭いが混じっている。そして壁面が変わった。粗い岩肌だったものが、いつの間にか加工された石組みになっている。石の表面に、古い文字が刻まれていた。

 アレクは足を止めて文字を見た。セージとして学んだ知識が反応する。

 エテルニアの古代文字だ。

 鉱山の奥に、エテルニア帝国時代の施設が接続している。帝国が鉱山を掘り進めた先に、何かを建てたのだ。

 アレクの表情が硬くなった。ここまでに仕留めたゴブリンは一一体。だが足跡の密度が明らかに上がっている。三〇体の群れにしては、通路が踏み固められすぎている。

 もっといる。

 フィーアが耳元で囁いた。

 「ねえ、奥から風が来てる。すごく広い空間があるわ」

 その直後だった。

 坑道の曲がり角の向こうから、重い足音が聞こえた。通常のゴブリンのものではない。

 アレクはアリアを壁際に押しやり、自分は曲がり角の陰に身を潜めた。

 現れたのは、ゴブリンの倍以上の体躯を持つ異形だった。腕が異様に発達し、肩から背中にかけて不自然な隆起がある。皮膚の色が通常のゴブリンとは違う――赤黒く、一部は硬化して鎧のようになっていた。

 改造されている。

 異形が曲がり角に差しかかった瞬間、アレクが踏み込んだ。長剣を横薙ぎに振るう。普通のゴブリンなら一撃で仕留められる斬撃だ。

 刃が異形の腕に当たり、弾かれた。硬化した皮膚が、剣を受け止めている。

 異形が咆哮した。狭い坑道に声が反響する。太い腕が振り下ろされる。アレクは身を低くして躱し、盾で受け流す。衝撃が腕に響いた。力が桁違いだ。

 だが動きは鈍い。体が大きい分、坑道の狭さが足枷になっている。それだけではない。接合された腕と元の体の動きが噛み合っていない。大振りになり、振り切ったあとの隙が大きい。

 アレクは低い姿勢のまま懐に入り、硬化していない腹部に剣を突き込んだ。異形がよろめく。さらに一歩踏み込み、喉元を斬り裂く。

 異形が崩れ落ちた。坑道の床が揺れた。

 アレクは剣の血を払いながら、倒した相手を見下ろした。

 「……こんなのが量産されているのか」

 フィーアが低く言った。

 「縫い跡があるわ。腕と肩の付け根。つぎはぎよ」

 外科的に何かを接合されている。自然にこうなったのではない。誰かが作った。


---


 坑道を抜けた先に、それはあった。

 巨大な竪坑の空洞だった。

 元は採掘場だったのだろう。吹き抜けの空間が上にも下にも続いている。天井は闇に消えて見えない。壁面に何層もの坑道が口を開け、階層を結ぶ木の階段や梯子が張り巡らされている。

 上層には木製の足場が組まれ、乾燥した薬草の山が積まれている。中層にはゴブリンたちが働く工房が広がり、下層は暗くて見通せなかった。

 だがアレクの目を釘付けにしたのは、空間の大きさではなかった。

 眼下に、ゴブリンたちがいた。

 百を超えていた。

 松脂のかがり火が等間隔に並び、薄暗い空間をぼんやりと照らしている。ゴブリンには暗闇に効く目があるが、完全な闇では見えない。だから洞窟の中でも灯りを使う。その灯りの下で、ゴブリンたちが――働いていた。

 石臼で何かを潰している者。資材を運搬している者。大きな石の桶で液体を煮ている者。統率された動きだった。声を上げる者はいない。命令に従って黙々と作業している。

 野生の群れではない。これは工房だ。

 中にはゴブリンとは思えない個体が混じっていた。腕が四本ある者。体が通常の三倍近い者。さっき坑道で仕留めたのと同じ、改造された個体だ。それが監督するように、通常のゴブリンたちの間を巡回している。

 フィーアが声を失った。

 「……何よ、これ」

 アリアが息を呑んだ。だが声は出さなかった。

 三〇体じゃない。三〇〇はいる。

 推測が根本から間違っていた。村を襲っていたのは、この巨大な群れのほんの一部に過ぎなかったのだ。

 アレクは岩陰から工房を見下ろしながら、考えた。

 正面突破は論外だ。だが三〇〇体を背後に残して奥に進むのも自殺行為。先に無力化するしかない。

 目が工房の中を走った。松脂のかがり火。乾燥した薬草の山。木製の構造物。可燃物は十分にある。だが火をつけたところで三〇〇体は倒せない。混乱はするが、逃げ場を探して暴れるだけだ。

