表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/76

第三十六話

 ──痛い。


 その言葉は、声にならなかった。


 荒野の静寂を破ったのは、風でもなく、魔物の咆哮でもなく、

 イゼルカの小さなうめき声だった。


 「……たかが、こんなもの……で……」


 霊流の流れは徐々に減速している。

 イゼルカの額から流れた汗が、

 ぽたりと土に落ち、そして黒く滲む。


 「……イゼルカ様……!」


 マリアが触れられずに慌てる中、

 エリオスがそっと膝をつき、イゼルカを胸で受け止める。


 エリオスが発するのは、如何なる魔法でも遅延させ、

 霊流にも影響を及ぼす“遅延の力"。

 彼女の中で暴れる“内側からの毒”の流れも、当然鈍る。


 時間を歪めているのかと錯覚するその魔法は、

 今、ただひとつの祈りのように働いていた。


 「……エリオス、何を……?」


 イゼルカが驚きの声を漏らす。


 「ディレイで……霊流の動きを鈍らせてる。

 けど……これは応急処置にすぎない」


 エリオスの声には焦りが滲んでいた。

 このままではイゼルカが、東部の町が、危ない。

 辺境大公として、イゼルカという存在が背負うものは遥かに大きい。

 それが崩れるということの重さに、エリオスは畏怖の念を抱く。


 「エリオス様……手を貸しますわ」


  エスメラルダが静かに問う。

 彼女もまた、エリオスの意図に気付いていた。


 「霊狐宮まで、急ぐしかない」


 静かな決意とともに、エリオスは立ち上がった。

 その背には、幼子のような体重の少女。

 小さな鼓動がエリオスの胸椎を通じて脳裏に重く響く。


 「エリオス、周囲の事は気にしないで!」


 エリュシアが剣を抜き、周囲の警戒役を買う。

 エリオスは頷いて返す。


 「メレーネ、行くわよ!」


 エリュシアの指示に、メレーネはわずかに頷いた。


 メレーネの顔もまた、色を失いかけており、

 冷や汗をにじませている。

 しかし、今の状況で私情を優先すべきではないと割り切る。

 

 ただ──


 あの、記憶のような“悪夢”。

 その残滓が、未だに彼女の神経を灼いていた。

 (……あれは、夢じゃなかった)


 自分が何かを見たのだと、確かにわかっていた。

 でも、それが何なのかはまだ分からない。 

 そんな不安を首を振って断ち切るように、メレーネは姿勢を正す。


 「……行きましょう、エリオス様。イゼルカ様が……崩れる前に」 


 か細く、しかし確かな声だった。


────────────────


 ──霊狐宮、居室。

 それは、辺境にあってなお“神聖”の名を冠する空間だった。


 年輪の細かな漆塗りの柱、淀みのない均一な静水面を持つ池。

 水面には一切の波紋がなく、淀みのない“静水”が広がっている。

 ここは息を呑むほどに整えられた静謐を体現した世界。


 「……ここが、“イゼルカ”の居室……」


 思わず口から漏れた声に、侍女の一人が静かに頷いた。


 「どうぞ、こちらへ」


 エリオスは深く頷くと、そっと扉をくぐった。


 室内は驚くほど静かだった。

 空気すらも整えられているかのような静寂の中、

 ふわりと漂う香の匂いが、神経を緩やかにほどく。


 一段高くなった寝室に、イゼルカをそっと寝かせる。

 十二の姿に見合わない威厳を纏っていたはずの彼女は、

 今はただ、年齢相応の“あどけなさ”すら残す少女にしか見えなかった。


 侍女は表情を変えず、すっとイゼルカの胸元に手を添えた。


 「少しずつではありますが、安定し始めています」


 「……よかった」


  小さく呟いて、エリオスは膝をついた。

 “遅延”の魔法が絶えないか、不可視の魔法故に判断が付かないが、

 それは彼女の中の痛みを、わずかでも“遅らせる”ための行為だった。


 (たかが“遅らせる”だけ。治せるわけじゃない)


