第八話
社交界の宴も終わりに近づいていた。
煌びやかな装飾が施された大広間では、貴族たちが優雅に談笑し、
夜の終わりを惜しんでいた。
しかし、その中心には、ある"異物"が立っていた。
エリオス・ルクレイ。
「……それにしても、エリュシア様も物好きね」
「本当に”婚約者”なのかしら?」
「いや、あのヴィクトール殿が押されるとは……」
ざわめきと困惑は収拾のめどがつかない。
特に、先ほどの握手事件の一件が、貴族たちの間で噂になっていた。
エリオスは、まるで見世物のように注目を浴びながらも、
特に気にする様子はなかった。
それがむしろ、貴族たちにとって異質に映る。
貴族社会では、こうした場での振る舞いこそが“価値”を決める。
侮辱されても、無礼を働かれても、平然と立ち続けることが“貴族”なのだ。
——しかし、それは“貴族”の話だ。
彼は"庶民"であるにも関わらず、その振る舞いは揺るがない。
「……どうやら、面白い物を持ち帰ったようだな」
ある男が、微かに唇を歪めた。
「——エリオス・ルクレイ」
その声が響いた瞬間、広間の空気が一変した。
低く、重厚な響き。
それだけで、誰もが息を呑む。
大広間の奥から、堂々たる足取りで進み出た男。
——エドモンド・グランヴェール・ラグナディア公爵。
エリュシアの父であり、この王都において数えられる指折りの名門貴族。
その名が持つ重みは、貴族たちの誰もが知っている。
彼は静かに立ち止まり、鋭い眼光をエリオスへ向けた。
「エリュシアが"婚約者"を連れて戻ったと聞いた」
言葉に余計な抑揚はない。
だが、それだけで周囲の貴族たちが緊張を滲ませる。
エリオスもまた、その視線を真正面から受け止めた。
「……仰せの通りにございます、公爵閣下。」
エリオスは背筋を正し、微細な礼を添えながら、無駄のない一礼を示した。
形式を重んじる貴族の場では、不必要な言葉を挟むことは無作法にあたる。
過去の自分なら、適当な言い回しで誤魔化していたかもしれない。
だが、王都に来て10日。
メレーネの厳格な指導のもと、最低限の貴族としての振る舞いは身につけた。
その答えを受けて、エドモンド公爵の目がわずかに細められる。
「ほう……」
場の空気が凍りつくように張り詰め、周囲の貴族たちが息を呑んだ。
公爵は沈黙のまま、エリオスをじっくりと観察する。
「貴族の作法は、心得たようだな。」
わずかに肯定の色を含ませた声音。
その言葉が持つ重みを理解し、エリオスは静かに深く一礼する。
父よりやや遅れて現れたエリュシアは、
この場を視認し、二つの意味で驚いた。
エリオスが短期間で作法をある程度学んでいた事、
そして父が、エリオスを真正面から"認める"ような言葉を口にしたことだ。
「だが……それだけで貴族として生きていけると考えているのなら、
否定させてもらおう」
公爵の声は静かだったが、その一言は大広間の空気を一層重くした。
周囲の貴族たちの視線が、改めてエリオスへと集中する。
「貴族の作法を覚えたところで、貴族の本質を理解したとは言えんからな」
エドモンドは悠然と歩を進めながら、まるで試すように言葉を投げかける。
その足取りには一切の迷いがなく、
まるでこの場全体を支配しているかのような威厳があった。
「貴族の社会は ”形式”の上に成り立つものではない。
それを取り繕うことは誰にでもできる。
だが、その先にあるものを持たぬ者は、いずれ排斥される運命だ。」
冷徹な声音。その意味するところを、場の誰もが理解していた。
「だが私は、"個人の意志"を全て否定するつもりはない」
エドモンドは静かに語る。
「貴族であれ、庶民であれ、生きる道を選ぶ自由はある。
——だが、その自由に"責任"が伴うことを忘れてはならない」
エリオスは、その言葉を慎重に聞いた。
「……責任、ですか?」
「そうだ」
「我が娘の婚約者となるのならば、貴族としての責務を果たせる者でなければならない」
「つまり……私に何かを求めている、ということですか?」
エリオスは視線を外さずに問い返す。
公爵は微かに口元を緩めた。
「なかなか察しがいいな」
——ここで、"庶民らしい反応"を示していれば、
きっと公爵は興味を失っていたはずだ。
しかし、エリオスは既に"貴族としての振る舞い"を教わっている。
その上で、言葉を選び、的確に質問を返してきた。
それを、公爵は"面白い"と感じていた。
「お前には選択の"自由"を与える」
公爵はゆっくりと指を動かし、メレーネへと視線を向ける。
メレーネはすぐに近づき、封蝋された二通の書状をエリオスに渡した。
「学園か、軍か——好きに選べ......」
公爵は静かに言った。
「王都において、貴族の道を歩むならば、どちらかを選ぶことになる」
学園。
そこは貴族たちの知識と技術を学び、社交を学ぶ場。
王都で生きるための基礎を築く、最も"貴族らしい"道。
軍。
そこは貴族の“戦士”たちが鍛え上げられる場。
戦争と力によって地位を築く者たちの選択。
エリオスは視線を落とし、二通の書状を見た。
「……選ばなければ、どうなりますか?」
その言葉に、公爵の目が細められる。
「それは簡単だ。貴族ではなく、"ただの庶民"として生きることになる」
その答えに、エリュシアが息を呑んだ。
「父上、それは——」
「……エリュシア」
公爵は、娘の言葉を遮るように視線を向ける。
それだけで、彼女は口を閉ざした。
エリオスは、静かに息を吐く。
この場の全員が、彼が貴族の“道”を選ぶ前提で動いている。
選択権があるように見せかけながら、実際には選び、
“選ばされて”きたのだ。
“貴族でなければ婚約は意味をなさない”
“庶民として生きるならば、この場にいる資格すらない”
その理屈は、あまりにも当然のように語られていた。
彼らの世界では、それが“常識”なのだ。
(なるほど……貴族というのは、こうして“縛られる”ものなのか)
王都に来て十日。
エリオスはメレーネの指導のもと、貴族の作法を学び、それを身につけた。
だが、彼が学んだのは“表面的な振る舞い”にすぎない。
本当の意味で貴族になるということは、こうして選択を制限され、
己の意思を、貴族の“枠組み”に沿うよう強いられるということなのか。
「お前もわかっているだろう?
貴族として認められなければ、その"婚約"に意味はない」
エリュシアは唇を噛みしめる。
それは、彼女自身が最も理解していることだった。
選ばせたように見えて、未来は決まっている、と......
……いや、違う。
公爵の視線を受け止めながら、エリオスは確信した。
これはただの形式的な選択ではない。
これは貴族の"器"があるかどうかを試す“試練” なのだ。
"貴族でなければ、この場にいる資格すらない"
それが王都の"常識"なのだ。
王都に来て十日、貴族社会の厳しさは理解していた。
だが、常識を壊すにはまずは常識を学び、理解する必要がある。
「……選べ、エリオス・ルクレイ」
公爵は、低く静かな声で、決断を迫る──