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第七十一話

 まだ夜とも言えそうな空色の下、エリオスは体を起こした。

 枕に残る微かな温もりを指先でなぞるが、

 眠りの記憶はほとんどなかった。

 

 ただ夢を見ていた気がする。

 声にならない退廃のざわめきと、どこか遠くの鐘の音。

 そんな断片だけが脳裏に霧のように残っている。


 ふと気づけば、室内のカーテン越しにわずかな光が滲んでいた。


 一度背伸びをし、ベットから足を下ろして立ち上がる。

 そして寝巻きのまま、エリオスは音を立てぬように部屋を出る。

 手摺伝いに階段を下り、広い邸の裏手へ。


 扉を開け、やや肌寒さの残る空気が

 眠気を冷ますかのように優しく撫でる。

 石畳を踏みしめる足音が、朝靄の中に吸い込まれていく。


 エリオスが吸い込まれるように向かったのは、

 庭園の一角に用意された温室。

 貴族らしい精緻な装飾の施された鉄枠に、

 大きなガラスのドーム。


 夜露を帯びたガラスの外壁に、

 浅い角度の朝日が斜めに差し込む。

 光の筋が幾重にも交差し、ガラスの迷宮を演出する。


 鉄の冷たさの残るガラス戸を開けると、

 湿った空気とほのかな花の香りが流れ込んできた。


 エリオスは花の香りの中へと足を進めた。

 天井の高い空間には、花が色とりどりに咲き誇り、

 無数の葉が静かに息づいている。

 その葉の一部に、銀色の糸のようなものが淡く絡んでいた。

 霧氷の名残か、朝露が薄く凍りついたものか、だが美しいのだ。


 「......まるで飾りつけされた舞台みたいだ。

 役者の自覚もないまま、幕だけが上がってしまう」


 思わず漏れた自嘲のような独り言は、温室のガラスに反響し、

 少し遅れて耳に届いた。


 ふと、足元に並ぶ鉢植えの一つに目がとまった。

 まだ芽吹いたばかりの青々としたハーブ。


 エリオスはしゃがみこみ、葉を1枚手に取る。

 それを手のひらで軽く揉む。

 

 鼻先へ近づける前に、

 まずは一度、静かに息を吐き出す。


 そして、ゆっくりと吸い込む。


 柑橘と白茶、そしてほんの少しの土と蜜が鼻腔を撫でる様に抜けた。

 それはまるで朝露を含んだ風のように、

 彼の記憶の奥へ静かに触れていった。

 

 ──あの朝も、同じ香りがしていた。

 小さな畑の端、母が笑いながら差し出してくれた。


 ただ、静かで、何かを背負う事もない時間。

 ホロホロと崩れる土の感触を楽しんでいた昔の自分が、

 一瞬だけ、ガラスの向こうで手を振った気がして、

 エリオスはハッとした。


 今は、その香りすら──


 何かの役割を思い出させるようで、少しだけ苦かった。


 「……どこで踏ん張れば……俺は、“俺のまま”でいられる?」


 背後から小さな水音が近づいてきた。

 ジョウロの口から零れる雫が葉を叩くたび、

 朝の静寂に淡いリズムが生まれる。

 やがて気配が背中に届き、エリオスは振り向いた。


 「──あら、早いわね……」


 うっすら笑みを浮かべたエリュシアが、

 ジョウロを抱えて立っている。

 栗色の髪に朝の光が透け、

 濡れた葉先から落ちた雫が服の袖口をわずかに染めていた。


 「お互い様だろ?」


 エリオスが肩をすくめると、エリュシアは目を細め、


 「それも、そうね」


 と短く返した。

 それきり言葉が途切れる。

 温室の高い天井で、湿った空気がガラスを曇らせ、

 遠くでは小鳥の囀りが朝を知らせていた。


 しばらくして、エリュシアが口を開いた。


 「あなたに似合う礼服を、昨晩のうちに用意してみたの」


 「それは……ありがとう」


 「こ、公爵になるのだから、それ相応の格好をしないとね!」


 明るい声音。しかし張り上げた声と反比例するように頬の笑みは浅い。

 空回りする元気、空元気。

 エリオスはそう悟り、同じ調子で肯定した。


 「確かに、そうだな!」


 エリュシアは安堵するように息を吐き、話題を変える。


 「そうそう、エウラったら九十度の礼とか、

 ナイフとフォークでサラダを食べるとか......

 変なマナーばかり覚えてるの」


 「それは多分……教えた人間のせいじゃないか?」


 「本人にフィードバックしておくわ」


 「い、いまのはナシで……」


 二人の笑いが重なりかけ、すぐに解けて静けさが戻る。

 エリュシアはジョウロを少し傾け、水やりを再開した。

 その視線は注がれる水流に、ではなく、ずっと遠いものを見つめていた。


 「──馬鹿よね、私ったら。」


 呟きは雫より細く、

 けれど温室の真ん中を貫いた。

 エリオスは葉をこする手を止め、エリュシアを見上げた。


 「隣を歩けてたと思い込んでた。

 でも、本当は舞台にすら立てていなかったのよ?」


 ガラス壁が小さく曇り、映り込んだ彼女の顔は強張っている。

 こんな顔は見せられない、と顔を逸らしてはいたが、

 それとて最善手ではなかった。

 

 エリュシアは、込み上がる感情に気づきながら、

 どう処理すればいいのか分からなくなる。


 「俺はただ──持ち上げられてるだけさ」


 エリオスはいつもの調子を繕って返した。

 しかしその返しに、エリュシアの肩が揺れる。

 震えた声が、葉の影で割れた。


 「置いていかれるのが、一番──怖い」


 エリュシアは、顔を背けたまま。

 エリオスは返す言葉を必死で探した。


 「それは──」


 エリュシアは、その声に反射的に思いを吐露する。


 「重いのは分かってるッ!

 けど……もう、追いつけないんじゃないかなって──」


 エリオスは土を払う指を止め、すっと立ち上がった。

 視線は足元の土と朝光の間を彷徨い、

 答えを濁す代わりに静かな吐息を残す。


 「追いつくとか、追い越すとか......自分じゃ案外わからないものだよな」


 握ったままの葉が、指の隙間でぽろりと崩れる。


 「でも、呼び止めてくれる人がいれば、振り返ることはできる。

 だから──」


 そこで言葉を切り、エリュシアに目を向けた。


 「......一緒に歩くことを、やめたくない」


 エリュシアは息を詰めた。

 数拍置き、ほんの僅かな、自然に零れた笑みが唇に灯る。


 「エリオス、あなたって……ずるいわね」


 エリュシアの髪がふわりと揺れる。

 温室のガラス越しに昇った朝日が差し込み、

 二人の影がぴたりと重なった。


 エリュシアは指先でエリオスの袖を軽く引き寄せ、

 ほんの一歩、つま先立ちで距離を詰め──

 

 吐息と呼吸が重なり、

 影絵になったふたつの輪郭が、ふっと溶け合う。

 触れたのは一瞬。

 それでいて確かに、柔らかな温度が唇をかすめた。


 置かれたジョウロの口からこぼれた最後の雫が、

 葉を滑り、土に落ちる。

 細長く伸びたふたりの影が、朝を知らせた。

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