 アリアの方を見た。

 アリアも同じものを見ていた。目が合った。


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 フィーアが偵察に出た。

 透明化したまま、工房の天井付近を飛ぶ。小さな体が闇に紛れ、ゴブリンたちの頭上を音もなく横切っていく。

 しばらくして戻ってきたフィーアが、アレクの耳元で報告した。声は抑えているが、早口だった。

 「三層になってるわ。上の層は木の足場と可燃物がたくさん。真ん中がこの工房。下の層の奥に柵で囲われた場所があって、人間がいる。女の人。二〇人くらい」

 アレクの目が細くなった。行方不明者だ。五人ではない。二〇人。

 「もっと奥に人間が一人。作業台に向かって何か書いてる。それと……壁の裏に何かいるわ。大きい。鎖の音がした」

 「脱出できるルートは」

 「坑道の分岐がいくつもあるわ。下層から裏手の坑道を抜ければ、外に出られそう」

 アレクは目を閉じた。

 最優先は女性たちの救出だ。三〇〇体を倒すのは不可能。だが混乱させることはできる。

 目を開けた。

 「作戦を変えます」

 アリアが振り向いた。

 「上層に火をつけます。木の足場と薬草の山がある。可燃物が多い上層が燃えれば、工房全体が混乱する」

 「……火事を起こすんですか」

 「かがり火の横の薬草に火が移れば、自然に見えます。松脂の樽が近ければなおいい」

 アリアの目がかがり火の配置を追った。しばらくの間、何かを計算していた。

 「あの距離なら松脂の樽にも火が回る。上層の構造は全部木製です。一度火がつけば止められない」

 「その間に、女性たちを逃がします」

 アリアが息を呑んだ。アレクが何を言おうとしているか、分かったのだ。

 「アリアさんとフィーアで下層に回ってください。女性たちを連れて裏手の坑道から外へ。フィーアがルートを案内します」

 「あなたは」

 「自分が囮をやります。上で暴れれば、ゴブリンの注意は上に集まる。脱出ルートにゴブリンが近づいたら弓で排除します」

 「一人でですか」

 「三〇〇体の相手をするわけじゃない。火が敵を追い散らして、自分は注意を引くだけです」

 言い切った声に、迷いはなかった。

 アリアが壁沿いの岩棚を指さした。

 「あの棚状の岩を伝えば、下に降りずに下層へ回れます」

 アレクには見えなかった道だ。崖の採取で鍛えた目が、暗がりの中に足場を見つけている。

 「分かりました。火が出たら、すぐに女性たちのところへ」

 フィーアがアリアの肩に降りた。小さな重みにアリアが一瞬だけ肩をすくめ、それからそっと手を添えた。

 「案内するわ。こっちよ」

 フィーアの声に、アリアが歩き始めた。壁沿いの細い岩棚に足をかけ、静かに、確実に移動していく。崖の採取と同じだ。足場の見極めは彼女の専門だった。


---


 アリアとフィーアが闇の中に消えた。

 アレクは一人で待った。

 二人が下層に到達するまでの時間を数えている。早すぎれば、火の混乱が救出に間に合う前にゴブリンが下層に逃げる。遅すぎれば、二人が危険に晒される。

 工房の音が下から聞こえてくる。石臼の回る音。液体が煮える音。ゴブリンたちの足音。時おり、改造された個体の低い唸り声。

 腰の剣に手をかけた。柄の革の感触を確かめる。弓の弦を指で弾いて張りを確認する。矢筒の中の矢を数えた。一二本。松脂を塗った布が三枚。

 十分に数えた。もう着いたはずだ。

 弓を手に取り、矢に布を巻きつけた。火打ち石を擦り、布に火を移す。小さな炎が矢先に灯った。

 深く息を吸う。

 上層の足場が見えた。松脂の樽が、かがり火のすぐ横に置かれている。乾燥した薬草の束が積まれた木の棚。火が移れば一気に燃え広がる。

 一本目を番えた。弦を引き絞る。

 放った。

 火矢が上層の松脂の樽の横に突き刺さった。布の炎が松脂に触れ、火が膨れ上がった。松脂の樽がごうと音を立てて燃え始め、周囲の木製の足場に火が移る。

 二本目。上層の反対側。薬草の山に命中した。乾燥した葉が白い煙を吐きながら炎を上げる。

 三本目。さらに奥の棚。

 上層が燃え始めた。

 ゴブリンたちから見れば、かがり火から薬草に引火した火事だ。上層の木製の足場に次々と火が回り、煙が竪坑の天井に向かって昇っていく。

 最初の悲鳴が上がった。

 ゴブリンたちが叫び始めた。作業を放り出し、走り回る。統率が崩壊した。火から逃げようとする者と、火を消そうとする者がぶつかり合い、パニックが工房全体に広がっていく。

