第一話 薬草取り
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街の冒険者向け掲示板に貼られた羊皮紙は、端がわずかに丸まっていた。貼られてからそう日が経っていないのに、何人かが手に取っては戻したのだろう。
『月光草の採取護衛。報酬は銀貨三〇枚。二泊三日の山行。危険な岩場あり。腕に覚えのある方』
アレクは羊皮紙を剥がし、裏に書かれた待ち合わせ場所を確認した。街の東門前、朝の第二鐘。
月光草といえば傷薬の素材としてはかなりの高級品だ。だが二泊三日で銀貨三〇枚か。山の護衛としては安い方だ。危険な岩場とあるから、引き受け手がいないのだろう。
アレクは十七歳の冒険者だった。アルムス山脈の麓で羊飼いの息子として育ち、一年前に山を下りた。黒い髪に黒い瞳。使い込んだ長剣を腰に帯び、分厚い外套の下には革の鎧を着ている。温和な顔立ちだが、目だけは山で育った人間のそれだった。遠くを見ることに慣れている目だ。
外套の襟元で、小さな声がした。
「どんな仕事?」
エルフ語だった。アレクは視線を動かさずに答える。
「山の護衛です」
「ふーん」
手のひらほどの重さが、鎖骨のあたりでもぞりと動いた。妖精のフィーアが姿勢を変えたらしい。手のひらに乗るほどの小さな妖精で、普段は透明化してアレクの外套の中に潜んでいる。傍目からは外套がわずかに膨らんでいるだけだ。
「あの紙、何て書いてあったの?」
「今言った通りです」
「報酬は?」
「銀貨三〇枚」
「……微妙ね」
「黙っていてください」
フィーアは黙らなかった。
「三日でしょ? 宿と食事を引いたら残らないじゃない」
「仕事です」
「あなた、そればっかり」
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翌朝、東門の前に立っていたのは、日焼けした若い女性だった。二〇代前半だろう。
短くまとめた髪。腕と脚の筋が締まっている。背中には大型の革製の背負い籠を負い、腰には使い込んだハーネスが巻かれていた。ハーネスには金具とカラビナがいくつもぶら下がり、腰の横には巻いたロープが見える。採取師の装備だ。しかも崖を降りる前提の。
女性はアレクを見て、少し間を置いた。視線が顔から足元まで降りて、また戻る。
「護衛の仕事は初めてですか」
「いいえ。何度か経験があります」
「……そうですか」
思ったより若い、と顔に書いてある。だがそれ以上は聞かなかった。
「アリアです。薬草の採取師をしています」
「アレクです。よろしくお願いします」
アリアが頷き、それから仕事の説明を始めた。
「今回採りに行くのは月光草です。ご存知ですか」
「名前は知っています。実物は見たことがありません」
「岩の割れ目にしか生えない薬草です。傷薬の素材としてはかなりの高級品で、師匠の調薬に必要なんですが……自生地が限られていて、採れる場所は断崖の中腹になります」
アレクは黙って聞いていた。
「目的地はここから丸一日ほど山に入った先です。途中までは街道ですが、山に入ってからは道らしい道がありません。岩場の崖を降りての採取になるので、その間の護衛が必要です。蜂や鷹が大型化していて、採取中に手が塞がると対処できません」
「山岳地帯になりますか」
「はい。標高はそれなりに上がります。足場も悪い場所が多いですが……」
「大丈夫です。自分はアルムス山脈の出身なので、山には慣れています」
アリアの目がわずかに変わった。アルムス山脈といえば大陸有数の高山地帯だ。そこで育ったというなら、足場の心配はいらない。
「それは助かります。では、採取中は私の代わりに周囲を見ていてください。それだけです」
背負い籠の紐を締め直し、アリアはもう歩き出していた。
外套の中で、フィーアがエルフ語で囁く。
「あの人、あなたが若いの気にしてたわよ」
「分かっています」
「怒ってるの?」
「黙っていてください」
「三回目よ、それ」
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街を出ると、なだらかな丘陵地帯が広がっていた。
麦畑の間を縫うように街道が続いている。春の終わりの日差しが柔らかく、風が麦の穂を揺らしていた。街道沿いには農家の屋根が点々と見え、荷車を引く農夫とすれ違う。のどかな景色だった。
