第六十二話
──ラグナディア邸、夜。
深夜の風が静かに吹き抜ける、石造りのバルコニー。
天蓋のように広がる夜空には星々が瞬き、薔薇の香りが緩やかに漂っていた。
暖色のランプが控えめに灯り、
丸テーブルの上にはティーセットと砂糖壺が並んでいる。
カップの中の紅茶はすでに冷めかけていたが、
ふたりにとっては、その温度よりも大切な何かが、ここにあった。
エリオスは、バルコニーの欄干にもたれながら空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「なあ、エリュシア」
「……なに?」
椅子に座っていたエリュシアは、
ゆるく茶を口に運びながら顔を上げる。
いつになく真剣なエリオスの横顔に、自然と背筋を正した。
「ありがと、な」
「え? どういうこと?」
茶を飲みかけた口元に戸惑いの色が浮かぶ。
「どういう事ってのがどう言う事だ」
エリオスは言葉を切りながらも、
どこか照れくさそうに肩をすくめた。
「だって、その……感謝されるようなこと、私……してないわよ?」
「聞いたんだ」
エリオスは夜風に吹かれた髪を手で払いながら、そっと視線を落とす。
「村の人たちから」
「……?」
エリュシアは瞬きを一つ。
言葉の続きを待つように、静かに耳を澄ませた。
「俺は最初、この関係からさっさと抜け出すために、
軍で立場を作ろうとした」
バルコニーの手すりに肘をついて、
遠くの街灯の灯りを見つめながら彼は続ける。
「でも、実際はそんなに甘い話じゃなかった。
……戦いっていうのは、村を守った時とはまったく違った」
「それは、そうね……」
エリュシアもまた、幾度となく剣を振るった身。
戦場の厳しさは骨の髄まで理解していた。
「それでも早く独立して、家族を、村を守りたいと思った」
言葉の中に滲む焦燥と決意。
そのどちらも、彼の“優しさ”が源にあることをエリュシアは知っていた。
だからこそ、次に紡がれる──
紡がれて"しまう"言葉に静かに耳を傾ける。
「でも、今はむしろ……
恩の報いを先に返さないといけない気がしてる」
「恩……?」
エリュシアが問い返すと、エリオスは短く頷いた。
「ラグナディア家の元で、村の人たちが仕事をしてるのを見た。
皆、生き生きとしてたんだ。……母さんも、ここの食堂で働いてるみたいで」
◆ ◆ ◆ ◆
ラグナディアの屋敷、広々とした厨房で白いエプロンを身に着けた母。
鍋の蓋を片手で押さえながら、湯気越しに笑顔を見せ、
忙しなくも丁寧な手つきで料理をよそっていた。
その傍らでは、見慣れた村の男たちが薪を運び、
女たちが皿を並べ、皿洗いの音がリズムのように響いていた。
どこかぎこちないながらも、彼らの動きには確かな誇りがあった。
“王都で働く”ということが、ただの生活の糧ではなく、
彼らにとってひとつの「誇らしい日常」になっている──と。
その空気が伝わってきた。
◆ ◆ ◆ ◆
エリオスは苦笑交じりに言葉を重ねる。
「エウラと一緒に食べに行ったら、言われたよ。
“エリュシア様にありがとうって伝えて”ってな」
「それは──公爵家の娘としては当然の……こと、よ」
少しだけ頬を赤らめながら、視線を逸らすエリュシア。
声の調子は努めて平静を装っていたが、
その言葉の端にはほんのわずかな震えがあった。
真正面から“感謝”を向けられたことが、
彼女の胸の奥にそっと、あたたかな波紋を広げていく。
「責任感ってやつか?」
「そっ、そうね!」
取り繕うように返しながらも、
心の奥では誇らしさが芽生えている。
そんなどこかそわそわするエリュシアに、
エリオスは微かに笑った。
「なにか、どこかで恩返ししないとな」
「恩返しなんて……」
そのとき、エリュシアは思いついたかのように、
ふと真剣な目を向ける。
「なら、ひとつだけ聞いてくれない?」
「……答えられる範囲なら」
エリオスの返事に、エリュシアは小さく息を飲む。
胸の内で何度も言葉を反芻しながら、けれど唇はなかなか開かない。
そのわずかな逡巡の間に、夜風が髪を揺らし、
薔薇の香りがすっと彼女の横顔を包んだ。
手のひらは膝の上で強く握りながら、
そして、彼女はそっと唇を開く──
「──“婚約関係”、続けて欲しいの......」
静寂が降りる。
紅茶の香り、星の光、夜の静けさ。
そのすべてが止まったように感じられた。
「ももも、もちろん、これからは対等な関係で、よ!?」
エリオスのキョトンとした表情に、エリュシアの焦りが加速した。
そして次いで口を滑らせて──
「だって……貴方を──」
だが、言いかけた言葉を遮るように、エリオスがふっと笑た。
「ああ、いいよ」
「そんなあっさり──!?」
エリュシアは思わず椅子から立ち上がる。
その拍子にティーカップが軽く揺れ、カランと澄んだ音を立てた。
「この剣にも、かなり助けられてるしな」
腰に下げられた《エターナルシェア》の柄をぽん、
と軽く叩くエリオス。
「(──あっ、そっちかぁ)」
自身の血統魔法に負けた──。
少し口を尖らせたエリュシアの横顔に、月明かりが滑る。
「それに、メレーネの思いを受け取った時、知ったんだ」
「……?」
エリュシアが首を傾げたその瞬間、
エリオスはふいと視線を逸らした。
そして小さく、囁くように──
「──エリュシアは、優しいんだ、ってな」
「な、な、なにをっ──!」
途端に頬を染めて、言葉を失うエリュシア。
視線を宙に泳がせるその仕草が、
どこか少女のようで、エリオスの口元も緩む。
「エリオス、私──」
その瞬間。
「「もういやだぁぁぁ!!」」
突如、庭の茂みをかき分けて飛び出したのは、
勢いそのままに夜の庭を駆けてきたエウラだった。
「待ちなさいエウラ! 勉強が終わってないわ!」
続いて、片手に鞭を持ったメレーネが庭から現れた。
眉間に皺を寄せながらも、その顔はどこか呆れ半分、苦笑半分。
「へへーん、逃げてやるもん!」
エウラはぴょんと段差を飛び越え、バルコニーに駆け上がる。
「ちょ、ちょっと!? 夜なんだけど!? 空気読んで!」
エリュシアの叫びもむなしく、
エウラはエリオスの隣に華麗に着地する。
「おねえちゃんに! 遅くなるやつ! やって!」
にこっと笑うエウラの顔に、エリオスは苦笑し、
エリュシアは両手を挙げて肩をすくめた。
メレーネが鞭を片手に、
息を荒げてバルコニーに上がってくる。
「私" に" は" 効" き" ま" せ" ん" !!」
その場に集まった“家族のような空気”に、
誰ともなく笑いがこぼれた。
そして夜空の下、月は静かに彼らを見下ろしながら、
優しく輝き続けていた。




