第七十四話
──深夜。
ハルコンネ新領地イーストベースの、大食堂。
縦三十五メートル、横十八メートル、天井高は六メートルは優にある。
築二週間というまさに"新造"食堂だ。
雲のように白い壁面塗装、絵画もまた等間隔に並べられ、
天蓋のような天井に吊るされた燭台が、
ぼんやりと空間に暖色を与えている。
ここに収容できる人数はおよそ二百名。
だが今、この広大な空間にいるのは
──ほぼ、エリオスひとり。
朝方から昼間、そして夕食にかけては
華やかに賑わっているのだが......
エリオスがようやく訪れる余裕ができたのは、
静けさ極まる深夜だった。
白く磨かれた石床に足音が微かに響く。
誰もいないビュッフェカウンターには、蓋の閉まった保温皿が整然と並び、
冷めた銀の光が静かに室内を照らしている。
「本当に良いのでしょうか……?」
控えめな声で問いかけてきたのは、
厨房責任者のオルビス料理長だった。
彼は白いコック服のまま、やや不安げにエリオスを見つめている。
「無駄遣いはしたくないからね……」
エリオスは苦笑しながら答えた。
正規の食事時間を外れての利用。
今から特別に用意させるなど、庶民感覚からすれば贅沢の極みだった。
──というか、これ以上無駄な決算書を
増やしたくないというのもあったのだ......
結局、厨房に残っていた料理を軽く温めてもらい、
適当に盛り合わせたものを一皿だけもらうことにした。
──静かな夜。
あまりにも広くて落ち着かない。
そんなときだった。
「エリオス様!」
元気な声が、静寂を破った。
振り返ると、マリアが小走りで近づいてきた。
その後ろには、少しおどおどとした様子の少女が控えている。
「こんな時間にどうしたの?」
エリオスは小さく笑いながら尋ねた。
「それはこっちのセリフです……」
マリアは肩で息をしながら、広い食堂を見渡した。
──公爵ともあろう者が、こんな真夜中にひとりで食事をしている。
その光景に呆れと困惑が入り混じった表情だった。
「ですが、それは置いておいて。
実は馬車が途中で渋滞に巻き込まれてしまいまして、
本当は陽が沈む前くらいには到着を、と思ったのです」
「最近交易路が混んでるのは聞いたよ。
やっぱり道も広げないといけないかぁ……」
エリオスはフォークをくるくると回しながら、ぼそりと呟いた。
脳裏には紙の束、思わずため息が出る。
「それはそうとして、その方は?」
視線を向けると、マリアの後ろにいた少女が、
びくりと肩を跳ねさせた。
「新しい財政担当です!」
マリアが朗らかに紹介する。
「財政担当?」
エリオスは思わず聞き返した。
「そうです! ほら、挨拶!」
マリアに促され、少女がぎこちない動きで前に出る。
「ルシア・ブランシュと言います!
公爵閣下の役に立てるように頑張ります!」
勢いよく頭を下げるルシア。
深い緑色の髪と、ぱっちりとした目元が印象的だった。
少女、というより、どこか小動物めいている。
エリオスは苦笑しながら口を開く。
「期待の才女、でいいのかな?」
その言葉に、ルシアは度数の高いお酒でも
一気に飲み干してしまった
かのような速度で顔を真っ赤にしながら両手を振った。
「さささ、才女だなんて、そんなことはないですッ!」
ものすごい勢いで否定され、
エリオスは笑みを崩さないが脳裏には不安の二文字。
「こんな感じですが、実務は神憑り的な所があるので、
お気になさらないでください!」
マリアが、にこにことフォローを入れた。
エリオスはどう接するべきか迷いつつ、挨拶を交わす。
「よ、よろしくお願いしますね……?」
やや戸惑いながらも手を差し伸べる。
ルシアは、緊張でカチカチになりながらも、その手をぎこちなく握った。
「は、はぃぃぃ!」
返事なのか悲鳴なのか分からない声が食堂に響き、
エリオスはそっと肩を落とした。
◆ ◆ ◆
広々とした執務室に、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
エリオス公爵就任から間もないこのハルコンネ地方。
新領地運営は、例えるなら一から城を積み上げるようなもの。
メレーネは、今目の前にある書類の束を指先で正しながら、