アリアは街道では普通の旅人と変わらない歩き方をしていた。背筋は伸びているが、力みはない。
「アレクさんは、冒険者になって長いんですか」
不意にアリアが聞いた。道中の世間話だ。
「一年くらいです」
「一年……」
「山を下りて、それからこの仕事を」
「アルムス山脈の羊飼いでしたか」
「ええ。父が羊飼いで、自分も一五まではそうでした」
アリアは少し間を置いた。羊飼いが剣を帯びて冒険者になるのは、よくある話ではない。
「なぜ冒険者に?」
アレクは少し考えてから答えた。
「山の向こうに何があるか、知りたくなったんです」
嘘ではなかった。ただ、それだけでもなかった。
「……分かる気がします」
アリアが小さく頷いた。自分も山に入る仕事を選んだ人間だ。山の向こうを見たい気持ちは、分かるのだろう。
街道が農村地帯を抜けると、地形が変わり始めた。
道の両側に木立が増え、なだらかだった丘が次第に急になっていく。山裾の集落を通り過ぎると、街道は森の中へ入った。木漏れ日が道に斑を落とし、空気がひんやりと変わる。鳥の声が近くなった。
「この先から山道に入ります。街道はここまでです」
アリアが立ち止まり、分岐の道標を確認した。文字の半分は苔に覆われている。
「獣道みたいなものですか」
「それ以下です。目印を知らなければ迷います」
アリアが先に立ち、森の中の細い道へ踏み込んでいった。
山道に入ると、アリアの歩調が目に見えて変わった。
足場が悪くなるほど動きに無駄がなくなる。岩を踏む位置、枝を避ける角度、体重の移し方。考えてやっているのではなく、体が覚えている動きだった。
アレクは半歩後ろを歩きながら、その足運びを見ていた。山で育った目には、この女性が山の人間だということがすぐに分かった。森の中でこそ本領を発揮する人間だ。
道は次第に高度を上げていった。広葉樹の森が針葉樹に変わり、木々の間から遠くの峰が見え始める。振り返ると、さっきまでいた農村地帯が遥か下に広がっていた。麦畑の緑と、点在する家々の赤い屋根。その向こうに街の輪郭がかすんでいる。
「いい眺めですね」
アレクが足を止めて振り返った。
「天気が良ければ、もっと奥の峰まで見えます」
アリアも一瞬だけ足を止めて景色を見た。それからすぐに前を向く。
「師匠が言うには、昔は低地にも月光草が生えていたそうです。獣や虫に食い尽くされて崖だけに残ったと」
「何に食べられるんですか」
「色々と。この辺りにも居ます。明日になれば分かりますよ」
意味ありげな言い方だった。
山の中腹まで登った頃、陽が傾き始めた。木々の間を抜ける風が冷たくなり、影が長くなっていく。
「今日はここで野営しましょう。沢が近いです」
アリアが歩みを止めた場所は、大きな岩の陰にある開けた平地だった。風よけになる岩壁と、水場が近い。野営には理想的だ。何度もここを使っているのだろう。地面には古い焚き火の跡が残っていた。
アレクが周囲を見回す。上を見上げると、岩壁の向こうに夕焼けが広がっていた。茜色が山の稜線を縁取り、空の高いところはまだ薄い青を残している。谷の向こうに連なる山々の影が、墨を流したように重なり合っていた。
「きれいなところですね」
「この場所が好きで、毎年ここで泊まります」
アリアが荷を下ろしながら答えた。珍しく、少しだけ声が柔らかかった。
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アリアが手際よく焚き火を起こした。乾いた枝を組む手つきに迷いがない。火が安定すると、背嚢から保存食を出し、沢の水で簡単な汁物を作り始めた。
アレクも自分の荷から干し肉と堅パンを出した。二人で焚き火を挟み、静かな夕食だった。
山の夜は早い。日が落ちると、焚き火の明かりだけが周囲を照らした。虫の声と、沢の水音。木々の梢を渡る風の音。
食事を終えると、アリアが背嚢から小さな革袋を取り出した。栓を抜くと、甘い果実の香りが漂った。
「果実酒です。よければどうぞ」
「いただきます」
アレクが一口もらう。甘さの奥にほどよい酸味がある。山歩きの後の疲れた体に沁みた。
「お酒は好きですか?」
「嫌いではないです。ただ、あまり強くはありません」
「私もです。でも山の夜は、これがないと」
アリアが小さく笑った。初めて見る笑顔だった。仕事の顔ではない、ただの二〇代の女性の顔。
