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第五十話

──────ラグナディア公爵家屋敷


 遠く東の空、墨汁を垂らしたような、

 黒い筋のようなものが浮かんでいた。

 それは狼煙か、はたまた死の霧か

 ──ある者はそれを、「魔物の影」と呼んだ。


  最近、王都へと向かう主要な街道では、

 原因不明の襲撃が相次いでいた。

 被害を受けた村はすでに三つ、物資を積んだ輸送隊が立て続けに襲われ、

 交易路は機能不全に陥りつつある。

 

 不審な点は魔物の行動は無秩序でありながらも、

 その歩みは漠然としつつも、まっすぐと王都へと伸びている。


 それは偶然の連続にしては、あまりにも不自然だった......


 エリュシアとエスメラルダ。

 かつての“ライバル”にして、

 今は“共に王都を見つめる者”として並ぶふたり。


 「……聞いてよ。ヴィクトールが、また無茶を言い出したの」


 いつもよりわずかに低い声で、エリュシアが切り出す。

 開かれた資料の上に視線を落としたまま、

 その表情には憂いと疲労の影が差していた。


 「『もう時間がない』……とか何とか言って、

 婚約を正式に承諾しろと迫ってきたわ」


 「まあ……随分と、急いていらっしゃるのね」


  エスメラルダは一見、穏やかな口調で返す。


 「拒否されてるのよ? 

 人の気持ちを汲む努力が足りないわ!」


 「情熱的なのはいいことですけれど......

 ”今”は無茶が過ぎると思いますわ」


 そう返したエスメラルダの内側には、違う感情が揺れていた。

 それは安堵に似た、けれど薄く濁った思いが渦巻く。


 (……もし、このままヴィクトールと

 エリュシアがくっついてしまえば)


 その戦いからの“逃げ”にも似た甘えを、

 エスメラルダは一瞬だけ胸に浮かべたが、

 すぐにかぶりを振るように思考を押しやった。


「もちろん断ったわ。そしたら怒って……

 『ならば貴様らラグナディアは終わりだ』とか言って、

 騎士団を連れて王都を守るとまで言って出ていったの!」


「……なんともまあ、”蛮勇極まれり”ですわね」


 エスメラルダは瞼を伏せて呟く。

 その声音には、確かに憤りの色もあった。


 ──けれど、それと同じくらい強く、

 彼女の中では別の懸念が顔を出し始めていた。


 「今、王都の意識は東部……辺境のほうに向いていつつ、

 どこか危機意識に欠ける状況。

 そういえば、あなたのお父様、エドモンド公も

 北部都市の方での会議に行かれているのでしょう?」


 「ええそうね。

 その状況で、誰がこの都の“心臓部”を守るの?」


 その問いに、ふたりは同時に沈黙した。

 思考が、静かに交差する。


 「私の父も北部での会議に出てしまっているので、

 事実上当家の指揮権は私にありますわ」


  エスメラルダの言葉にエリュシアは頷く。

 エリュシアも同様にエドモンド不在時の際は指揮権を持っていたのだ。

 しかし、脳裏に過るのは"死霧龍"の存在だった。


 「......いくら頭数を揃えても、守り切れるかどうか」


 「ふふ、ヴィクトール様がなんとかしてくれるのではないですか?」


 「痛い目を見て欲しいとは思っているけれど、

 死ねとは言ってないわよ?」


 彼女の中には確かな怒りがあったが、

 同時にヴィクトールの暴走に対する戸惑いが透けていた。


 「随分と期待値が低いこと......」


 エスメラルダは紅茶のカップを置きながら、

 わずかに視線を横へ流す。


 「……エリオス様は、いつ来れるか分かりませんものね」


 エスメラルダのその言葉は、かすれた囁きだった。

 期待と不安がないまぜになったその言葉に、

 エリュシアはゆっくりと頷く。


 「相手もいつ攻めてくるか分からない、

 予想を外している方がまだマシだけど──」


 「──王都に手を出すのであれば、

 なにか決定打を持ち込むはずですわ」


  エスメラルダとエリュシアの間の共通認識。

 東部辺境はあくまでも囮である、という読みの中で、

 相手の決定打に対して対抗しうる反撃の一手が足りない。


 「今は私たちだけで、何とかするしかない……」


 「そのためには、兵力の結集が必要となりますわ」


  エリュシアは、迷いながらも言った。


 「ラグナディア家と、ロールスロイス家……

 両家の兵を連合軍として運用する。

 それしか今の王都を守る術はないと思う」


 「ええ、私も同意します」


 エスメラルダの返事は早かった。

 だが次の瞬間、彼女はわずかに首を傾け、艶やかな微笑を浮かべた。


 「ただし、一つ条件がありますわ」


 エリュシアは嫌な予感を覚えながら問い返す。


 「……何?」


 「その連合軍の“指揮権”

