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第六十五話

 分厚い魔術障壁に閉ざされた研究棟、第一実験区────────

 

  薬液と魔素の匂いが滲む空気の底で、

 観測水晶だけが水底の月のように揺れていた。

 

  クラナは焦燥で胸を焼きながら、

 血走った眼で計測値の乱高下をにらみつける。

 リグネの魔力曲線は雪崩のように崩れ、

 “龍因子”が泡立つ音まで聞こえそうだった。


 「ああもう!! もう少し! あともう少しなのにぃッ!!」


 クラナが卓を叩く。

 震えたペンが床を跳ね、乾いた金属音が静寂を裂いた。


 リグネの感情は限界域を踏み越えかけている。

 感情の振幅がエウラを上回り、人間としての位相が溶け始めていた。

 再現性に乏しいとまで言われた"未確定魔法"の"究極"ともいえたが、

 クラナの目にはそれは明らかに"エモーショナル"ではなく

 "魂の圧力弁の解放行為"として映っていた。


 このままでは面白いことにはならない。

 

 龍の因子に飲まれてしまう......

 それが示すのは、単に人の皮をかぶった

 "死霧龍そのもの"に成り果てる事だった。


 「これじゃあただの、過去の焼き増しじゃないっ!」

 

 ひと叫びした後、ズンッ、と背後へ気配が滲んだ。

 足音はなく、甘い鉄分の匂いだけが絡み付く。

 クラナのこめかみに冷たい汗が伝う。


 「ああ、クラナ様じゃないですかぁ」

 

  鈴を転がすような声。

 丸椅子をおずおずと回転させ振り返れば、

 レースとフリルを重ねた黒と白のドレス。

 銀灰のロングヘアをサイドテールで束ねた少女──?

 

 リリィが、首を傾げて微笑んでいた。

 淡い薄紅の瞳孔は光を宿さず、ガラス細工より空虚に澄んでいる。


 クラナは唇の端を引きつらせた。


 「……ねえ、その笑顔、どこで習ったの?

 ぜんっぜん似合ってないんだけど?」


 疲労と嫌悪の混じった声が、白衣の裾を震わせた。

 リリィの笑みは微塵も揺れない。


 「そんなぁ、冷たいこと言わないでくださいよぉ」


 細い肩をすくめる仕草は、

 絹の人形に糸を通したように滑らかで──


 "生気が希薄"なのだ。


 クラナは思わず一歩退く。

 背筋に指先でなぞられたような薄ら寒さ。


 「”生きてるみたいな《死体》”って表現がぴったりよ、アナタ。

 お師様の作るナマモノって、どーっか“模造品”っぽいのよねぇ」


  クラナの声には、侮蔑よりも戸惑いが勝っていた。

 リリィはまるで人間の“感情”を再現しようとする演者のようだった。


  笑顔も、声の抑揚も、仕草すらも、どこかズレている。

 ほんの一歩、正解から外れた演技。

 それが逆に、ぞわりとした違和感を際立たせていた。


 「模倣でも、真似でも、ぼく、一生懸命なんです。

 ねえ、見ててくれましたか?」


 リリィは胸の前で白い指を絡め、

 子どもが褒めを乞うように身を乗り出す。

 頬には血色がなく、肋骨のラインがフリル越しに浮き彫りだった。


 「うぅ、キッショいわねぇ」


 クラナは肩を震わせ、背後の器具棚へ肘をぶつける。

 ガラス容器がカラリと鳴った。


 「クラナ様よく言ってたじゃないですか、エモいって。

  ぼくもエモいですか?」


 リリィの瞳が淡蒼から淡紅へ、ゆらりと色調を揺らす。


 「エモじゃなくて、キショ! 気色悪いってこと!!」


 「そんなぁ、じゃあもっとエモくなれるように頑張りますよぉ」


 リリィは嬉々として右手の人差し指を唇へ────────


 ────そして、刃物を引くように頬を裂いた。

 

 ────瞬間、花弁のように舞う鮮紅、

 クラナの白衣へ熱い飛沫が降りかかる。


 「ッ! ちょっと! なにするのよ!!」


 クラナは悲鳴を上げて丸椅子を

 後方に蹴り飛ばすように立ち上がった──が、

 踵が椅子の足に引っ掛かり、尻餅をつくように丸椅子へと落ちる。

 

 リリィは切れた頬を小さくゆがめ、

 血まみれの口元で無垢に笑う。


 「ほら、"痛い"って感情あるんですよ? エモいです、ね? ね?」


 吐息混じりの声が甘えるように揺れ、

 滴る血が床を叩くたび、生々しい音が静寂を侵した。


 「痛覚伝導路があるだけでしょッ!!」


  クラナは返り血を白衣の袖で拭うと、

 拒絶を示すように睨みつけた。

 しかし、リリィは全くと言っていいほど意に介していない。


 「ほら、ちゃんと見ててくださいよぉ」


  言葉と同時に、リリィは自らの胸元へゆっくりと手を運ぶ。

 指先が、薄布の向こうにある柔らかな皮膚に触れ、

 次の瞬間には


 ──赤がまた、弾ける。


 クラナは思わず後退しながら、叫びを放つ。


 「さのさぁッ! 痛みと喜びを錯覚してる時点で、

 ぜんっぜんエモくないからッ!」


 クラナの叫びは、声というより本能の拒絶だった。

 

 良かれと思ってやったことが裏目に出て、

 残念がる子どものように、リリィの表情はやや曇った。


 だが、その曇りさえも、

 まるで誰かに教え込まれた“演技”のように見えてしまうのだ。


 「おかしいなぁ、お母さまは笑ってくれたんですよぉ」


  そう呟いた声には、うっすらと幸福の色が混じっていた。

 その“お母さま”が、どんな存在だったかを考えずとも、自ずと分かる。


 クラナの背中に、ぞくりと粘つく冷気が這い登った。


 「お師様ぁぁぁぁ!! 早くコイツなんとかしてよぉぉぉ!!」


  嗅ぎ慣れた薬液の匂いに、鉄錆の臭気が濃く混ざる。


  クラナはとにかく拒絶する。

 この“歪んだ愛玩人形”と同じ空気を吸うことが、何より耐え難いのだ。


  彼女の叫びを遮るように、遠くの扉が軋んだ音を立てる。

 足音が近づくたびに、リリィの笑顔はさらに無垢な弧を描いた。


 ──純白に塗り直したはずの研究室。

 

 ──けれど今、その白は、じわじわと紅へ染まりつつあった。


 リリィ=カトレア=ユグドノア、一体なにを"齎す"のだろうか......


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