「アレクさんは、アルムスのどのあたりですか」
「東の麓です。村というほどの集落でもないところで」
「羊はどのくらい?」
「うちは六〇頭ほどでした。父と母と自分の三人で」
「にぎやかそうですね」
「ええ。山の暮らしは静かですが、退屈はしませんでした」
アレクは少し懐かしそうに目を細めた。
「近くに元冒険者の方がいまして。引退して山に住んでいた人なんですが、子供の頃からいろいろと教えてもらったんです。剣の振り方とか、野営の仕方とか」
「それで冒険者に」
「その人と一緒にゴブリン退治をしたのが最初でした。山に出たゴブリンを追って、二人で巣を潰して。それで、こういう仕事もあるのかと」
「師匠のような人ですね」
「そうかもしれません」
焚き火が爆ぜた。アレクは薪を一本足して、火の勢いを整えた。
「六〇頭の羊を山で追っていたなら、足腰が強いのは納得です。それで、明日の採取地のことですが――」
「はい」
「崖に着いたら、私がハーネスで降ります。ロープの確保をお願いします。それと、崖の周囲に蜂がいます。犬くらいの大きさの」
「犬くらい、ですか」
「月光草を食べて大型化した蜂です。煙で落ち着かせますので、手を出さないでください。それから鷹も大きいです。蜂を狙って降りてくるので、そちらの対処はお任せします」
「分かりました」
アリアは細かく段取りを説明した。崖の構造、ロープの扱い方、緊急時の合図。プロの段取りだった。質問にはすべて的確に答える。アレクはその説明を聞きながら、この女性が信頼に足る人間だと確信していた。
革袋の栓を戻し、アリアが一息ついた頃だった。
焚き火の向こう側――アレクが脱いで置いていった外套の襟元が、もぞりと動いた。
アリアの手が止まった。
外套の隙間から、小さな顔が半分だけ覗いた。手のひらに収まるほどの少女だった。透明な羽根が背中に見える。果実酒の甘い残り香に、小さな鼻がひくひくと動いていた。
目が合った。
沈黙が落ちる。焚き火の爆ぜる音だけが響く。
アリアは声を上げなかった。山で長く過ごす人間は、見えないものに騒がない。
「……やっぱり」
静かに言った。
「何かいると思っていました。道中、ときどき外套のあたりから気配がしていたので」
小さな少女は観念したように、外套の中から全身を出した。一四歳前後に見える美少女の姿。ただし手のひらサイズの。透明な羽根が焚き火の光を受けて、淡く虹色に光った。
少女はアリアをじっと見つめ、小さく首を傾げた。何かを判断するように。
それから――人間の言葉で言った。
「……一口ちょうだい」
アリアが二度目の驚きに見舞われた。妖精がいたこと自体よりも、人間語を話したことに。手のひらサイズの妖精は珍しくない。山奥では見かけることもある。だが人間語を操る妖精は、話に聞いたことすらなかった。
少女は答えを待たず、ふわりと飛んで革袋の縁に取りついた。小さな両手でしっかりと縁を掴み、体を傾けて一口。
「ん、おいしい」
満足げに頬を緩めた。
沢から水を汲んで戻ってきたアレクが、焚き火の前の光景を見て足を止めた。果実酒の革袋の縁にぶら下がる妖精と、それを呆然と見つめる依頼人。
「……フィーア」
低い声だった。
フィーアと呼ばれた妖精は、悪びれもせずにアレクを見上げた。
「だってこの人、悪い人じゃないでしょ」
アレクが深い溜息をついた。黒い瞳が一瞬だけ天を仰ぐ。
それからアリアに向き直り、頭を下げた。
「すみません。隠していて」
「……いえ」
「人間語を話せる妖精は珍しいんです。金貨百枚の値がつく。内緒にしていただけますか」
アリアは頷いた。それだけだった。問い詰めも、驚きの続きもない。知ったことは黙っておく。山の人間の流儀だ。
フィーアがアレクの肩に飛び乗り、得意げに言った。
「ほらね。いい人でしょ」
「それを決めるのはあなたではないでしょう」
「いいじゃない。もう出ちゃったんだし」
アレクはもう一度溜息をついた。
三人で焚き火を囲む形になった。フィーアはいつの間にかアリアの肩に腰を下ろし、興味深そうにあたりを見回している。
「ねえ、あなたお名前は?」
「アリアです」
「アリア。いい名前ね。私はフィーア。よろしく」
「……よろしくお願いします」
妖精に敬語を使うべきかどうか、アリアは一瞬だけ迷ったようだった。フィーアが笑う。
「堅くならなくていいわよ。ね、それよりもう一口もらっていい?」
「フィーア」
