第六十六話
氷の残滓が残る王都正面門"跡"
膨大な力によって吹き飛ばされた鋼鉄の扉は、
隣接する詰所を丸ごと巻き込んで崩落させていた。
詰所には偶然、人が居なかったのが幸いしたが、
それはまるで、王都の「誇り」が打ち砕かれた象徴のようだった。
「……これは、ひどいですわね」
絹の扇子を口元に添えたとある貴族令嬢が、眉をひそめて小さく嘆息する。
傍らに立つ男爵子息は、顔色をわずかに強ばらせたまま頷いた。
「一体どんなバケモノが暴れたのでしょうか……」
そっと鉄城門に触れた男爵子息は身震いした。
厚さ数十センチの鉄扉を、いとも簡単に数十メートル弾くなんて、
自分には天地がひっくり返っても不可能だろう、と。
「それにしても──」
貴族令嬢の視線が、歪んだ城門跡から地面へとゆっくりと下りていく。
そこには、凍てついた氷の破片が、まるで硝子のように鋭く光を反射している。
さらに、地面には雷撃が這いずったような焼痕が残されていた。
焦げた石材の縁が紫がかった光を帯び、魔力の残滓がまだ残っていると知れた。
──氷と雷、相反するはずの性質が、
まるで舞踏のように交錯していたのだ。
けれど、その軌跡には一片の美も秩序もなかった。
ただ破壊の痕跡として、冷たく、そして禍々しく地表を切り裂いていた。
そして、特段大きないくつもの陥没と、
黒々とした一度溶けたものが冷えて固まった事を示す地面。
令嬢は小さく息を吐き、そっと扇子で鼻先を覆う。
まるでその“異質な気配”を、直接吸い込むことを恐れるかのように。
「これを退治されたアルヴィス様、エスメラルダ様、そしてエリュシア様──
やはり、お力は凄まじいですわね」
そう言う彼女の声にも、不安と尊敬がないまぜになっていた。
しかし、男爵子息はふと声を潜め、まるで陰謀の噂話のように囁く。
「ですが……聞いた話によりますと。
あの“庶民の婚約者様”が、この混乱を止めたと──」
「庶民ですって?」
令嬢は目を見開き、扇子を閉じる音がひときわ高く響いた。
「ええ……ただの庶民ではないようです。
少なくとも、この巨大な鉄城門を“弾き飛ばす”バケモノと
──対等に戦えるのですから……」
「そっ、そんな、馬鹿な話があってよ......?」
その囁きは、やがて王都中に広がっていく。
“庶民”と“貴族”の境界、血統の力の限界点、
王都の秩序が音もなく揺らぎ始めていた。
◆ ◆ ◆ ◆
黄金の装飾が施され、海を固めたような水晶を幾重にも結んだシャンデリア、
天井の紋章彫刻はまるで魔法陣と見紛う高精細──
王都の栄華をそのまま封じ込めたような空間が、そこには広がっていた。
蒼銀のタペストリーが左右の壁に静かに垂れ、
中央の葡萄酒色のまだら模様を帯びた、鏡面仕上げの大理石の床には
王羊毛で織られた至高のカーペットが敷かれている。
火を落とした燭台すらも荘厳にして冷たく、
まるで時間そのものが静止したかのような静謐が支配していた。
まさにこの空間は、戦火や政治の緊張とは無縁の聖域。
“選ばれし者のための劇場”──
それが、このロールスロイス邸、執務室である。
翡翠の椅子に腰掛けるのは、エスメラルダ。
淡い緑のドレスに包まれたその姿は、まるで宝石細工のように気品を纏い、
ただそこに座しているだけで、空間の重心を捉えて離さなかった。
すらりと伸びる白銀の髪、睫毛に縁どられたその瞳、
明度の高い湖のような、澄み切った碧色。
視線を合わせた者の思考すら、一瞬で凍らせるほどの静かな威厳を放っていた。
彼女の手には、黒檀と白金で装飾された羽ペンが握られていた。
いかにもロールスロイス家らしい、完璧な調和を追求した文具だった。
重厚な扉が閉まる音が、静寂の中で低く響いた。
その音を背にして、
ヴィクトール・フォン・ファルクスは膝を折り、深く頭を下げた。
「……頼む。この通りだ」
