第六十三話
ラグナディア邸の庭先に、春の陽光がやわらかに降り注いでいた。
手入れの行き届いた花壇には、青紫、白、淡い黄色の花々が咲き誇り、
緑の葉の間を蝶がひらひらと舞っている。
「このお花、なんだろう?」
しゃがみ込んだエウラの小さな指先が、
露を含んだ花弁をそっと摘み上げる。
その隣へ、スカートを流麗に折りたたみながら
銀髪の少女が静かに腰を降ろし、やさしく微笑む。
「ふふ、それはね "リンドウ" っていうの」
「りんどう? そうなんだ!」
「じゃあ、これもりんどう?」
「違いますわ。それは "アネモネ" って言うの」
エスメラルダは器用に、そして手早く花を編み始める。
草花を編む様はまるで熟練の縫製職人のようで、
無駄な動きがひとつもない。
エウラは組みあがっていく色彩のリングに目を輝かせ、
興味津々といった様子で見守っている。
「ほら、出来ましたわ」
エスメラルダは、ふわりとその小さな冠をエウラの頭にそっと乗せた。
「すごい! きらきらしてる?」
エウラは嬉しそうに目を輝かせながら、
頭にのせられた花環を両手でそっと押さえた。
「ええ、とっても」
「なんですぐ作れるの!」
エウラは満面の笑みで、くるりとその場で一回転する。
花びらがひとひら靡く。
「昔、よく作っておりましたから」
エスメラルダの口元が、柔らかく弧を描く。
その笑みは、どこか夢見るような、
けれど遠い記憶に触れるような儚さを含んでいた。
「……あ! お兄ちゃん、見て見て!」
エウラが花環を指さして笑顔を向ける。
「作ってもらった!」
「いいね、似合ってるよ」
エリオスの声に目を細めたエウラが、さらにくるりと一回転する。
その仕草の後ろで、エリオスの視線がふと、
エスメラルダと交錯した。
「エスメラルダ?」
彼女はわずかに笑みを深め、静かに立ち上がる。
「少し──お話しませんか?」
◆ ◆ ◆
屋敷内、エリオスの部屋。
午後の陽光が窓から差し込み、部屋の空気を温かく照らしていた。
「……随分と物が少ない部屋ですわね」
「まあ、欲しい物は特にないしな」
エリオスは気取らず答え、軽く肩をすくめる。
その言葉に、エスメラルダの微笑は一瞬だけ凍りつく──が、
すぐに脳裏で紡がれた"別"の言葉を靄にして続けた。
「でも、本はよく読まれるみたいですわね」
「暇つぶしに、と思ったんだけど、
なかなか暇にならなくてな」
皮肉めいた言い回しに、エスメラルダはくすりと笑う。
彼女は棚の本を一冊抜き取り、
躊躇なくエリオスのベッドに腰を下ろした。
「『500年の孤独』、なんとも惹かれない題名ですこと」
古びた装丁。幾度も開かれたのか、角はやや擦れている。
「その本は英雄になりかけた男の話らしいんだ。
理想を届けようとした少年と、それを支えた少女の話──」
エリオスの声は穏やかだが、その瞳には何か確かな想いが込められていた。
「理想、ですか」
エスメラルダが呟くように繰り返す。
「でもある時、少年は変化の中で孤独と理想の矛盾を抱えて、
少女を切り捨ててしまう」
「けれどその想いは世界に共鳴し、また新たに巡り出す。
そして、思いは途絶えず、
心は再び響き出す──たとえ形が変わっても」
エリオスの声は穏やかで、どこか淡々としていた。
あらすじを感情の起伏もなく、ただ語る。
「なんとも、儚くも美しいストーリーラインですこと」
エスメラルダは本を閉じるように目を伏せる。
そのまましばし、言葉の余韻が部屋に溶けた。
その表情は柔らかく微笑んでいたが、
言葉では表せぬざらついた想いがさざ波のように広がっていた。
「それにしても不思議な話さ。
結局この物語は名前が出てこないからな」
「ふふ、ある種の黙示録なのではないでしょうか?」
「そうには思えないけど……」
エリオスが苦笑したそのとき。
