第三十三話
夜。
外には虫の声、微かに風が木の葉を揺らし、
霊符の灯りが淡く揺れる。
エリオスは一人、離れの縁側に腰を下ろしていた。
白湯の湯呑を手に、ただ静かに夜空を見上げていると──
「……夜分に、失礼します」
控えめに戸が開き、ひょっこり顔を出したのはメレーネだった。
浴衣姿のまま、手には茶器を抱えている。
「……少し、眠れなくて」
言い訳のようにそう呟いて、彼女は隣に腰を下ろす。
エリオスは軽く頷く。
しばし、沈黙。
「……ここの夜は、静かですね」
メレーネがぽつりとつぶやく。
それは誰に向けたというわけでもない、ただの独り言のような響きだった。
「……王都では、こんな夜は滅多にありませんでした」
「まあ……騒がしい場所だったな」
エリオスも、ぽつりと答える。
まるで湯気の残り香のように、温泉の記憶がまだ心に残っていた。
「でも、不思議です」
メレーネは空を見上げ、僅かにほほ笑む。
「王都よりも、何が起こるか分からない場所なのに……
今のほうが、落ち着いている気がします」
エリオスは湯呑を見つめたまま、小さく頷いた。
「……俺もそう思うよ。
ここには“必要なもの”だけがある気がする」
メレーネは少しだけ目を細めた。
「“必要なもの”……ですか」
「温泉もあるしな」
くす、とメレーネは笑った。
エリオスも、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
風が吹き、虫の声がひとつ、遠くへ流れる。
「……わたくし、辺境の出だそうです」
ぽつりと、メレーネが言う。
「そう、なんだ」
エリオスの言葉には驚きも詮索もなかった。
ただ“聞いている”だけの、静かな気配。
「ですが、よく覚えておりません。
誰に拾われたのかも、どこで生まれたのかも……」
「……」
「ある日、王都の路地でひとり倒れていたわたくしに、
“あなた、名前は?”と声をかけた少女がいました」
エリオスがちらりと視線を向ける。
メレーネはその視線を感じ取りながら、微笑のように話を続ける。
「“名前? ないの?”って──それが、あの方でした」
「エリュシア、か」
「ええ……活発過ぎで、突拍子もなくて、子どもみたいで……」
「でも、ちゃんと見てるよな」
「……そうなんです」
メレーネは、目を伏せるようにして静かに頷いた。
「わたくしが“何者でもない”ことを、あの方は初めから分かっていた。
けれど──それでも、“じゃあ、私が決めてやる”と仰ったのです」
エリオスの口元が、わずかに動いた。
「……らしいな、あいつ」
メレーネの横顔に、わずかに笑みが浮かぶ。
「それからは、ずっとお嬢様の傍にいます。
いろいろな脅威からお守りするために──」
メレーネは隣にいるエリオスへと視線を向けた。
夜風が一度だけ、二人の間を通り抜ける。
「……正直に申し上げますと、
最初はあなたのことも“警戒対象”でした」
「薄々感じてはいたけどね......」
「突如現れて、しかも“婚約者のふり”などと……
まともな判断ができる方には到底思えませんでしたし」
「うん……まぁ、否定はしないよ」
「けれど、すぐに分かりました。
あなたが“脅威”ではないこと。
そして──あの方が“あなたを見ている”理由も」
「……理由?」
メレーネは微笑む。
けれどそれは、どこか“確認するような”優しい眼差しだった。
「お嬢様は、“未来に賭ける目”をしておりました。
それは、わたくしがかつて見たことのない目で……」
「未来、か……」
エリオスは小さく頷きながら、宙を見上げる。
湯呑からは、まだほんのりと白い湯気が上がっていた。
「俺自身は、よく分かってないんだけどな。
自分が……どうして、こんな力を持ってるのか」
