第三十六話
──痛い。
その言葉は、声にならなかった。
荒野の静寂を破ったのは、風でもなく、魔物の咆哮でもなく、
イゼルカの小さなうめき声だった。
「……たかが、こんなもの……で……」
霊流の流れは徐々に減速している。
イゼルカの額から流れた汗が、
ぽたりと土に落ち、そして黒く滲む。
「……イゼルカ様……!」
マリアが触れられずに慌てる中、
エリオスがそっと膝をつき、イゼルカを胸で受け止める。
エリオスが発するのは、如何なる魔法でも遅延させ、
霊流にも影響を及ぼす“遅延の力"。
彼女の中で暴れる“内側からの毒”の流れも、当然鈍る。
時間を歪めているのかと錯覚するその魔法は、
今、ただひとつの祈りのように働いていた。
「……エリオス、何を……?」
イゼルカが驚きの声を漏らす。
「ディレイで……霊流の動きを鈍らせてる。
けど……これは応急処置にすぎない」
エリオスの声には焦りが滲んでいた。
このままではイゼルカが、東部の町が、危ない。
辺境大公として、イゼルカという存在が背負うものは遥かに大きい。
それが崩れるということの重さに、エリオスは畏怖の念を抱く。
「エリオス様……手を貸しますわ」
エスメラルダが静かに問う。
彼女もまた、エリオスの意図に気付いていた。
「霊狐宮まで、急ぐしかない」
静かな決意とともに、エリオスは立ち上がった。
その背には、幼子のような体重の少女。
小さな鼓動がエリオスの胸椎を通じて脳裏に重く響く。
「エリオス、周囲の事は気にしないで!」
エリュシアが剣を抜き、周囲の警戒役を買う。
エリオスは頷いて返す。
「メレーネ、行くわよ!」
エリュシアの指示に、メレーネはわずかに頷いた。
メレーネの顔もまた、色を失いかけており、
冷や汗をにじませている。
しかし、今の状況で私情を優先すべきではないと割り切る。
ただ──
あの、記憶のような“悪夢”。
その残滓が、未だに彼女の神経を灼いていた。
(……あれは、夢じゃなかった)
自分が何かを見たのだと、確かにわかっていた。
でも、それが何なのかはまだ分からない。
そんな不安を首を振って断ち切るように、メレーネは姿勢を正す。
「……行きましょう、エリオス様。イゼルカ様が……崩れる前に」
か細く、しかし確かな声だった。
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──霊狐宮、居室。
それは、辺境にあってなお“神聖”の名を冠する空間だった。
年輪の細かな漆塗りの柱、淀みのない均一な静水面を持つ池。
水面には一切の波紋がなく、淀みのない“静水”が広がっている。
ここは息を呑むほどに整えられた静謐を体現した世界。
「……ここが、“イゼルカ”の居室……」
思わず口から漏れた声に、侍女の一人が静かに頷いた。
「どうぞ、こちらへ」
エリオスは深く頷くと、そっと扉をくぐった。
室内は驚くほど静かだった。
空気すらも整えられているかのような静寂の中、
ふわりと漂う香の匂いが、神経を緩やかにほどく。
一段高くなった寝室に、イゼルカをそっと寝かせる。
十二の姿に見合わない威厳を纏っていたはずの彼女は、
今はただ、年齢相応の“あどけなさ”すら残す少女にしか見えなかった。
侍女は表情を変えず、すっとイゼルカの胸元に手を添えた。
「少しずつではありますが、安定し始めています」
「……よかった」
小さく呟いて、エリオスは膝をついた。
“遅延”の魔法が絶えないか、不可視の魔法故に判断が付かないが、
それは彼女の中の痛みを、わずかでも“遅らせる”ための行為だった。
(たかが“遅らせる”だけ。治せるわけじゃない)
それでも、今のエリオスにできるすべてだった。
──しばらくして、侍女が顔色を変えずに声がかかる。
「……容体、安定いたしました。ありがとうございます」
侍女の静かな声に、エリオスは肩の力を抜き、
安堵の吐息を漏らした。
「……あの、もし、よろしければ……」
その声は、まるで息を呑むように細く──
「もう少しだけ、傍にいて頂けますでしょうか?」
その瞳には、深い感謝と、そしてわずかな畏れが宿っていた。
このイゼルカの痛みを緩和できるのは薬では不可能だが、
彼ならば抑えることができる。
恐れ多いと分かっていても、
お願いせずにはいられなかったのだ。
エリオスはしばし無言のまま、寝台のイゼルカを見つめた。