目を皿のようにして数字を追い続けていた。
「やっぱり、喫緊の課題として短期資金の調達が優先です」
冷静に言い放ち、ルシアに視線を向ける。
対面に座る少女──ルシア・ブランシュは、
新たに財政担当官として迎えられたばかり。
まだあどけなさを残す表情だが、
度々、軽く指折りをする仕草から繰り出される高速の暗算と、
書類を読み、要点を纏める速度と精度は驚くほど優れていた。
「マリア様から話は聞いてはおりますが、
そのすべてが果実をつけるまでには最低半年はかかると思います」
ルシアが、眼鏡を押し上げながら的確に指摘する。
「とはいえ......交易路の渋滞も、元を辿れば貧弱な街道の要所に、
巨大な城郭都市を作ってしまったが故の
キャパシティーオーバーですからね」
メレーネは苦く笑いながら言った。
書類に並ぶ数字たちは、無慈悲な現実を突きつけている。
「シュタルク要塞という脅威の最前線ですから、
仕方ないと思います」
ルシアもまた静かに同意する。
彼女の分析は正確。
メレーネは感心するように二度ほど小さく頷くと、
また書類に目を戻す。
そして二人は、黙々と書類を読み進める。
──ハラリ、ハラリ。
夜の静寂を破るのは、ただ紙をめくる音のみ。
やがて、ルシアが首を傾げた。
「あれ? メレーネ様、王都の危険手当はどうされたのですか?」
ルシアは会計簿を持ち上げると、収支部分を指さした。
「危険手当? あれは王都側で徴収するものではないですか?」
眉をひそめて返すと、ルシアが小さく首を振った。
「その通りではあるのですが、それはあくまでも
本拠が王都にある公爵家に限った話なのです」
──初耳だ。
メレーネは僅かに目を細め、少女の言葉に耳を傾ける。
「実は、危険手当の源流は“境界防衛金”という古い制度なのです。
各侯爵家以上なら受給できる建前なのですが────」
ルシアが紙の端を指でなぞりながら、小声で続ける。
「受給条件が厳しいんです。
それは、“王都に所在を持たない家が、境界線を守っている場合"です」
メレーネは驚きと共に、即座に状況を頭の中で組み立てた。
「確かに、王都貴族にとって王都以外に所在を置くのは
屈辱的ですので、まず受給する事にならない……」
──なるほど、誰も使わなかったのだ。
古びた制度の奥底に眠っていた財源。
それが今、辺境公爵家にとって掘り起こすべき"即席の鉱脈"だった。
「とはいえここは、ネーデル川とハルコンネ一帯を守護していて、
同時に王都に本拠を持たない──
ようするに"辺境大公"達と同じ立場になります。
なので、申請すれば支給対象になります!」
ルシアが早口ながら端的に説明する。
緊張で頬を紅潮させながらも、
その声には確かな自信があった。
「それは道理です。辺境大公が受け持つ権利に倣うと言う事ですね?」
メレーネは理解した。
そして、ルシアの紅潮が自分にも湧き上がる。
「まさにその通りです!
血統を育むなら王都の方が都合が良いので、
恐らく誰もこの制度を利用する事は無かったのでしょう」
──制度の死角。
誰も使わなかったが故に、存在すら忘れ去られていた穴。
ルシアは胸を張る。
「ですが、それがむしろここでは好都合なのです!」
「とはいえ、これが改訂される可能性は無いのですか?」
メレーネは冷静に努めるために、
敢えて懸念を口にする。
そしてルシアは即答した。
「99%ないでしょう。
そうなれば各辺境大公が黙っておりませんし、
この制度は1000年前に制定されたもので、
手が加えられた形跡はないです」
メレーネは感心しながら、深く頷いた。
「なるほど、最早王都にとっては禁忌の楔というわけですか」
「実質的に辺境大公との繋がりを刻む証ですよっ!」
メレーネは、してやったりと小さな笑みを浮かべた。
小柄な少女の柔らかな指が、確かに王都の虚を衝いた瞬間。
──まさにこれは、"血統主義のロジック"の裏口だった。
「では早速、申請書類を作りましょう」
「はいっ!」
ルシアが元気よく返事をする。
メレーネは目を細めながら、彼女の明晰さに感心した。
そして手元の羽ペンを手に取りながら、
メレーネは静かに、けれど確かな確信と共に書き始めた。




