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2話

 ワルツの旋律が会場を優雅に包み込む中、ノクターンはぎこちない手つきでアナスタシアの手を取った。指先は細く、しなやかで、どこか吸い寄せられるような力を秘めていた。


「さあ、こちらへ……リードはお任せくださいね」


 アナスタシアが軽やかに一歩踏み出すと、ノクターンはわずかに戸惑いながらもその後に続く。彼の動きにはまだ硬さが残っていたが、持ち前の感性が次第に調和し、ふたりのステップは滑らかさを帯びていく。


「お上手ですね。初めてとは思えません」


「……あんまり褒められると、かえって緊張します」


 苦笑交じりの言葉の裏で、ノクターンの胸にはわずかな違和感が広がっていた。距離が近い。視線が熱い。そして、手のひらから伝わる圧――


 ――あんまりグイグイ来る女の子は、ちょっと苦手なんだけどな。


 それでも、貴族社会における断りの難しさは彼にも分かっていた。


「ロゼット家に養子になられたと聞いております」


 アナスタシアの言葉に、ノクターンは小さくうなずいた。


「ええ、最近の話です」


「それなら、今後は貴族としての振る舞いも学ばなくてはなりませんね。交流は財産ですわ。ふさわしい場にはふさわしい立場の方と並ぶのが一番」


 アナスタシアの声は穏やかだが、その奥には確かな計算が見え隠れする。


「今度、我が家の音楽会にいらっしゃいませんか? 兄たちも、あなたに会えばきっと喜ぶと思いますわ」


「ありがたいお誘いですが……考えておきます」


 やんわりと断ろうとするノクターンに、アナスタシアはさらりと追い打ちをかけた。


「ご遠慮なさらず。これは社交ですもの。ロゼさまにもお伝えしておきますわ」


 ロゼの名が出た瞬間、ノクターンは視線を落とした。彼女なら、こんな誘いに苦笑いを浮かべるだろう。けれど、それを理由に断るには、相手が強すぎた。


「……それなら、いつか機会があれば」


「ふふ、楽しみにしています」


 アナスタシアの視線は熱を帯びていた。そのまなざしは、ノクターンの黒髪や漆黒の瞳をゆっくりと見つめ、まるでその奥にある秘密を暴こうとするかのよう。


 旋律は滑らかに変化し、ふたりの動きも洗練されていく。アナスタシアのリードは思いのほか巧みで、ノクターンもなんとか足を踏まずに合わせていた。


「ノクターン様、本当に……お綺麗ですわね」


「え、あ……ありがとうございます?」


「ご自身ではあまり意識されていないようですけれど、まるで名画の天使のよう。……いえ、それ以上かもしれません」


 からかいでも賞賛でもない。そこには所有欲にも似た熱があった。


「貴族に必要なのは、隠すことではなく選ぶこと。あなたはもう、“選ばれる側”ではなく“選ぶ側”ですわ」


 ノクターンの眉がかすかに動いた。


「ロゼット家の名を継いだ今、あなたは公爵家令息にも劣りません。私はそのようにお迎えいたします」


 続く言葉に、ノクターンは戸惑いを隠せない。


「……それは、少し……」


「ご安心ください。私の屋敷に、気が向いたときで構いません。お茶でもお菓子でも、あなたの好きなもので歓迎いたしますわ。今夜の続きを、静かな場所で踊っていただければ」


 誘いはあまりに明確で、逃げ場のない優しさを纏っていた。


「ロゼさまが、心配されるかもしれません」


「それなら、ご一緒にお招きします。……けれどあのお方はお忙しそうですから。私は、あなたの時間をたっぷりお守りいたしますわ」


 逃げられない。その圧に、ノクターンは苦笑を浮かべながら小さくうなずいた。


 ――この人は、どこまで本気なんだろう。


 旋律が終わりを告げると、アナスタシアはそっと手を離した。


「素敵な時間を、ありがとうございました。ノクターン様」


 優雅な微笑みとともに一礼する彼女に、ノクターンも礼を返す。しかしその瞳には、ほっとしたような安堵の色がにじんでいた。


 ――終わった……。


 だが、その束の間の安息もすぐにかき消される。


「ノクターン様、わたくしと一曲――」


「こちらへもどうぞ、お父様がぜひお会いしたいと――」


 まるで獲物を逃すまいとするかのように、デビュタントを迎えたばかりの令嬢たちが次々に声をかけてくる。扇子の影からのぞく熱い視線、飾られた言葉、押し寄せる社交の波――