アレクがたしなめた。フィーアは聞こえないふりをして、もう革袋の縁に取りついていた。
アリアの口元がかすかに緩んだ。
夜が更けるにつれ、焚き火の前の空気が和らいでいった。フィーアという存在が、二人の間にあった仕事上の距離を縮めたのかもしれない。
アリアが月光草の乾燥に使う布を広げながら、明日の説明の続きをした。
「採取した月光草は、すぐに乾燥処理をします。放っておくと薬効が落ちるので」
「どんな薬効があるんですか」
アレクが聞いた。
「適量なら傷の治りを早めます。師匠が欲しがっているのは、重病人のためです」
「大量に摂ると?」
「毒になります」
アリアの声が少し硬くなった。
「成長を促す力が強すぎるんです。適量なら傷ついた組織の再生を助けますが、大量に摂ると成長が暴走する。体が壊れます」
「薬と毒は紙一重、ですか」
「師匠の口癖です」
フィーアが小さな顎に手を当てた。
「怖い草ね」
「だからこそ、扱える人間が限られるんです。師匠は七〇を超えていますが、まだ現役で調薬をしています。腰が悪くなって山には入れなくなりましたが」
「それで、あなたが代わりに」
「はい。毎年、この時期にこの山へ来ています」
アリアが空を見上げた。満天の星だった。山の夜空は、街では見られないほどの星の数だ。
「明日、天気が持てばいいんですが」
「持ちます。風の向きと雲の形を見る限りは」
アレクが答えると、アリアが少し驚いた顔をした。
「分かるんですか」
「山育ちなので。天気を読めないと、羊を死なせます」
「……なるほど」
アリアが小さく笑った。二度目の笑顔だった。
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翌朝、夜明けとともに出発した。
山道はさらに険しくなり、木々が低くなっていく。足元は岩がむき出しになり、道というものがほとんどなくなった。アリアが目印にしている岩の傷や木の幹の印を辿りながら進む。
やがて樹林帯を抜けた。
眼前に広がったのは、切り立った断崖の連なりだった。灰色の岩壁が朝日を受けて白く光り、その合間を風が吹き抜けていく。谷底は霧に沈んで見えない。崖の上には青空が広がり、鷹が一羽、遠くで円を描いていた。
「ここが採取地です」
アリアが足を止めた。
崖に近づくと、低い羽音が聞こえ始めた。
崖の周囲を、巨大な蜂が飛んでいた。犬ほどの大きさがある。黒と黄の縞模様が、朝の光に鈍く光っている。三匹。いや、岩陰にもう一匹いる。
昨夜聞いた通りだったが、実物は聞くのと見るのとでは違う。アレクの手が反射的に腰の剣にかかった。
「触らないでください」
アリアの声は静かだったが、有無を言わせなかった。
「刺激しなければ襲ってきません」
背嚢から小さな煙管を取り出し、火打ち石で手早く火を入れた。乾燥させた草の束に火が移り、白い煙がゆっくりと立ち上る。アリアが煙管を高く掲げると、蜂たちの動きが緩やかになり、やがて一匹、また一匹と崖の上方へ飛び去っていった。
「昨日言った通りです。月光草を長年食べた蜂が大型化している。煙で落ち着かせます」
慣れた手つきだった。アレクは剣から手を離した。蜂の扱いは、この女性の方がはるかに詳しい。
採取地は断崖の中腹だった。
アリアがハーネスを装着し、岩に打ち込まれた古い鉄杭にロープを通す。鉄杭は錆びているが、アリアが体重をかけて確認する。何度もここに来ているのだろう。動作に迷いがない。
「確保をお願いします」
ロープの端をアレクに渡した。アレクが両手でしっかりと握り、足場を確認して踏ん張る。アリアは崖の縁に立ち、躊躇なく体を後ろに倒した。ロープが張る。アリアの体が崖面に沿って降りていく。
見事だった。岩壁に足をかける位置、体の振り方、ロープの送り方。すべてが滑らかで、恐怖の欠片もない。これが彼女の日常なのだ。
アレクは足を踏ん張り、ロープを確保しながら周囲に目を配った。蜂はまだ遠くを飛んでいる。風は穏やかだ。
影が落ちたのは、その時だった。
上空から急降下してくる何かがあった。翼を広げると三メル以上ある巨大な鷹だ。蜂を狙って降りてきたのだろうが、崖面にぶら下がるアリアの姿にも気づいたらしい。鷹の軌道がわずかにぶれた。
アレクは左手だけでロープを握り、右手で背中の小型の弓を引き抜いた。矢を番える。狙いは鷹の翼の付け根のやや前方――当てるつもりはない。進路上に矢を通す。
