第七十六話
エリュシアのヒールが、かつ、かつ、
と石床を軽快に鳴らす。
隣を歩くダグラスの革靴は、
少し遅れて、そして控えめに鳴らした。
すれ違う使用人たちが、
すっと一礼する中で、ふとエリュシアは微笑んだ。
「エリオスの方が先に公爵になってしまうなんてね」
歩きながら自然に零れた言葉。
ちょっと可笑しくて、そっと口元に手を添える。
「エリュシア様もだいぶお優しくなられましたね」
ダグラスの声は、その雰囲気からだろうか。
やけに信憑性を帯びて聞こえた。
「そ、そうかしらね?」
ダグラスは静かに笑う。
「ええ。昔よりもかなり落ち着かれたと言うか。
若妻の風格がありますよ?」
まんざらでも──
咄嗟にエリュシアは顔を背ける。
真っ赤な事は分かっていたので、
一歩だけ歩調を進めた。
「それにしても、ヴィクトール様も大きく変わられて。
エリオス様は本当に恐ろしい方です」
「恐ろしい......?分からなくもないけれど」
エリュシアの思案はやや別のところにあったが、
ダグラスの表情からそうではない事を察する。
「恥ずかしながら、わたくしも元は
聖騎士職ではありましたが、
どうもあの"オーラ"には踏み込めないのです」
ダグラスの低く静かな声。
それに耳を傾けながら、エリュシアはそっと眉根を寄せた。
「ディレイの事かしら?」
問いかけると、ダグラスはゆるやかに首を振った。
「いえ、経験則です。どの公爵というより──
"辺境大公"に近い雰囲気を感じるのです」
ふっと小さな笑みが漏れた。
脳裏に浮かんだのは、あの飄々とした
霊狐の大公"イゼルカ"の姿だった。
「イゼルカ様辺りと意気投合できる辺り、分かる気がするわ」
そう呟いた時、エリュシアは自分の立ち位置が気になった。
弱いまま、婚約者という立場に甘えるわけにはいかない。
エリュシアはわずかに目を伏せ、カツっ、
と小さく一歩を刻む。
窓の外、視界の端に捉えたのは、
タオルを頭に巻き、スコップを抱えたヴィクトールの姿だった。
彼はまるで少年のように、外庭を駆けていく。
エリュシアは静かに思う。
(……こんな姿を見たのは初めてかもしれない)
王都の空気とは確かに違うが、それだけなのだろうか?
チャレンジしてみたくなる。
それがこのハルコンネ領には漂っていた。
「ねぇ、ダグラス。私に剣を教えてくれないかしら?」
その言葉は口をついて出ていた。
ダグラスは一拍の間を置き、
穏やかな微笑を浮かべると、軽く頭を下げた。
「お時間があれば、ぜひとも」
◆ ◆ ◆
厨房脇の試食卓。
お昼にはまだ早い時間。
香ばしい肉の匂いと、鍋の湯気が空気に溶けていた。
エリュシアは混雑を避ける為、少し早い昼食を、
とこっそり抜け出していた。
すると──
視界の端、大きな肉の塊が動いている。
エリュシアはこんな昼間から魔物が食堂に入り込んできたのか、
と錯覚しそうになったが、冷静になる。
そもそもここに入ってくるならここまで静かな訳がない。
テーブルの合間、何やら小さな細い腕が
それを支えているのが視認できた。
「……あ」
テーブルの合間、目線が合う。
琥珀色に金色の髪───
「ななな、なにを持ってきたの!?」
思わず声が裏返る。
エウラが両手で抱えていたのは────
「おにく……?」
「いや、そうなんですけれど! そうじゃなくて!!」
動揺混じりに詰め寄るエリュシアに、
奥からオルビス料理長がひょっこり顔を出す。
まるでバレてしまったか、みたいな表情だ。
「あー、これはいつもの事でして……」
料理長は苦笑交じりに説明を始めた。
エウラが"持ち帰る"のは、これが初めてではないらしい。
かくかくしかじか──
その手際の良い説明を、エリュシアはやや呆然と聞いた。
「それ、食べられるものなの?」
訝しむように尋ねると、
「……うん」
エウラがこくんと頷く。
「少し、食べてみます?」
オルビス料理長が、差し出すように促した。
「......え? ええ、頂いてみようかしら?」
────腹を括ったつもりだった。
数十分後、目の前に置かれたのは、
一見すると普通のステーキ肉。
だが──肉汁の表面に浮かぶ、不自然な油膜。
湯気すら、どこか粘りを孕んで見えた。
「こ、これはソースかしら?」
「いえ、違います......」
「へぇッ!?」
あまりにも情けない声が出てしまい、咄嗟に手で口を覆った。
(……落ち着いて。私は公爵家の娘。これくらい、平然と……!)
「い、いただくわね……」
フォークを手に取り、肉の端をそっと突く。
ぷるり、と弾んだ手応えに、一瞬ためらいかける。
(ゴクリ)
喉が鳴る。
「……エウラ、これ、本当に安全?」
恐る恐る尋ねると、エウラはまっすぐ頷いた。
「……だいじょうぶ。あったかいから」
(そういう問題じゃない気がするけど!?)
心の中で全力ツッコミを入れながら、
エリュシアは震える手で一口──
──咀嚼、柔らかい。
ゼリーでもないけど柔らかい。
そのお肉らしい繊維質な食感と、
舌触りのいい脂。
少し強めの肉臭さが上顎を染み渡る様に抜け、
それが、不思議と癖になる余韻となるのだ。
「……!?」
驚愕と困惑の間で口の中をもごもごさせる。
思った以上に美味しい、というかかなり──
目の前では、エウラがじっとこちらを見上げていた。
「……おいしい?」
その一言に、エリュシアは思わず背筋を伸ばす。
「……これ、売れるわね」
エウラはぱぁっと顔を輝かせ、
ぱちぱちと小さな拍手を送ってきた。
「これ、ほとんど味付けしてないんですよ」
オルビス料理長の説明に、エリュシアはさらに驚く。
「それにしてはかなり塩味を感じるのだけれど?」
フォークを持ったまま首を傾げると、
エウラが小さな声で言った。
「怒らせると、美味しくなるの!」
「怒らせる……?」
脳裏をよぎったのは、
──狂戦士化。
ミノグランツは、戦闘が長引けばダメージを吸収し、
魔力量を増幅させる特性を持つ。
暴走すれば攻撃速度が上がり、理性が吹き飛ぶ。
──まさか、それを"怒る"と表現している......?
「エウラ、ちなみにだけれど、どうやって倒したの?」
問いかけると、エウラは小首をかしげて
フォークをずっぷしと巨肉に刺して手を放す。
「ちょっと叩いて、ちょっと待って、
また叩いて、ちょっと待って……えーっと?」
指折り数えるように語るエウラに、
エリュシアは小さく溜息をついた。
「あー、分かったわ……」
(多分、味が良くなることの為だけに、
狂戦士化させてるのね、この子……)
しかし、その無垢な微笑みを見た瞬間、
エリュシアは、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「......そうだ、これエリオスに持っていかない?」
「......! うん!」
エウラが元気よく頷き、
明らかに重そうな大皿を、いとも軽々と持ち上げる。
その姿は、たしかに"人ならざる力"を思わせるものだった。
けれど、それすらひとつの"個性"に見えてしまう。
エリュシアは、そっと笑った。