 ……こちらに預けていただけますか?」


 わざとらしいほど丁寧な口調。

 けれどその瞳の奥に宿る光は、冗談ではなかった。


 「……それは」


  エリュシアの返答は、明らかに躊躇いを含んでいた。

 だが、王都に迫る危機、エリオスの不在、父たちの留守。

 すべてを踏まえて、彼女は唇を噛み、そして頷いた。


 「……分かったわ。任せるわよ」


 「ありがとう、エリュシア"様"」


  エスメラルダは優雅に微笑んだ。

 だがその笑みの奥には、言葉にできない覚悟と、

 確かな野心が光っていた。


──────────王都アルサメル城門前


 その中央、黒地に銀の刺繍を施した軍装をまとい、

 まさに若き"将"として堂々と立つ男の姿があった。


 ヴィクトール・フォン・ファルクス。


 彼の瞳はまっすぐ東を見据え、

 その先に“手柄”と“栄光”が待ち構えていると信じて疑わなかった。


 「準備は整ったな......」


  ヴィクトールは侯爵家の嫡男として期待された男だった。

 十数世代先まで脈々と受け継がれた名家の血筋。

 先代は初代王の側近の1人であったとされ、

 魔物の大侵攻を退けたとされる

 伝説の将軍「セヴァリウス・ファルクス」に端を発する。


 ”貴族たる者、最良であれ”とは、

 まさに家訓であり、彼の信念でもあった。


  ファルクス侯爵家の戦旗が風で悠々と振れながら、

 王都郊外の広場には規律整然と騎士たちが集結している。


 「諸君! 聞け! 今、王都は危機に瀕している。

 貴族たちは席に座ったまま議論を繰り返し、民は不安に目を伏せ、

 そして……ラグナディアもロールスロイスも、未だ動かぬ!」


 彼の声に、騎士たちの間に緊張が走る。

 それは鼓舞か、それとも宣告か。


 「だが、我らは違う! 

 この王都1000年貴族たるファルクス家こそが、

 王都を守る盾であり、剣であるッ!

 そして私、ヴィクトール・フォン・ファルクスこそが──

 “侯爵”としてこの混迷を収めるにふさわしい者だ!」


 ヴィクトールは手綱を握り直し、ゆっくりと一歩馬を進める。

 そして天を仰ぎ、言い放った。


 「騎士諸君! 

 ”アルサメル1000年の歴史”に再び名を刻もうではないかッ!!」


 その言葉と共に、ファルクス家の騎士は一斉に剣を掲げた。

 彼らの瞳に宿るのは忠誠か、野心か。

 しかし彼らの猛々しい"声"が地を鳴らしたのは確かだった。


  巨大な城門が今まさに開かれる。

 壁の外は広大な名声を稼ぐための狩場のように見えた。

 ヴィクトールは軽く群衆を一瞥するも、

 見送る人々の中にエリュシアの姿はない。

 この劣等感にも似た酷くプライドを傷つける現実に、

 焦りすら混じった心境は、より暗いものになる。

 

 (エリュシア……いつまでその“庶民”に心を預ける気だ?)


 脳裏を過るのは、あの異質な男──エリオスの姿。


 礼儀も血統も備えていないにも関わらず、

 それでも手放そうとしない。

 

 (あれは公爵家に相応しい男ではない……)


 胸の奥に渦巻く感情を抑えきれず、彼は拳を強く握りしめる。


 「この出陣で、全てが変わる……」


 傍らに控えていた家臣、グランツ・オルファードが、

 やや不安げな表情を向ける。


 「ですが、侯爵。敵の数も規模も未だ不明です。

 ……まずは数騎での偵察程度に留めるべきかと」


 「黙れ。手柄を立てるには、相応の覚悟が要る」


 ヴィクトールは一蹴するように声を放ち、

 銀のオーバーコートを翻す。


 「俺がこの王都を守ってみせる。

 エリュシアが振り向かぬのなら、その“結果”で振り向かせるまでのこと」


 それは、軍略でも理屈でもない。

 むしろ、歪んだ誇りと焦燥、そして揺らぐ自我の叫びだった。


 騎士たちが次々に馬を駆り、戦列を整えていく。

 銀の騎士団は、やがて来る“黒き霧”の予兆にも

 気づかぬまま、郊外へと進軍していった。

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