弦が鳴った。矢が鷹の鼻先を掠めるように飛ぶ。鷹は翼を大きく煽って向きを変え、谷の向こうへ飛び去った。
アレクは弓を背に戻し、両手でロープを握り直した。
しばらくして、ロープに合図の振動が伝わった。引き上げにかかる。
崖の縁からアリアが這い上がってきた。背負い籠には、わずかだが銀色に光る草が入っている。月光草だ。薄い葉が日の光を受けて、かすかに青白く輝いていた。
「助かりました」
短い一言だった。崖の下から、鷹のことは見えていたらしい。
「あの鳥も大型化してるんですか」
「蜂を食べ続けた結果です。この辺りの鷹は昔からそうなっている」
月光草を食べた蜂が大きくなり、その蜂を食べた鷹も大きくなる。山の生態系が、一つの草を起点にして歪んでいた。
だが、アリアの表情が晴れなかった。
ハーネスを外しながら、採取地の岩の割れ目を一つずつ確認している。膝をついて岩肌に顔を近づけ、指でなぞっている。
「……おかしいです」
声の調子が変わっていた。
「去年まであった株がほぼ消えています。自然にはこうならない」
アレクが隣にしゃがんだ。割れ目の中に、根が引き抜かれた跡が残っていた。土ごと丁寧にえぐり取られている。
「根から丁寧に抜いている――採取ではなく移植のやり方です」
アリアの声に怒りの色はまだなかった。ただ事実を述べている。だがその目は、岩肌の傷跡から離れなかった。
収穫はわずかだった。背負い籠の底に、ひと握りほどの月光草が横たわっているだけだ。
「師匠に頼まれた分には、とても足りません」
アリアが立ち上がり、崖の向こうの山並みを見つめた。風が短い髪を揺らした。
「……別の採取地を当たるしかないかもしれません」
その顔には、プロとしての怒りが静かに滲んでいた。根ごと取るなんて同業者の風上にも置けない。採取師なら株を残して翌年に繋げるのが当たり前だ。何十年もかけて師匠が守ってきた採取地が、根こそぎ荒らされている。
アレクは荒らされた岩場を一度見てから、黙って歩き始めた。
山を下りる道すがら、フィーアが外套の中からエルフ語で囁いた。
「ねえ、根ごと持っていったのよね。それって栽培するためじゃないの?」
アレクはアリアに聞こえるよう、人間語に切り替えた。
「フィーアが言っているんですが、根ごと移植したということは、誰かがどこかで栽培しようとしているんじゃないかと」
アリアが足を止めた。少し考え込む。
「……確かに。移植の抜き方でした。根を傷つけないように、土ごと」
フィーアが外套の襟元から顔を半分出した。人間語で言う。
「じゃあ誰かが、どこかで育てようとしてるのよ」
「ですが、月光草は崖の割れ目という特殊な環境でしか育たないはずです。それを別の場所で育てられるとは……」
アリアは首を振った。腑に落ちない顔だった。
謎は解けないまま、三人は山を下った。
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午後になって、山裾の集落に着いた。
ルーネ村と呼ばれる小さな農村だ。十数軒の家が山道沿いに並び、畑と牧草地が緩やかな斜面に広がっている。のどかな山村だった。
フィーアはアレクの外套の中に隠れ、透明化している。村人の前では姿を見せない。
アリアが村の雑貨屋で地図を広げ、次の採取地を探していた。表情が硬い。
「もっと奥地まで入るか、別の山を当たるか……。この山脈の東側に心当たりがもう一箇所ありますが、片道で丸二日かかります」
「日数が足りますか」
「ぎりぎりです。でも師匠が待っているので……」
その時、村の通りを男が走ってきた。息を切らしている。雑貨屋の主人に向かって叫んだ。
「隣のフォルタ村から使いが来た! ゴブリンが出て、若い女が何人も行方不明になっているそうだ!」
雑貨屋の主人が顔色を変えた。周囲にいた村人たちにもざわめきが広がる。
アリアが地図に目を落としたまま呟いた。
「フォルタ村のあたりには山の採取地がいくつかあります……」
それから顔を上げ、アレクを見た。
「契約を解除します。護衛の仕事はここまでで結構です。そういう仕事をなさってください」
アレクが立ち上がりかけると、アリアも地図を畳んだ。
「私も行きます」
「……なぜですか」
「ゴブリンがこの山脈に居座る限り、あのあたりの採取地はすべて使えなくなります。女の私が山に近づけなくなります」
