第六十九話
壇上へと上がってきた男。
その一歩一歩に、会場の喧騒が徐々に引き締まっていく。
金糸で編まれた飾緒が右胸から吊るされ、
深い黒と銀のボタンが冷たく並ぶ。
背には、膝裏まで届く重厚なマントを靡かせ、
漆黒を基調とした礼装軍服を見事に着こなしている。
まさに無駄を削ぎ落とした簡潔さと、洗練の美学。
それは、まさに“最良の貴族”そのものだった。
そう、その正体は、
───ヴィクトール・フォン・ファルクス。
既に実権を握り、ファルクス家の次期当主として広く知られた存在。
その肩に刻まれた紋章もまた、王都貴族にとって重い意味を持つ。
場の空気が張り詰める中、ヴィクトールは
余裕すら感じさせる足取りでエリオスの元へと歩み寄った。
「お久しぶりです」
微笑みを浮かべてそう告げるその声には、
かつての尖りとは違う柔らかさがあった。
再会を喜ぶかのようなその態度に、わずかに戸惑いが混じる。
「あ、ああ……」
エリオスは反応に困ったように頷いた。
その傍らで、エスメラルダが変わらぬ気品を保ちながらも、
どこか面白がるような表情で彼らを見つめていた。
エリオス、そしてエスメラルダ。
左右対称のように並び立つ二人の姿。
そこへ今、もう一人。
新秩序の象徴とも呼べる青年が加わろうとしている。
会場の視線は一点に集中した。
一挙手一投足が歴史を揺るがす瞬間だと、
貴族たちは本能的に悟っていたのだ。
そして、ヴィクトールは迷いなく──
──右膝を床に落とした。
音はなかった。だが、音の無き"ゆらぎ"が会場から
咳払い、鼻をすする音すら奪った。
静水面のように静まり返った大広間。
ヴィクトールはかつて"庶民風情"と侮った青年の前で、
堂々と、それでいて悔しがるわけでもなく。
「──エリオス・ルクレイ殿。
この命、この名、この誇り。
すべて貴方にお預けします。
私は、あなたに忠誠を誓います」
その声は澄み切っていて、微塵の揺らぎもなかった。
目の前の現実が、現実として脳に届かない。
誰もが、そんな錯覚に囚われていた。
そして、誰にも気づかれぬようにエスメラルダは視線を細める。
その紅い瞳の奥で光るのは感動でも驚きでもない。
──ただひとつ、狙い通りという確信の光。
そして、その緊張の紐が、遂に切れた。
「ファルクス家の嫡男が……!」
「そんな馬鹿なっ!」
「跪いただと……! 庶民に!?」
「正気か……? いや、これは……」
「1000年貴族が庶民に頭を下げる......?
前代未聞どころじゃないぞ!!」
ざわめきが一気に濁流となって広がる。
貴族たちの反応は、驚愕と混乱、戸惑いの混線。
誰もがこの事態の意味を測りかねていた。
エリオスもまた、当事者なのだが、ただただこの状況に困惑していた。
目の前の男が見せた膝の意味。
それが、どれだけ重く、
またどれほどの決意で行われたのかは直感で察していた。
だが、それを受け止める術を彼は持ってはいなかった。
「ちょっと、待ってくれ......」
彼はヴィクトールと同じ目線に立とうとするが、
隣に立つエスメラルダが、
何気ない動きでその腕を取って静かに制した。
それはひとえに──彼に、「庶民としての立場」ではなく、
「称えられるべき英雄」として、
見下ろす位置に立たせる演出だった。
「……俺は、そんな偉い人間じゃ……」
ぎこちなく、どこか震えの混じる声で、エリオスはそう答えた。
だが、周囲の空気はもう彼に同情する余白すら与えない。
次なる言葉が、さらに流れを固める。
「全ては、貴方のためになるのです」
ヴィクトールの声に、嘘はなかった。
その瞳に宿る光は、忠誠ではあるが、決して屈辱ではない。
だが、そこにある“重さ”が、
エリオスに、ひどく恐ろしいものに感じられた。
彼の背負っているものが、自分の上に移ってくるような、
逃れようのない圧に包まれていく。
「ヴィクトール! あなた、何考えてるのよッ!」
会場のざわめきを裂くように、ひときわ高い声が響いた。
ドレスの裾を翻して壇上に駆け上がってきたのは、エリュシアだった。
その顔には怒りと困惑が入り混じり、
彼女はすぐにヴィクトールに詰め寄ると、その肩を掴んだ。
「どうしてあなたがエリオスに頭を下げるの!?」
その問いに、ヴィクトールは静かに顔を上げる。
その瞳に迷いはなかった。
「俺は──あの戦場で、命を拾われた。
エリオスの力、あれは
──俺の小手先の魔法なんか通じない“本物”だった」
その言葉と、わずかに顰められた眉には、
誇りを砕かれた記憶、無力さを噛みしめた痛み、
そして、救いにすがる人間らしさが宿っていた。
「だからってこんなこと──」
エリュシアはさらに問い詰めようとするが、
それを制したのはメレーネだった。
「エリュシア様、実は──」
静かに歩み寄り、彼女は小声で事の顛末を語り出す。
強力な敵と遭遇したヴィクトールが、部下を次々と失った事実。
その場に現れたエリオスによって助けられ、
魔力を使い果たして気絶した彼を、
エリオスが背負って王都まで運んだという話。
それを聞いたエリュシアの顔に、動揺が走る。
「な、なんで早く教えてくれなかったの?」
「まさかこんな形になるとは思いもしませんでした……」
「そんな、そうだったなんて……」
エリュシアの声はもう、糾弾のそれではなかった。
言葉の端々には、悔しさと知らなかったことへの寂しさが滲んでいた。
──この瞬間、空気が変わった。
貴族たちは確かに理解した。
この場における序列が、既に塗り替えられていたことを。
エスメラルダ=エリオス。
ラグナディア家、ファルクス家を抑えて、
王都の中心に躍り出た新たな軸。
そして、その中心にいる“英雄”が庶民出身であるという事実。
だが、その中でも会場の空気は一枚岩ではなかった。
「民を救ったのは称賛に値する……が、あの力は果たして正道か?」
「遅延魔法などという得体の知れぬ力に頼るなど、邪道ではないか?」
畏敬と懸念。
祝福と嫉妬。
期待と恐怖。
そのすべてが複雑に絡み合い、静かに動き始めていく。
ナサニエルは会場の片隅、壁際の半影に立ち、
ゆるやかな拍手を打った。
その拍手が誰に向けられたものか、称賛なのか、意図は分からない。
「……これで“風”が変わりますか。
さて、誰がその風に乗るのか、楽しみです」