 今だ。

 アレクは上層の高台に立ち上がった。姿を晒す。長剣を抜き、石壁に叩きつけた。

 甲高い金属音が、竪坑の空洞に反響した。

 無数の黄色い目が、一斉に上を向いた。

 「こっちだ」

 叫んだ。声が竪坑に響き渡る。

 ゴブリンたちの注意が上層に集中した。火と、立ちはだかる人間。それだけで、下層への関心は消えた。

 梯子を登ってくるゴブリンの先頭を、弓で射落とした。一体、二体。矢は惜しめない。

 視界の端で、下層の坑道口に向かうゴブリンの影が見えた。脱出ルートに近い。弓を向け、射った。ゴブリンが転がり、坑道口の手前で動かなくなった。


---


 下層では、アリアが走っていた。

 上層の火災でゴブリンたちが騒ぎ始めた直後に動き出した。壁沿いの岩棚を降り、暗い下層の坑道に入る。フィーアが前方を飛び、ルートを指示する。

 「次の角を右。ゴブリンが二体いるけど、上を見てるわ。今なら通れる」

 アリアは足音を殺して角を曲がった。二体のゴブリンが天井の方を見上げて騒いでいる。火事に気を取られている。背後を通り過ぎても、気づかなかった。

 粗末な木の柵が見えた。家畜小屋と同じ造りだ。柵の中に藁が敷かれ、水桶が置かれている。

 中に女性たちがいた。

 二〇人近い。痩せて、髪は乱れ、衣服はぼろぼろだった。壁際にうずくまっている者。膝を抱えて前後に揺れている者。天井の騒ぎにも反応が薄い。虚ろな目がこちらを見ているが、見ていない。

 フォルタ村の五人だけではなかった。他所から攫われた者がはるかに多い。何をされたかは――柵の中の様子を見れば、分かった。

 アリアが一瞬、口元を手で押さえた。

 それから、手を離した。

 「逃げます。歩ける人は立ってください」

 声は震えていなかった。

 反応する者はわずかだった。だがアリアは続けた。柵の留め金を外し、扉を開ける。中に入り、一番近くにいた女性の手を取った。

 「立てますか。外に出ます」

 女性の目に、かすかな焦点が戻った。

 フィーアが透明化を解いた。

 小さな妖精が、宙に浮いて全員の前に姿を現す。異常な光景だった。だが異常な状況の中では、むしろそれが救いになった。

 「大丈夫。逃げられるわ。私が道を案内する。ついてきて」

 フィーアの声に、何人かの女性が顔を上げた。

 体力が残っている女性は五、六人いた。アリアが通路に転がっていたゴブリンの棍棒を拾い、渡した。

 「持っていてください。ゴブリンの力は子供程度です。一対一なら負けません」

 棍棒を握った手が、わずかに震えていた。だが、握り返した。

 隊列が組まれた。先頭にフィーア。道を知っている妖精が案内する。中央に女性たち。体力のある者が棍棒を持ち、歩けない者を支える。殿にアリア。山刀を抜いていた。


---


 脱出ルートの途中で、ゴブリンと鉢合わせた。

 先頭の坑道から、逃げ惑う三体が飛び出してきた。火事のパニックで方向を見失ったのだろう。女性たちの列と鉢合わせた瞬間、双方が固まった。

 先頭にいた女性が、棍棒を振り下ろした。

 一体目のゴブリンが床に叩きつけられた。隣の女性がもう一体を殴り倒す。三体目が踵を返して逃げ出した。

 棍棒を振った女性の手が震えていた。だが、もう一度握り直した。

 殿のアリアにも追ってくるゴブリンが来た。火事に紛れて下層に逃げ込んできた個体だ。アリアが山刀で斬りつけ、狭い坑道の壁に叩きつけた。二体目が飛びかかってくる。身をかわし、脚を払い、倒れたところを踏みつけた。採取師の足腰は、こういう場面でも揺るがなかった。


