第六十四話
夕暮れが赤く染める空の下、ラグナディア邸の食堂には、
静かな温もりが広がっていた。
長いテーブルに揃う皿と銀器の音がかすかに響き、
揺れるキャンドルの灯りが白いテーブルクロスに柔らかな影を落とす。
エリオス、エウラ、エリュシア、メレーネ、そしてエスメラルダの五人。
日常とは少し違う緊張感が漂う、奇妙な静けさのある夕食だった。
「エリオスを公爵に推挙するというのは、本気で言ってるの?」
ナイフを置いたまま、エリュシアが低い声で問いかける。
その視線は正面のエスメラルダに鋭く向けられていた。
「ええ、もちろんです。本気ですわ」
エスメラルダはワイングラスを揺らしながら、
まるで何の感情も込めていないように淡く微笑む。
「私は一言も聞いていないのですけど?」
「貴女のお父上には、既にお話を通してございます」
「い、いつの間に……」
エリュシアはぎこちなくフォークを止め、目を見開いた。
驚きと焦燥がにじむその顔を、メレーネがちらりと横目で見る。
「エスメラルダ様......それはあまりにも性急に過ぎるかと──」
穏やかな口調だったが、その声には明確な懸念が含まれていた。
「確かに、“急いては事を仕損じる”という言葉もございますけれど、
今はむしろ攻めるべきときでございますわ」
──カチンッ!
その声に重ねるように、突然フォークが肉に深く突き刺さる音が響いた。
エウラだった。彼女の手元から跳ねた肉汁がテーブルに散り、
隣にいたエリオスがナプキンで拭う。
何事もなかったかのように、エウラは無表情のままもぐもぐと咀嚼している。
「公爵位とは、謂わば“既成事実”を以て成されるものですわ」
エスメラルダは冷静に続ける。
「けれど、いきなりの推挙など、無謀にも思えるわ」
エリュシアの声がわずかに震える。
「今回の王都での一件、対処を誤れば当家はともかく、
ラグナディア家にとっても深刻な事態となり得ますわよ」
その言葉に、エリュシアは返す言葉を失う。
「王都城門の修復──
これはロールスロイス家が、
エリオス様の“公爵即位祝典”の一環として花を添えさせていただく所存ですわ」
メレーネは手にしていたカトラリーをゆっくり置き、内心で息を呑む。
(花を添える……? 本当に……?)
「……それは、ロールスロイス家にとって、
どのような“利益”があるのかしら?」
エリュシアが静かに問い返す。
エスメラルダは微笑を深め、エリオスへと視線を向ける。
「計り知れないほどの利益がございますわ」
その瞳は、まるで宝石でも見つめるかのように恍惚としていた。
「ちょっと、私情が過ぎると思うのだけれど──」
エリュシアが抗議しかけたところで、
エスメラルダはすっと視線を逸らし、口元に手を添えて静かに言葉を続けた。
「それに、その子の件もございますので」
エリュシアは一瞬黙り、エウラへと視線をやる。
そこには、肉をほじくり返している無垢で無感情な少女の姿があった。
「公爵たちを凌駕しうる少女──
彼女の管理は、ラグナディア家でも不可能では?」
「“管理”というお言葉、あまりいい思いはしませんね......」
メレーネの声がぴたりと止まり、空気がひやりとしたものに変わる。
「不確定要素を排除するのが“王都の常”。
それも含めて、解決策としてふさわしいのが、
エリオス様への“公爵位の授与"なのです」
「お言葉ですが、
つい最近までただの村人だったのですよ?」
メレーネの言葉には、常識としての戸惑いが滲んでいた。
「もし仮に、エウラが再び暴走した場合──
貴女方には止められますか?」
テーブルを囲む空気が、ぴたりと凍りついた。
メレーネとエリュシアは同時に言葉を失い、俯く。
「それを可能とする唯一の方が、エリオス様でございます。
もし他の公爵が暴走したエウラを“討伐”してしまえば──
庇った当家は無論、ラグナディア家の爵位剥奪もあり得るでしょう」
その言葉に、エリオスはスプーンを置きながら、静かに息をついた。
「まあまあ、とりあえずやってみるよ」
その軽やかな言葉に、場の空気が一瞬だけ和らぐ。
「そんな、軽々しく決めることじゃ──」
エリュシアが叫びかけたその瞬間、メレーネが穏やかに制した。
「──エリオス様お一人であればともかく、
それを支える土台が、今のままではあまりにも脆弱過ぎると思います」
エスメラルダは一呼吸置いて、静かにうなずいた。
その仕草には、まるで既に“策”があるかのような余裕が漂っている。
「今度、当家にて晩餐会を催しますわ」
「……どういう、こと?」
エリュシアが身を乗り出した。
エスメラルダはゆっくりとワインを一口飲み、
まるで何でもないことのように口を開いた。
「大した事、ではあるのですが──」
「エリオス様、あなたには必ずご出席いただきますわ」
「……え?」
エリオスは戸惑いながらも、
隣のエウラの口元をナプキンで拭いながら返す。
「サプライズをご用意しておりますの」
その一言に、テーブルの空気が再びひりつく。
(……あまりにも不気味)
エリュシアが無意識にスプーンを強く握りしめたのを、
メレーネだけが見逃さなかった。
「……あ、ああ、楽しみにしておくよ……」
エリオスの苦笑交じりの返答に、エスメラルダは静かにほほ笑む──