淡々とした口調だった。感傷でも義侠心でもない。仕事の話をしている。
アレクは少し間を置いてから、「分かりました」とだけ言った。
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ルーネ村からフォルタ村までは半日の山道だった。
山間の道を歩くにつれて、景色が変わっていった。最初は牧草地の間を抜ける穏やかな道だったが、次第に人の手が入っていない荒れた雰囲気になっていく。
道すがら、荒らされた畑の跡が目に入った。柵が壊されている。家畜の骨が散らばっていた。肉は食い尽くされ、骨だけが日に晒されている。ゴブリンの仕業だと一目で分かった。
アリアが足跡の密度を見ながら呟いた。
「数が多すぎます。普通の群れじゃない」
外套の中から、フィーアの小声がした。アリアにも聞こえる程度の声で。
「ねえ、この荒らし方、組織的よ。手当たり次第じゃない」
昨晩フィーアの存在を知って以来、アリアはこの小さな声にも動じなくなっていた。口元がわずかに緩んだのは、妖精の観察眼に感心したのか、それとも外套の中から声が聞こえてくるという状況がおかしかったのか。
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フォルタ村は、山間の谷あいに広がる農村だった。ルーネ村よりも大きく、三〇軒ほどの家がある。だが人通りが少ない。畑に出ている者も、どこか落ち着きがなかった。子供の姿がほとんど見えない。家の中に入れているのだろう。
村の集会所に通された。
村長のグレドスという男は五〇代で、痩せた体格だが目に強さがあった。アレクとアリアを見て、一瞬だけ表情が動いた。冒険者の若さに不安を覚え、それでも藁にもすがりたいという顔だった。
「三週間で若い女が五人、行方不明になっています」
グレドスの声は抑えられていたが、指先がわずかに震えていた。
「家畜の被害も増えています。夜になると畑が荒らされる。足跡からゴブリンだと分かっているのですが、退治を頼める冒険者がいないんです」
「断られたんですか」
「報酬が安いと。うちは裕福な村ではありません」
アレクは頷き、村の外に出た。
柵の周囲、畑の縁、森との境目。足跡を丹念に読んでいく。レンジャーとして身につけた技術だ。足跡の深さ、歩幅、重なり方。土の上に残された情報を一つずつ拾い上げる。
三〇体前後。普通のゴブリンの群れなら多くて二〇匹だから、それでも異常に多い。だが足跡はすべて森の同じ方角から来て、同じ方角に戻っている。巣の場所は絞れる。
外套の中から、フィーアがエルフ語で言った。
「三〇もいるの? 一人で行く気?」
「巣を見つけて叩きます。正面からやり合うつもりはありません」
「……あなたの『つもりはない』は、大体そうなるのよね」
アレクは答えなかった。
集会所に戻ると、村長の隣にもう一人、男が座っていた。
二〇代後半だろう。日に焼けた農夫の手が、膝の上で赤い手巾を握りしめていた。手巾の布地はすり切れかけている。何度も何度も握り直したのだろう。
グレドスが小さく言った。
「最初に消えた者の夫です」
男はアレクを見なかった。俯いたまま、赤い手巾を握っている。言葉はなかった。
アレクはその手を一瞬だけ見て、視線を村長に戻した。
「引き受けます」
グレドスが目を見開いた。
「……引き受けてくださるのですか」
「ゴブリンの巣を潰します。行方不明の五人も探します。報酬は村が出せる分で構いません」
アリアが隣で立っていた。何も言わなかった。ただそこにいた。
赤い手巾の男が、初めて顔を上げた。目が赤かった。何か言おうとして、言えなかった。唇が震えただけだった。
アレクは立ち上がり、集会所の戸口に向かった。振り返らなかった。
外に出ると、山の空気が冷たかった。日が傾き始めている。山々の稜線が夕暮れの空に黒く浮かんでいた。
アリアが後ろから追いついてきた。
「明日、山に入りますか」
「ええ」
「道案内は私がします。あの方角の山なら、地形に覚えがあります」
アレクは頷いた。
外套の中で、フィーアが何も言わずに、アレクの鎖骨のあたりにもたれかかった。小さな体温が、外套越しにかすかに伝わった。
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(第一話 了)




