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第四十七話

 学園図書棟の奥深く──

 エリュシアは深く椅子にもたれかかりながら、

 重厚な魔導書の頁を静かにめくっていた。

 その仕草にはわずかな倦怠と疲労がにじみ、

 いつもの鋭い目の輝きは少しだけ曇っていた。


 「……珍しくお疲れですね、エリュシア様」


 ふいに差し込まれた静かな声に、エリュシアは顔を上げた。

 見上げる視線の先に立っていたのは、

 長い白金の髪を緩く結った中性的な姿、カシール・フォン・フィアートだった。

 彼は深い紫の瞳で彼女を見つめ、

 その視線には一切の揶揄も同情も含まれていなかった。

 ただ、理知の光がその瞳の中で揺れている。


 「……否定はしないわ」


 エリュシアは淡い笑みを浮かべた。

 しかしその口元には力がなく、肩のラインも、

 いつもの誇り高い姿勢とはどこか違って見えた。


 「辺境の報告も、誰も耳を貸さない。

 ……私の声は、もう意味を持たないのかもしれないわね」


 カシールは手にした書物を静かに閉じ、薄く微笑む。


 「いえ、私は非常に興味深いと感じましたよ?」


 エリュシアはわずかに目を細めた。

 自嘲ともとれる微笑みが、その唇に浮かぶ。


 「あら、貴方が忖度をするなんて、意外ね?」


 「忖度? いえ、そんな無駄な事はしない主義です」


  そういうと、カシールはレポートの切り抜きを取り出し、

 赤く線で引かれたところをエリュシアに見せる。


 「辺境に龍の力、それも霧となると"モルフォドラ"でしょうか」


 エリュシアはその言葉で、

 彼が"忖度"の為に話しかけに来たのではない事を察した。


 「エリオスから聞いた話だと、

 その力を"少女"が持っていたらしいわ」


 カシールは警戒するように周囲に目配せすると、

 小さな声だが、確信を持ったように話す。


 「いずれ血統魔法を凌駕する『技術』が生まれることは、

 薄々察していましたが……想定より、ずっと早く兆しが現れたようですね」


 「......どういうこと?」


 エリュシアはカシールに合わせて声のトーンを落とし、

 わずかに眉をひそめた。


 「この王都が“血統”を絶対の価値としている以上、

 その枠外にいる者が禁忌に手を伸ばしてでも、

 その力を超えようとするのは避けられない。

 私のような研究者にとっては、ある種の"ロマン"ですが……

 それが現実になるとは、思ってもみなかったですよ」


  カシールの声は淡々としていたが、

 その瞳の奥には揺るぎない確信の光が灯っていた。

 夢想家ではないが、冷めた現実主義者というわけでもない。

 理論と現象の接点を見出した時だけ、

 彼はほんのわずかに心を熱くするのだ。


 エリュシアはその言葉に一瞬だけ黙し、目を伏せた。


 「……そんなものね」


 囁くように漏れたその声には、嘲りでも絶望でもない。

 ただ、長く貴族という枠の中で育った者にだけ宿る、

 深い疲労の色が滲んでいた。


 カシールは続ける。


 「この王都の空気は、変わることを恐れている故の"無関心"。

 誰かが血を流し、命を懸けて変えようとしても……

 結果が出るまで、誰もその価値を認めようとしない。

 つまり必要なのは"犠牲覚悟の証明"なのですよ」


 エリュシアはカシールの狂気を引き出してしまったのだろうか、

 といった困惑した表情をする。


 「しかし、それが悪とも私は思えないのです」


 「……どうして?」


 問いかけるエリュシアの声は小さかったが、そこには確かな期待があった。

 誰かに、せめて“まだ可能性がある”と言ってほしかったのかもしれない。


 カシールは、そっと本のページを一枚めくる。


 「変化は常に、理解の外側から始まるものです。

 理解できないものに、人は最初“否”を突きつける。

 ですが、それを“理解しよう”とする者が一人でもいれば──


 その先には、理論が"必ず"追いつきます」


 そして、やわらかく微笑んだ。


 「……貴族社会とて、貴方の婚約者様だってその例外ではありませんよ」


 カシールは数歩歩み寄り、懐から取り出した革張りの

 手帳をエリュシアの前に差し出した。

 その中には、緻密な魔力構造の解析図と、