「それよりも──」
エスメラルダが手招きする。
「……?」
戸惑うエリオスの手を、彼女はぐいと引き、
まるで当然のようにベッドの隣に座らせた。
衣擦れの音とともにふわりと立ちのぼるのは、
仄かに甘い香水の香り。
バラに似ていながらも、それより深く、
どこか官能的な香りが鼻先をくすぐった。
「エリオス様、今あなたは王都中から注目されているのです」
「……薄々、分かってはいるよ」
エリオスは視線を前に逸らしながら、少しだけ姿勢を正す。
けれど、ぴたりと並んで座るエスメラルダとの距離は変わらない。
「貴族たちは立場を決めかねております。
当家とラグナディア家は貴方の味方ですが、
他の6公爵は立場を鮮明にはしておりません」
「6公爵?」
「4大公8公爵はご存じないでしょうか?」
「初耳だよ」
「東西南北の4大公はとりあえず説明を省かせて頂きますが、
8公爵はそれぞれ、ロールスロイス、ラグナディア、マイバッハ、
ダイムラ、シトロエン、メルセーデス、アウディ、クライスラがあります」
「多いな」
「覚える必要はないですわ。
でも8つも頭があると融通が利かないものです」
エスメラルダの瞳がすっと細められる。
「だからこそ、私は貴方を "9番目の公爵" に
推挙したいと思っております」
「えっ?」
エリオスは思わず声を上げた。
あまりにも現実離れした提案に、反応すら遅れる。
覚悟の問題もあるが、それ以前だ。
エスメラルダは微笑を絶やさぬまま、
けれど瞳の奥はひどく真剣だった。
「ご安心なさいませ。私がついております」
「家柄も血筋もないんだぞ?」
自嘲気味な言葉が口をついて出る。
だがエスメラルダは眉一つ動かさず、むしろ穏やかに首を振った。
「秩序も確かに大切……ですが、そうも言ってられないのです」
彼女の目がふと陰を帯びる。エウラの姿が脳裏をよぎるのを、エリオスも感じた。
「ラグナディア家と当家、そしてイゼルカ様も同意されておりますわ」
(あの人なら“ケラケラしてよかろう”とか言いそうだな)
エリオスは内心で苦笑する。
「王都は団結せねばなりません」
エスメラルダの口調は静かながら、決して揺らがなかった。
それは「宣言」ではなく、「既定事項」のようにすら聞こえる。
「俺に旗は無いよ?」
「ふふ、その時はロールスロイスの旗を掲げて頂きますわ」
エリオスの表情が曖昧に揺れる。
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか分からない──
だが、その目だけは冗談ではなかった。
エスメラルダはそっと、エリオスの手を取る。
「暴挙、とも言われてしまうかもしれませんが、
この9番目の公爵位は前代未聞です。
賊軍となってしまう覚悟も必要になります。
その時は──」
「その時は……?」
「私は王都を "滅ぼして" でもあなたを守りますわ」
その言葉に、エリオスの肩が微かに揺れる。
「それは──被害が……」
エスメラルダの握る手が、さらに強くなる。
彼女は"本気"だ────────
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「おにいちゃん、これってどうやって飲むの?」
エウラが嬉々としてカップとソーサーをひとつずつ、
上下逆に持って現れる。
「……どなたから教わったのですか?」
「お姉ちゃん」
「メレーネは多分しっかり教えてるよ……」
エリオスは頭を抱え、ため息をついた。
「ふふ、まったく面白い子ですこと」
エスメラルダの笑みに、どこか狂気めいた揺らぎが浮かぶ。
だがその表情には確かな決意と、異様なまでの執着が潜んでいた。
──王都を滅ぼしてでも。
その言葉は、もはや冗談では済まされないほどの熱を帯びていた。