 ノクターンは思わずひとつ咳払いし、申し訳なさそうに会釈をした。


「すみません……少し喉が渇いてしまって。飲み物を取ってまいりますので」


 笑顔の仮面を保ちながらも、心の中ではすでに“逃げ出す”ことしか考えていなかった。


 礼儀正しく距離を取ると、ノクターンは会場を横切るように歩き出す。向かう先は――そう、ロゼフェルミナリエのもと。


 遠くからでも、その存在感は否応なく目に留まる。


 深い紫のベルベットドレスに身を包み、目元を純白のレースで覆いながらも、彼女はひと目でそこに“ただならぬ存在”がいると分かる気配をまとっていた。


 ロゼは静かにグラスを傾けながら、貴族たちの相手をしていた。だが、それは先ほどノクターンに向けられていたような喧噪とはまったく異なる。


 彼女の周囲に集まっていたのは、若い令息たちではなく、その親世代――貴族の当主や元老たちである。


 息子たちでは太刀打ちできないと悟ったのか、それとも“真に価値ある者”との親睦を図ろうとしたのか。ロゼの前では、誰もが言葉を選び、丁重に頭を下げていた。


 ノクターンはそんな一角へと歩みながら、微かに息をついた。


 ――やっぱり、ロゼさまの近くが一番落ち着く。

 ノクターンが人波を掻い潜るようにしてロゼのもとに辿り着いたとき、彼女はちらりと顔を向けた。


「……まだ、十も経ってないわよ」


 それは呆れと小言が半分ずつ混ざった、彼女なりの労いの言葉だった。


 ノクターンはばつが悪そうに肩をすくめながらも、どこか安堵したように微笑んだ。


「その十が、すごく長く感じたんです」


 ロゼはため息をつき、傍を通りかかった給仕に合図を送る。すぐに白葡萄のジュースが乗せられた銀盆が差し出され、彼女はそのうちの一杯を取ると、ノクターンに手渡した。


「ほら、同じの」


 「ありがとうございます」


 ノクターンは穏やかな笑みを浮かべながらグラスを受け取り、静かに一口を含んだ。


 冷たく澄んだ果実の香りが口に広がり、それだけで喧噪の残滓が洗い流されるようだった。


 その一瞬――ロゼとノクターンの周囲だけが、まるで別の時間を生きているかのように穏やかな空気に包まれる。


 ――まるで、彼女の“特別”として扱われていることを、誰もが肌で悟っていた。

 静寂と尊敬に包まれていた空間に、不意に少し浮いた声音が割って入った。


「ところで、ロゼット公爵家に養子となられたとお聞きしましたが……かの家は、長年子どもに恵まれずお困りだったとか。どのようなご縁で?」


 空気が少しばかり澱んだ。問うたのは、まだ若く、社交の機微を掴みきれていない貴族の一人。興味という名の好奇心を隠しきれずに、言葉が口を突いて出たのだろう。


 周囲の貴族たちは微妙に顔を顰め、咳払いなどでその言葉を打ち消そうとする。だが、その目はどこか期待を含んでいた。――真相を知りたがっている。


 ノクターンはその問いに対して、少しだけ考えるように視線を落としたが、すぐに表情を崩し、さらりと答えた。


「ロゼさまが、ロゼット家の奥様――マルグリット様を助けたのがきっかけでした」


 静かな声だったが、その言葉に込められた確かさに、周囲の貴族たちは息を呑む。


「奥様は、長いあいだお体が優れず、神殿でも癒せぬ病を患っていたのですが……ロゼさまが訪ねてきて、それが嘘のように快方に向かったのです」


 ロゼは何も言わず、ただグラスを口元に運んでいるだけだった。が、その姿はまるで「それ以上の詮索は無粋ですよ」と静かに諭しているようでもあった。


 ノクターンは微笑みながら、続けた。


「それから公爵夫妻と親交を重ねるようになり……縁あって、今のような立場に。身に余るほどのお話ではありましたが、私にできることがあればと思っております」


 その物腰と答えぶりの柔らかさ、丁寧さに、空気は再び落ち着きを取り戻していった。


 最初に問いを投げかけた若い貴族は、恥じ入るように小さく頭を下げ、周囲の貴族たちはその受け答えに深い頷きを漏らす。


 ――養子とはいえ、ただの幸運ではない。やはり、この少年は“選ばれた”存在なのだ。


 誰ともなく、そんな認識が場に浸透していくのを、ロゼフェルミナリエは黙って見つめていた。


 貴族たちの囲いは、まるで空に集う鳥の群れのようだった。誰もがロゼフェルミナリエの一言を得ようと、言葉巧みに距離を詰め、話題を振り、時にさりげない賛辞を散らす。


 だが、ロゼの態度は変わらない。優美でありながら冷ややかで、どの言葉も水面に触れぬ霧のようにすり抜けていく。


 そんな様子を見かねたのか、上座に控えていた猊下が、ふと立ち上がり、声をかけた。


「ロゼフェルミナリエよ。よろしければ、お前も一曲踊ってみてはどうか?」


 その言葉に、貴族たちがざわめきを見せた。あの“猊下”が直々に勧めるなど、前代未聞だった。


 しかし、ロゼは一礼の素振りすら見せず、まるで風に揺れる木のように首を横に振った。


「踊りは不得手ですので。ご辞退申し上げます」


 その断りは、やんわりとした響きの中に絶対の意志があった。


 ところがその直後――


「じゃあ、僕と一曲どうですか? ロゼさま」


 穏やかな声音とともに、ノクターンがふいに割って入った。


 周囲の貴族が驚いて振り返る。彼の顔には微笑が浮かんでいたが、その奥にはほのかな報復心が宿っていた。先ほどアナスタシアに手を引かれたときの気まずさ――あの視線の嵐への、ちょっとした仕返し。


 「……何を言ってるの?」


 ロゼがレース越しの瞳をわずかに動かすと、ノクターンはにっこりと微笑んで、ロゼの手から空のグラスを受け取った。


 「おかわりは後で。今は“ご招待”の時間ですよ」


 そう言って給仕にグラスを預けると、ロゼの手を取り、そのまま舞踏の中央へと誘う。


 「ちょっと……!」


 抵抗する間もなく、ロゼの細い腕が引かれ、ドレスの裾が舞う。貴族たちは驚愕の声を上げながらも、ふたりがホールの中心に立つ姿に目を奪われた。


 ワルツの旋律が静かに切り替わる。照明がわずかに落とされ、焦点のように二人を包む。


 白銀の髪、紫のベルベット、まるで幻想の人形のようなロゼ。


 漆黒の髪、少年のあどけなさと凛とした佇まいを併せ持つノクターン。


 まったく異質な存在が一対となって踊る姿は、社交という名の戦場において最も鮮烈な印象を刻みつけた。


 誰もが息を呑み、次の一歩を見守るしかなかった。

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