 幾何学的な記号がびっしりと並んでいた。

 幾つかの箇所には、カシールの細やかな注釈が記されており、

 従来の魔法理論とは明らかに異なる新たな概念が書き加えられていた。


 「私なりに、エリオス様の魔法を、少しばかり分析してみました」


  エリュシアの指がぴたりと止まり、手帳の頁を凝視する。

 その瞳にわずかに驚きと期待が混じりはじめる。


 「彼の『クロノディレイ』……あれは、ただの遅延現象ではないのです。

 寧ろ“遅延”というのは、

 魔力生成過程における“副産物”だと考えています」


 カシールの声は落ち着いていたが、そこには確固たる確信がにじんでいた。


 「魔力とは、通常は術者の内部に蓄積された『容量』に依存し、

 それを『消費』することで魔法を発動します」

 

 エリュシアは頷く。


 「そして魔力生成の過程は食事、睡眠、といった基礎代謝、

 つまり"環境"や"血統"に大きく左右されることまでが今証明されている事ですが......

 エリオス様の魔力にはその“生成”の概念が存在しないように見えるのです」


 カシールは、傍らの天球儀を見上げながら続けた。

 青白く光を放つその球体は、

 まるで彼の言葉に呼応するかのように、静かに輝いていた。


 「彼は、まるで空間そのもの……即ち『場』から魔力を直接、

 引き出しているかのように見える」


 「『場』って……?」


 「はい。この世界には、観測できない微細な魔力の

 “揺らぎ”が常に漂っています。

 詳細はやや省きますが、正の魔力と負の魔力が絶えず生成され、

 瞬時に相殺しながら消滅していく。

 理論上は存在するが、誰も干渉できない──

 そのレベルの魔力です」


 カシールはページを指でなぞりながら、淡々と続けた。


 「彼はその“揺らぎ”の中から、手段に関しては不明ですが、

 正の魔力だけを取り出し、無制限に魔法を生み出している。

 ……理論上、彼は“魔力を生成し続ける存在”なのです」


 エリュシアは、息を呑んだ。


 「そんな……本当に、尽きることが無いの……?」


 「ええ。ですが代償もあります」


 カシールの指が、記録の一節を示す。


 「一方で負の魔力は放出され続け、周囲の魔力と干渉し、

 結果的に遅延現象”を引き起こす。

 ……それが、おそらく『クロノディレイ』の正体です」


 「……信じられないわ」


 驚きを隠せず呟いたエリュシアに、カシールは静かに頷く。


 「これならば魔法は使用できないはずなのですが───」


 「この"負の魔力"すら婚約者様は"無意識化で操作"しているのでしょう。

 つまり、濃度を極限まで高めてしまえば、対象の術者の魔力は

 常に打ち消されてしまう」


 「私が限定的にしか使えなかったのは、そう言う事だったのね......」


  エリュシアは辺境での戦いを思い出した。

 カシールの話した通りなら、

 クロノディレイとは魔力の生成過程上の"副産物"であって、

 魔法そのものに介入する魔法ではなかったのだ。


 だからこそ、運命共有(エターナルシェア)を施された剣によって、

 エリュシアの血統魔法を恐ろしいレベルで常時使用していながら、

 相手を止めることができる、この理屈だったのだ。


 「信じられないでしょうね。

 でもこの理論は、既存の魔法理論の“外縁”ではなく、

 魔法という概念の“核心”に据え置かれる可能性すらある。

 だから、きっと時間が経てば嫌でも気づくでしょう」


 エリュシアは、手帳をそっと胸元に抱きしめ、目を閉じた。


 (偶然じゃない……彼は、確かに“理”の上に立っている)


 深い呼吸の後、ゆっくりと目を開けると、

 その瞳には、かすかな光が戻っていた。


 「……ありがとう、カシール。

 あなたの言葉で、少しだけ未来が見えた気がするわ」


 「それは何よりですよ」


 カシールは悪戯っぽく笑みを浮かべる。


 「それと……いずれ、エリオス様には直接お会いしたいですね。

 理論と実例の照合という意味でも、ぜひ」


 「抜け目ないのね……本当に」


 ふっと、エリュシアが笑う。

 その笑顔には、少しだけ、

 かつての彼女らしい気高さと強さが戻っていた。

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