第六十話【第二章】
──王都の夜は冷える。
遠く、鐘の音がひとつ、ふたつと空気を震わせながら消えていく。
高くそびえる城壁は月明かりを浴び、
白銀の輪郭を描いていた。街路を照らす灯火は、
昼の喧騒を忘れたように穏やかな光を零し、石畳には人の影もない。
龍の因子と負の魔力の激突の果て、
ようやくラグナディア邸へと
戻ってきたエリオスたちを迎えたのは、
屋敷の石畳に反射する淡い光と、微かに香る花の匂いだった。
「……いろいろと、疲れたわ」
エリュシアが呟く。
その声は張り詰めた糸が緩んだような、
どこか脆く、けれど確かな響きを持っていた。
しかし、どこか悪くないという気持ちもあった。
その視線の先、メレーネの隣にちんまりと立っているエウラ。
どこか幼くて、それでいて何かしっくりとくることに、
エリュシアは小さく笑うと息をついた。
エウラは何も言わず、ただメレーネの横を
黙々と小さな影のようについてきている。
ただ、エリオスの背を見つめるその瞳には、
ごくわずかな『温度』が宿っていた。
ラグナディア邸の扉がゆっくりと開かれる。
「お帰りなさいませ、エリュシア様」
応対した老執事の声音には、
長い間主を待ち続けた者の安堵が滲んでいた。
エウラはほんの一瞬だけ躊躇ったが、
メレーネが小さく手を伸ばすと、
まるでそれを頼りにするように、その袖を指先でそっと掴んだ。
────こうして実験体としてではなく、メレーネの妹として、
邸に足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆ ◆
重厚なカーテンが夜の冷気を遮り、
僅かに揺れる炎が暖炉の中でパチパチと囁くように揺れる。
暖炉の前には、コの字型に配置されたソファが三つ。
エリュシアが暖炉の正面のソファに座るのを待ち、
メレーネもまた座る。
エウラはソファの傍らに立ち、
そわそわとした仕草で足元を落ち着きなく動かしている。
視線の先には──エリオス。
その気配を感じた瞬間から、
エウラの表情がほんの僅かに緩んだのを、メレーネは見逃さなかった。
エリオスは、まるで空気を読むように
暖炉の右手側へ歩み寄り、ふわりと腰を下ろす。
クッションが沈む音と同時に、エウラの体がぴたりと動きを止めると、
小さく駆け寄っていた。
何のためらいもなく、エリオスの隣に腰を下ろす。
次いで靴を足で器用に脱落させると、
膝を胸に引き寄せて、エリオスに寄りかかる。
じっと揺れる炎を見つめるその横顔は、
災厄を齎す死霧龍の力を行使する者、
とは思えないほどに、幼く、柔らかだった。
火の粉がぱちりと跳ね、部屋の影が一瞬だけ揺れる。
そのわずかな光の変化がエウラの瞳に反射する。
「……ここでいいの?」
エリオスの問いに、エウラはこくりと小さく頷いた。
「……ここ、おちつく」
その言葉に、メレーネは胸を締めつけられるような思いを覚える。
妹は、ようやく帰ってきた。
でも──どこまでが『自分の妹』で、どこからが『死霧龍』なのか、
その線引きは曖昧だった。
「随分と懐かれているのね」
エリュシアの声にメレーネは優しく言葉を返す。
「……まるで、本当の兄妹みたいです」
「ふふ、確かに。
でもいいの? あなたの妹が取られちゃっても」
暖炉の炎に揺られるメレーネの横顔は穏やかだった。
「エウラにとって、真正面から衝突できる人で、
それを受け止められたのもエリオス様だけでしたから......」
静かに視線を落とす。
「私は姉としてエウラを受け止めることは出来なかった──」
──それは違う、とエリュシアは言いたげに、
優しく、それでいてどこか確信めいた言葉を紡ぐ。
「こうなる為に、あなたも彼も
“歩み寄ること”を諦めなかったからよ。
私にもそれは出来なかったわ」
エリュシアは、淡く微笑んでいた。
エウラがスース―、とエリオスにもたれ掛り、
横で寝息を立てている。
「……不思議ですね。
こんなふうに、自然と……家族のようになれるなんて」
その言葉に、メレーネの胸にぽつりと小さな灯がともる。
「エウラは、ようやく“誰かの隣”で眠れるようになったんですね」
「ええ。眠れるようになった……
それだけで、どれだけ救われるか、分かる気がする」
彼のそばにいれば、エウラは少しずつ“自分自身”を取り戻せる。
血ではなく、想いで結ばれる“家族”という絆が、
確かに芽吹き始めていた。




