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第六十一話

 ラグナディア邸の朝は、柔らかな陽の光とともに始まる。

 しかし、いつもの日常にもう一人加わっている新たな日常。

 屋敷の食堂に注ぐ朝日は、テーブルの上の銀食器を温かく輝かせ、

 窓辺には新鮮な花の香りが漂っていた。


 「お兄ちゃん、ちゃんと食べて」


 不意に響いたその声に、エリオスはスプーンを持つ手を止め、

 ゆっくりと声の主に視線を向ける。


 ──エウラだった。


 エウラは十日前とはまるで違う柔らかな表情を浮かべ、

 小首をかしげて彼を見つめている。

 その表情には、かつて戦場で見せた鋭さも殺気もなく、

 ただ純粋な気遣いが宿っていた。


 「あ、ああ。大丈夫だよ、エウラ。ちゃんと食べてるから」


 エリオスはくすぐったい感覚に苦笑をこぼしつつ、

 言われるままにスプーンを口へと運んだ。


 「わたし、こんなに食べてる。お兄ちゃん、足りない」


 「いやいや、そんなに無理だって──」


  そう言いながら、エウラは目の前の皿に盛られたパンを、

 もぐもぐと勢いよく口に運ぶ。

 スープの器はすでに空になり、サラダも大皿3つが均等に半分ほど消えている。

 彼女の小柄な体からは想像できないほどの食べっぷりに、

 使用人たちも目を見張っていた。


 メレーネとエリュシアはその様子を微笑ましく眺め、目を細める。


 「すっかり"お兄様"として定着してしまったわね」


 エリュシアが楽しげに言うと、メレーネも同意するように頷いた。


 「ええ、エウラがここまで心を開くとは……正直驚いています」


 二人の声が届いたのか、エウラはちらりとメレーネを見る。

 その目はまだ少し警戒しているようだったが、

 それは明らかに十日前とは違う柔らかさを帯びていた。


 「エウラ、朝食の後は付き人としての勉強ですよ」

 

 「……げっ」


 メレーネが穏やかに、しかしはっきりと言い聞かせる。

 エウラは少し困惑した表情を見せたが、

 すぐにエリオスの袖をぎゅっと掴んだ。


 「あなたも立派な付き人になるためには学ぶことも大事です」


 きっぱりと告げるメレーネに、エウラの瞳が揺れる。

 だがその表情は嫌そうだが、どこか楽しそうにしている。


 「……がんばる」


 エリオスはその様子に肩をすくめ、温かな目を向ける。


 「メレーネ、あんまり厳しくしすぎないでやってくれよ」


 「エリオス様、エウラのためですよ。私も心を鬼にします」


 メレーネが真顔でそう返すと、

 エリオスは困ったように笑った。

 思い出すのは10日間貴族マナー講座。


 そんなやり取りを見守っていたエリュシアは、

 ふと胸に小さな痛みを感じる。


 (……この平穏がずっと続けばいいのに)


 王都の貴族社会は、この静かで穏やかな日常とは対照的に、

 まるで大嵐の前夜のような緊張に包まれている。

 

 特に庶民が王都を守って"しまった"と捉える貴族も多く、

 その事実は、血統による支配という絶対の価値観に、

 大きな深いひびを入れた。


 ──何者でもなかった一人の青年が、

 貴族でも、王家でも、軍属ですらなく、ただの“村の少年”が、

 貴族たちが震え上がる“脅威”と対等に渡り合ったという事実。


 それは否応なく王都中に広がり、

 誇り高い貴族たちのプライドと階級意識を、

 じわじわと焼き焦がしてしまった。


 “例外”を許さぬ世界で、

 彼は確かに“例外”となってしまったのだ。


 エリュシアはそのことを理解していた。

 理解していたからこそ、不安が胸に巣を作る。


 エリオスが、もしこのまま英雄として名を上げ続けたら。

 それは同時に、貴族社会との“軋轢”も育てることになる。

 そしてきっと、彼はその渦の中心に立たされる。


 さらに困るのがエスメラルダだ。

 最近は特に何を考えているのか分からない。


 ──必要とあらば、“すべて”


 そう語ったエスメラルダの真剣で、

 それでいて何か"闇"を孕んだ一言。

 そのことを思い出すたびに、不安がエリュシアの胸を締めつけた。


 「......エリュシア様?」


 心配げに見つめるメレーネの声で、

 エリュシアははっと我に返った。


 「ああ、ごめんなさい。なんでもないわ。

 ただ……この光景をずっと見ていたいと思っただけ」


 メレーネは優しく微笑む。


 「ええ、私もです。私たちが守るべきものが、

 また一つ増えたということですね」


 食卓の光景は穏やかで、温かかった。


 食器の触れ合う音、穏やかな会話の囁き、そしてエウラが時折見せる笑顔。


 エウラ自身も、まだ自分の変化をはっきりとは理解していなかった。

 ただ、自分が今感じている幸福感が、

 以前の孤独や痛みとはまったく違うものだということだけは分かっていた。


 「お兄ちゃん、パン、美味しいよ」


 「そうか、良かった」


 「いつまで食べてるんです、行きますよ!」


 メレーネがエウラの首根っこを掴む。

 子猫であれば暴れないが、エウラは足掻いた。

 しかし結局、一斤の食パンを持っていくことを許される代わりに、

 勉強部屋へと連れていかれるのだった。

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