---


 上層では、火が広がりすぎていた。

 アレクは弓で梯子を登ってくるゴブリンを狙い撃ちにしていたが、煙が上層に充満し始めていた。目が霞む。呼吸が苦しい。

 上層にはもう留まれない。

 矢は残り五本。ロープを掴み、中層へ降りた。着地した瞬間、目の前にゴブリンキメラが立っていた。

 改造された大型の個体が、火災の混乱の中でアレクを待ち構えていた。いや――火に追われて下層に降りてきたのだ。目が赤く充血している。怒っている。

 太い腕が横薙ぎに振るわれた。アレクは身を沈めて躱す。風圧が髪を撫でた。振り切ったキメラの脇が一瞬だけ開く。踏み込み、関節部を斬る。硬化していない肘の裏側。刃が深く入った。

 キメラが咆哮する。もう一体が坑道の奥から走ってきた。

 二体同時は厳しい。

 弓と矢筒を放り捨てた。盾も外す。身軽になる。長剣一本。

 スピード勝負だ。

 一体目のキメラが拳を叩きつけてきた。横に跳ぶ。拳が床の石を砕く。二体目が背後から襲いかかる。振り向きざまに斬り上げ、顎を裂く。一体目に戻る。大振りの腕を潜り、脇腹の硬化していない部分に剣を突き込む。引き抜く。

 一体目が崩れ落ちた。二体目が飛びかかってくる。避けきれない。左肩に爪が食い込んだ。痛みを噛み殺し、至近距離から喉を突く。

 二体目が倒れた。

 肩の傷から血が流れている。深くはないが、動きに響く。

 だが遠くの坑道に、人影が動いていた。女性たちの列だ。フィーアの小さな光が先頭で揺れている。殿のアリアが振り返り、一瞬だけこちらを見た。

 見えている。逃がせている。

 アレクはそれを確認して、さらに奥へ――最深部に向かった。


---


 鉱山の最下層に降りた。

 エテルニア帝国の実験施設が、そのまま残っていた。竪坑の吹き抜けに面した広間だ。上を見上げれば、何層もの坑道が壁面に口を開けている。上層からの煙が天井に薄く漂っている。

 広間には石の作業台が並んでいた。月光草の抽出液と思われる青白い瓶。外科用の刃物。縫合用の針と糸。血のこびりついた革のエプロン。壁には短弓と矢筒が掛かっている。ゴブリンに持たせていたものか、護衛用か。床には古代文字で描かれた巨大な術式魔法陣が残っている。

 広間の奥に、鎖で繋がれた巨大な何かがあった。布で覆われている。だが布の下で、何かが脈打っていた。生きている。


 作業台の前から、声がした。

 「工房を燃やしたのはお前か」

 ローブ姿の男が、書き物をしながら振り向きもせずに言った。

 清潔感のある紺のローブ。白髪交じりの黒髪。常に薄い革手袋をしている。四〇代後半だろう。振り向いた顔は、穏やかだった。目が澄んでいる。笑みすら浮かべている。

 悪人には、見えなかった。

 「七ヶ月の研究が台無しだ。まあいい。素材はまた集められる」

 怒りではなかった。ただ事実を述べている。煙が天井を這い、上層では火が燃え続けている。それすら、この男にとっては些事であるかのようだった。

 「ちょうど良かった。新しい素体が欲しかったんだ。若い男は手に入りにくくてな」

 「あなたが、ここの主ですか」

 「ラヴェルだ。見ての通り、研究者だよ」

 穏やかな口調だった。狂気はない。怒りもない。ただ事実を述べている。

 「古代エテルニアの術式はほぼ解読できた。あとは素体の安定供給だけだ。もう少しすれば、農村への略奪も不要になる。効率的な繁殖の術式が完成すればな」

 人を「素体」と呼ぶことに、一片の躊躇もなかった。

 アレクは剣を抜いた。

 「あの女性たちを返してもらいます」

 ラヴェルは少し首を傾げた。不思議そうな顔だった。

 「今使っているものを返せと言われてもな。代わりを用意してくれるなら考えるが」

 アレクの目から、温和さが消えた。

 「もう逃がしました」

 確証はなかった。脱出する列を遠目に見ただけだ。だが声には迷いを混ぜなかった。

 ラヴェルの表情が、初めてわずかに動いた。


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(第二話 了)


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