「今は探す時なのだと思いますよ」
メレーネの言葉は、まるでそっと背中を押すようだった。
「……たとえ、まだ“どこへ向かうか”が分からなくても」
「……そう、だな」
エリオスの指が、湯呑の縁をなぞる。
ほんの僅かに、何かを噛み締めるように。
「なんだかんだで、君にも見られてたんだな。俺のこと」
「当然です。わたくし、“付き人”ですから」
冗談めかして返すその口調は柔らかい。
エリオスも少し目を細め、湯呑を傾けながらふっと笑った。
「……あの十日間、地獄だったよ。貴族のマナー漬け」
「“一日に三回の食事で十回は注意される人”は初めてでした」
「いやいや、そもそもフォークが
五本も並んでる時点でオカシイよ」
「“あれは儀式です”って説明したはずですが」
「儀式で飯を食うのかよ……」
エリオスが小さくため息をつくと、
メレーネは少しだけ目を伏せ、懐かしそうに微笑む。
「よくもまあ……覚えましたね」
「いや、途中で半泣きだったけどな……
あのナイフと魚の皮の件は未だに納得してない」
「“魚に謝りなさい”と申し上げた記憶がありますわ」
「……それを真顔で言うから怖いんだよ」
夜風がまたひとつ、霊符を揺らしながら吹き抜ける。
それとともに、ふたりの笑いも静かに夜に溶けていった。
「……でも、あれがなければ今、ここにはいなかったと思うよ」
エリオスがぽつりと呟いた。
「そうですね。……あの十日間がなければ、
エリオス様はきっと“貴族社会の異物”どころか"腫れ物"でしたね」
「今は“異物っぽいけど慣れてきた”くらいか」
「……個人的には、“貴族より人間らしい”と
思っておりますけれど」
その言葉はとても静かだった。
「まあ、庶民だからな」
「ふふ、私もです」
わずかな間のあと、メレーネが冗談めかしてそう言うと、
エリオスも小さく、けれど確かな笑みを返した。
────────────────
──朝霧がまだ薄く残る静かな朝。
柔らかな森の匂いと湯上がりの名残を感じさせる、
穏やかな空気が流れていた。
エリオスは、昨夜の湯治の余韻を胸に、
着替え終えた制服の襟を正していた。
「……なんだか、帰るのが惜しいわね」
エリュシアが、髪を結いながらぽつりとつぶやく。
「王都よりずっと空気が柔らかいですものね」
エスメラルダは微笑しながら長い髪をすらりと下ろす。
メレーネとマリアも、出発の準備を淡々と整えていた。
「……そろそろ、イゼルカ様にご挨拶して──」
そうメレーネが言いかけた時だった。
「失礼しますッ!」
勢いよく声が飛び込んできた。
姿を現したのは、やや息を切らしたレイド・ハウゼン。
昨晩よりも少しだけ引き締まった面持ちだった。
「レイド? どうしたの」
マリアが最初に声をかける。
「……っ、南西の集落が、魔物に襲撃されました!」
一瞬で場の空気が変わった。
「魔物? それって、偶発的な群れじゃなくて……?」
エリオスが眉をひそめる。
「……規模が違うんです!
ロガルト隊長たちは既に出発したようなのですが、
……あの方も、“これは自然発生じゃない”と」
レイドの顔が真剣に引き締まる。
「……"誰かの意図"を感じる、と」
「……数と動きに、組織性があるのね」
「被害は?」
メレーネの声が静かに響く。
「……まだ、詳細は……ですが……」
レイドが一瞬、言葉を濁す。
「わかった」
エリオスが立ち上がった。
「……行くよ、俺も」
「当然よ」
エリュシアも腰に帯を締め直す。
「お世話になった場所ですもの。
見過ごすなんてできませんわ」
エスメラルダも優雅に答える。
「……出発の準備は、整っております」
メレーネも静かに同意する。
「わたしも、治癒符と薬を持ちます」
マリアもすぐに従った。
レイドは、一行の姿を見て、安堵の笑みを浮かべる。