エスメラルダは羽ペンを指先でくるりとあしらいながら、
まるで値踏みするかのように、その男を静かに見下ろしていた。
「まぁ。ついこの間まで“エリオス様”に恨み節を仰っていた貴方が、
どういった風の吹き回しですの?」
その声音は、まるで毒入りの紅茶のように優美で、冷たい。
しかし、ヴィクトールは揺るがない。
「……俺は、エリオスに助けられた」
ヴィクトールの声は、どこか砕けていた。
かつての威圧的な口調は抜け落ちたようで、
そこにあるのは後悔と自責、
そしてひとつ脱皮したファルクス家の嫡男だった。
「もう、遺恨はない」
「簡単に信じられるとお思いで?」
エスメラルダの問いは、突き刺すように鋭い。
だが、ヴィクトールは逃げなかった。
「……部下を大勢失った。
それも、私情に塗れたふざけた判断で、だ。
俺にはもう、人を率いる資格はない」
彼の語りには、失ったものの重みが滲んでいた。
「だが──この“血統のしがらみ”は、切っても切り離せない」
そう告げる目は、真っ直ぐだった。
そこにあるのは、過去に縛られた貴族としての覚悟と、滅びかけた誇り。
エスメラルダは黙して、男の瞳を見つめ返す。
やがて小さく、問いかけた。
「……では、そのしがらみを、“誰”のために捧げるのです?」
ヴィクトールは拳を強く握った。
「なら……せめて、それを──エリオスの力に役立てたい。
だから、彼と……話す機会を、与えてくれないだろうか」
執務室に、沈黙が流れる。
その隙間で、エスメラルダの思考が静かに巡っていた。
──エリオス様は、ラグナディア家の“婿”であり、事実上の“所有物”。
彼をロールスロイス家が直接引き取れば、それは“略奪”と取られかねない。
だが、もし彼が“王都における独立した立場”かつ、
"ラグナディアに並ぶ地位"となれば──────
そう。
──すなわち公爵位を得れば、
ラグナディア家の頸木から自由となる。
同時に、その力と地位を与えた者こそが、彼にとっての“新たな主”となるのだ。
しかも、エリオスの力は公爵を優に超えている。
管理下のエウラすら公爵に匹敵し、それを制御できる存在を、
“王都の秩序”として迎え入れるなら、
それは革命ではなく、“体制の刷新”として包み込める。
エスメラルダは静かに微笑んだ。
「貴方のお気持ちは、よく分かりましたわ」
そして羽ペンを刺しもどす動作のまま、はっきりと告げる。
「であるのならば、私の指示に従っていただきます」
「……どういうことだ?」
「エリオス様を、公爵位に推薦いたします」
その言葉に、ヴィクトールの表情が凍りつく。
「……それは……本気なのか?」
「ええ、本気ですわ」
エスメラルダの瞳には、曇りひとつない意志が宿っていた。
「ですが、その為には貴方の“力”も必要なのです」
「……なにを、すればいい?」
「すべては私が用意いたします」
彼女は静かに歩み寄り、ヴィクトールの正面で足を止めた。
「貴方は、最後の“ひと押し”を──
“心のままに”、エリオス様へ伝えていただければ、それでよろしいですわ」
「……?」
困惑する彼をよそに、エスメラルダは美しく微笑んでみせる。
「当家にて、大々的な晩餐会を開きます。
王都の上層貴族がすべて集う、最大の舞台──
その中心に、エリオス様を立たせるために」
「そのタイミング、か……!」
「ええ、けれど──最後にひとつ、条件がございます」
「条件……?」
彼女はふと真顔になり、瞳をまっすぐに向けた。
「エリオス様に、臣従することを──誓えますか?」
ヴィクトールはわずかに目を伏せた後、短く息を吐く。
そして、ひとつ笑った。
「……何を今さら。俺は……もう一度は“死んだ”身だ」
「ふふ……それならば、手をお貸ししましょう」
エスメラルダの笑みは優雅にして、どこか──狂気すら感じさせた。