 それでも、今のエリオスにできるすべてだった。


 ──しばらくして、侍女が顔色を変えずに声がかかる。


 「……容体、安定いたしました。ありがとうございます」


 侍女の静かな声に、エリオスは肩の力を抜き、

 安堵の吐息を漏らした。


 「……あの、もし、よろしければ……」


 その声は、まるで息を呑むように細く──


 「もう少しだけ、傍にいて頂けますでしょうか?」


 その瞳には、深い感謝と、そしてわずかな畏れが宿っていた。

 このイゼルカの痛みを緩和できるのは薬では不可能だが、

 彼ならば抑えることができる。

 恐れ多いと分かっていても、

 お願いせずにはいられなかったのだ。


 エリオスはしばし無言のまま、寝台のイゼルカを見つめた。

 そして、彼女の浅く不安定な呼吸の音に耳を澄ませる。


 「……もちろんです。彼女が落ち着くまで、ここにいます」


 その答えに、侍女は胸に手を当て、深く、深く頭を下げた。


 「……心より、感謝申し上げます」


 侍女はゆったりとした動作で居室を離れる。

 再び、静寂だけが空間を満たした。


────────────────


  同じ頃。

 霊狐宮の中庭に佇む一角──


 夜風にそよぐ草木が、まるで何かを囁くように揺れていた。

 薄明かりに照らされた和風の庭園、

 その片隅で、エリュシアとエスメラルダが腰を下ろしていた。


 「……疲れた?」


 エリュシアの問いに、エスメラルダは微かに笑った。


 「はい。ですが……悪くありませんわ」


 銀髪をさらりと流し、恍惚とした表情を見せる。


 「ああいう方の背を見た後なら、尚更」


 「……そうよね。私も、そう思った」


 ふたりは並んで夜空を仰ぐ。

 静かに、でも確かに、“同じ人間”の姿を思い浮かべる。


 「……最初はなんかもっと、

 冷たい人かと思ってたんだけど」


 「無感情、というよりは……

 『考えすぎて動かない』方かと、私は思っていましたわね」


 「でも、さっきのは──」


 エリュシアは小さく息をついた。


 「“誰かを助けるために、

 迷いなく動いた”あの瞬間。あの表情……」


 エリュシアはふっと笑みを浮かべて、

 空気と一緒に言葉を漏らす。


 「......ずるいわよ」


 「ふふふ。ずるい……確かに」


 エスメラルダは、淡く笑みを浮かべた。

 その瞳は、どこか夢見る少女のように、やわらかく揺れていた。


 「エリオス様って、そういう方ですのよね」


 エスメラルダの言葉に、エリュシアはほんの一瞬だけ黙り込む。

 そしてぽつりと漏らす。


 「「ねえ、エスメラルダ。……あんた、本気なの?」


 その問いに、エスメラルダは肩をすくめて微笑んだ。


 「……あら」


  エスメラルダはほんの少しだけ

 驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを深めた。


 「もちろん。“手に入れたい”と思っているのですから、

  本気で向き合いますわ」


 「そう……だと思った」


 ふたりの視線が交差する。

 柔らかく、しかしどこか譲らない光を湛えて。


 「……私はね、」

 エリュシアが、ゆっくりと声を落とす。


 「今の“婚約者”って立場、最初は逃げるための方便だったの。

  でも今は──」


 エリュシアは少し顔を伏せる。


 「“もし本物になったら、どうなるんだろう”って」


 「それは……随分と、贅沢な悩みですわね」


 エスメラルダの口元が、わずかに持ち上がる。


 「でも、"婚姻"ではないのですから、油断するのは早計では?」


 「ふふ、なら心配ないわね。私は破棄するつもりはないわ」


 エリュシアが微笑み返す。


 「それに……あの人の“背中”は、誰かに背負われるものじゃない。

  並んで歩くか、立ち止まって見送るか。

  そのどちらかだと思ってる」


 「……あら、それなら私は、

 “手を引く側”になって差し上げますわ」

 

 エスメラルダの声音には、穏やかでいて、

 どこか挑むような色が滲んでいた。


 「ふふ……上等ね」

 エリュシアの瞳にも、静かな熱が宿る。


 だが、次の瞬間──


 「──はいはい、おふたりとも」

 気怠げな声が横から滑り込んだ。


 「一回深呼吸でもしたらいかがですか?」


 「……メレーネ」

 エリュシアが振り返り、やや呆れたように言う。


 「まったく……戦闘のあとに“火花”まで飛ばすなんて。

  乙女の力は無限ですね」


 「う、うるさいわね! ちょっと話してただけよ」


 「ええ、見てました。静かな“宣戦布告”をね」

 メレーネは小さくため息をつきながら、

 二人の間にすっと腰を下ろす。


 「まあ、いいですけど。

 ……ただ、“選ぶ”のはエリオス様ですから」


 「「……!」」


 「おふたりがどれだけ素敵でも、どれだけ“思っていても”──

  結局、“彼が誰の名を呼ぶか”で、すべてが決まる」


 そう言って、メレーネは一呼吸置き、

 小さく、意地の悪いような、けれどどこか優しい笑みを浮かべた。


 「……だから、ちょっとずつ“可愛く”

 攻めていったほうが、勝率が高いのでは?」


 「メレーネ……っ!」


 「ふふっ……なるほど、それは参考になりますわ」


 「あなた、どっちの味方なの!?」


  ふと、風が木々を鳴らし、

 夜の庭にささやかな笑い声が広がった。


  誰もがほんの少し、心を緩めたひととき。

 それでも、胸の内にある火は、まだ小さく燃え続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