そして、彼女の浅く不安定な呼吸の音に耳を澄ませる。
「……もちろんです。彼女が落ち着くまで、ここにいます」
その答えに、侍女は胸に手を当て、深く、深く頭を下げた。
「……心より、感謝申し上げます」
侍女はゆったりとした動作で居室を離れる。
再び、静寂だけが空間を満たした。
────────────────
同じ頃。
霊狐宮の中庭に佇む一角──
夜風にそよぐ草木が、まるで何かを囁くように揺れていた。
薄明かりに照らされた和風の庭園、
その片隅で、エリュシアとエスメラルダが腰を下ろしていた。
「……疲れた?」
エリュシアの問いに、エスメラルダは微かに笑った。
「はい。ですが……悪くありませんわ」
銀髪をさらりと流し、恍惚とした表情を見せる。
「ああいう方の背を見た後なら、尚更」
「……そうよね。私も、そう思った」
ふたりは並んで夜空を仰ぐ。
静かに、でも確かに、“同じ人間”の姿を思い浮かべる。
「……最初はなんかもっと、
冷たい人かと思ってたんだけど」
「無感情、というよりは……
『考えすぎて動かない』方かと、私は思っていましたわね」
「でも、さっきのは──」
エリュシアは小さく息をついた。
「“誰かを助けるために、
迷いなく動いた”あの瞬間。あの表情……」
エリュシアはふっと笑みを浮かべて、
空気と一緒に言葉を漏らす。
「......ずるいわよ」
「ふふふ。ずるい……確かに」
エスメラルダは、淡く笑みを浮かべた。
その瞳は、どこか夢見る少女のように、やわらかく揺れていた。
「エリオス様って、そういう方ですのよね」
エスメラルダの言葉に、エリュシアはほんの一瞬だけ黙り込む。
そしてぽつりと漏らす。
「「ねえ、エスメラルダ。……あんた、本気なの?」
その問いに、エスメラルダは肩をすくめて微笑んだ。
「……あら」
エスメラルダはほんの少しだけ
驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを深めた。
「もちろん。“手に入れたい”と思っているのですから、
本気で向き合いますわ」
「そう……だと思った」
ふたりの視線が交差する。
柔らかく、しかしどこか譲らない光を湛えて。
「……私はね、」
エリュシアが、ゆっくりと声を落とす。
「今の“婚約者”って立場、最初は逃げるための方便だったの。
でも今は──」
エリュシアは少し顔を伏せる。
「“もし本物になったら、どうなるんだろう”って」
「それは……随分と、贅沢な悩みですわね」
エスメラルダの口元が、わずかに持ち上がる。
「でも、"婚姻"ではないのですから、油断するのは早計では?」
「ふふ、なら心配ないわね。私は破棄するつもりはないわ」
エリュシアが微笑み返す。
「それに……あの人の“背中”は、誰かに背負われるものじゃない。
並んで歩くか、立ち止まって見送るか。
そのどちらかだと思ってる」
「……あら、それなら私は、
“手を引く側”になって差し上げますわ」
エスメラルダの声音には、穏やかでいて、
どこか挑むような色が滲んでいた。
「ふふ……上等ね」
エリュシアの瞳にも、静かな熱が宿る。
だが、次の瞬間──
「──はいはい、おふたりとも」
気怠げな声が横から滑り込んだ。
「一回深呼吸でもしたらいかがですか?」
「……メレーネ」
エリュシアが振り返り、やや呆れたように言う。
「まったく……戦闘のあとに“火花”まで飛ばすなんて。
乙女の力は無限ですね」
「う、うるさいわね! ちょっと話してただけよ」
「ええ、見てました。静かな“宣戦布告”をね」
メレーネは小さくため息をつきながら、
二人の間にすっと腰を下ろす。
「まあ、いいですけど。
……ただ、“選ぶ”のはエリオス様ですから」
「「……!」」
「おふたりがどれだけ素敵でも、どれだけ“思っていても”──
結局、“彼が誰の名を呼ぶか”で、すべてが決まる」
そう言って、メレーネは一呼吸置き、
小さく、意地の悪いような、けれどどこか優しい笑みを浮かべた。
「……だから、ちょっとずつ“可愛く”
攻めていったほうが、勝率が高いのでは?」
「メレーネ……っ!」
「ふふっ……なるほど、それは参考になりますわ」
「あなた、どっちの味方なの!?」
ふと、風が木々を鳴らし、
夜の庭にささやかな笑い声が広がった。
誰もがほんの少し、心を緩めたひととき。
それでも、胸の内にある火は、まだ小さく燃え続けている。




