第三十二話
イゼルカは、霧のように静かに息を吐いた。
「“理”とはな……」
彼女の指が、澄んだ湯の表面を優雅になぞった。
小さな波紋が、金色に揺れながら広がっていく。
「この世界が、この世界として在り続けるための“約束”じゃ。
風が吹けば葉が揺れ、命が生まれればやがて死ぬ。
太陽は東から昇り、西へ沈み、川は決して逆流することなく海へと注ぐ。
それら一つひとつが互いに調和し、循環することで、
初めて”世界”というものが保たれておる」
淡々と語られるイゼルカの言葉は、
静かな湯煙と共にエリオスの耳に届く。
エリオスはその深く澄んだ声音に耳を傾けていた
「そして魔力というのもまた、『理』の中にある力じゃ。
この世界の法則に従い、貴族たちは自らの血筋と術式を育み、
その体系を築き上げてきた。
術式、血脈、血統魔術──それらすべては、
一見外れていても実は”理”に沿うよう形作られてきたもの」
彼女はそこで言葉を止めると、真っ直ぐにエリオスを見据えた。
「じゃがな、エリオス……お主の持つ力はまったく違う」
静かな湯音が響く。
エリオスの胸の奥が、ざわりと波立つのを感じた。
「……」
「お主の魔法は、『理』そのものを歪ませる力じゃ。
それはまるで、この世界の『理』の上に立っているのではなく、
その側面を滑るように、するりと抜けているような力なのじゃよ」
その瞳には、ほんの一瞬だけ、かすかな畏れが宿っていた。
「普通の者なら、“力を制御できぬ”という形で淘汰されていた。
けれどお主は、違う。“制御できない”のではなく、
“ハナから定まっておらぬ”」
エリオスは湯の中で、小さく唇を動かした。
「……俺の魔法が"定まって"ない?」
僅かに沈黙が落ちる。
ゼルカの目には、ほんの一瞬だけかすかな畏怖が過ぎったが、
すぐにいつもの落ち着いた瞳へと戻った。
「そうじゃ、全ては……“理の外側”じゃ」
そして、ふっと笑う。
「ワシはの、長い時を生きてきたが……
“理に沿わぬ存在”に出会うたび、世界の“境目”が揺れるのを見てきた」
その声は、湯気と共に静かに広がっていく。
「お主がここに現れたこと。
それ自体が、この時代が“変わり目”にある証かもしれんのう……」
まるで“観測者”のように、彼女はそう呟いた。
そう言って、イゼルカは柔らかな笑みをエリオスへと向けた。
その笑みはどこか、長い時を生きた者特有の深い慈悲と、
密やかな好奇心に満ちていた。
「……時代の、変わり目」
エリオスは、自分の中の不確かな魔法の正体と、
自分がこの世界に存在する意味を考えずにはいられなかった。
彼の心に再び静かな波紋が広がるように、イゼルカの言葉が響く。
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──湯殿から戻ったエリオスは、
明らかに足取りがおぼつかなかった。
「……お、おかえりなさい」
マリアがすぐに駆け寄る。
「顔、真っ赤です……っ。のぼせたんですね?」
「うん……すこし……こう、世界がぐるぐるしてる……」
エリオスはふらふらと腰を下ろし、
頭に冷たいタオルを乗せられる。
「……イゼルカ様」
エリュシアが、じとりとした目で彼女を睨む。
「まさか、何か“妙な調整”を加えたりはしてないでしょうね?」
「まあ……彼がここまで赤くなるなんて、
湯加減以外に何かあったのでは?」
エスメラルダも口元はにこやかに、
だが、目はまったく笑っていない。
「ふむ?」
イゼルカは頬に指を当て、小首を傾げるようにしてから──
くすり、と楽しげに笑った。
「……ふふ、“何かあった”かどうか……
それを決めるのは、当人次第じゃろうて?」
「え……?」
「えっ……?」
エリュシアとエスメラルダが、
同時に絶妙な間で動きを止めた。
焦りと疑惑が交差する二人の横で──
「はい、エリオス様、お茶です」
メレーネがすっと湯呑みを差し出した。
その所作はどこまでも冷静で、
騒いでいる者たちとは別に達観しているのだ。
「え、ああ、ありがと……」
エリオスがそれを受け取り、まだ熱っぽい顔のまま一口すする。
「……あー、生き返った」
全身に沁み渡るお茶の温もりに、ようやく色が戻り、正気が蘇ってきた。
「ちょっと、ちゃんと話を聞かせて。何があったの?」
エリュシアが容赦なく問い詰めモードに入ろうとするが──
「……お嬢様」
メレーネがすっとその前に立つ。
抑揚のない穏やかな声だったが、不思議と空気がすっと静まる。
「のぼせている方に詰問は、ご法度です」
「え……でもっ」
「第一、イゼルカ様はお嬢様方が思っている程
"人間"寄りではありませんのでは?」
あ、となる2人。
「それに……頭に血が上っているのは、
エリオス様だけとは限りませんよ?」
その一言に、エリュシアが顔を背ける。
自分の頬が、ほんのり熱を帯びていたことに気づいた。
「貴重な機会をありがとうございました」
マリアがふわりと頭を下げた。
その素直な礼に、イゼルカもにっこりと目を細める。
「ふふ、気にするでない。
湯とは本来、命をほぐす場でもあるからのう」
「……確かにそうかもしれない」
エリオスはまだ頭にタオルを乗せたまま、虚ろな目で答えた。
全身をほぐされた男の言葉は重い。
「というか、なんでイゼルカ様だけは無傷、というか元気なの?」
エリュシアがついに口を尖らせる。
「うむ、長湯は慣れておるからの」
イゼルカが湯上がりの髪をくるりと
指に巻きながら、さらりと言ってのける。
「なんか違う気がしますわ」
「むしろ、あの場に一番適応してたのはイゼルカ様だった気が……」
マリアが小声でぽつりと呟く。
湯の静けさに溶け込むような声だったが、誰も否定はしなかった。
あの神秘的な湯殿で、“自然体”を貫いていたのは、
人でもなく、貴族でもなく──間違いなく霊狐姫だった。
「そもそも“霊力”と“魔力”の身体循環が違うのじゃよ」
イゼルカは涼しい顔で、メレーネから渡された茶をひとすすり。
「だからの、湯に負けるなど有り得ぬ。むしろ……」
と、意味深にエリオスのほうに視線を向け──
「“鍛えられておる”と言えるかもしれんの?」
「ぜんっぜん嬉しくないよそれ!!」
エリオスがずぶぬれのタオルを頭に押し当てながら叫んだ。
一方その頃──
「……やっぱり、そうなったか」
ロガルトが遠くから湯呑みを掲げるように見守っていた。
「で、でも! 無事ですから! のぼせただけで済んでよかったですよね!」
レイドは、内心 “自分が行ってたら即昇天してたな” とゾッとしながらも、
エリオスの生還を称えるようにうなずく。
「……くわばら、くわばら」
ロガルトのその一言が、妙に重く響いた。
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湯上がりの一行は、離れの休憩処で湯茶を囲んでいた。
揺れる行燈の明かり。
ほんのりと香る湯気の名残。
穏やかな空気の中に、笑い声と共に小さな談笑が続いていた。
「ほんと、もう少しで“昇天”するとこだった……」
エリオスが冷やしたお茶をすするたび、
周囲に小さな笑いが起きる。
「次は、ちゃんと限界を測って入りなさい」
エリュシアがそう言いつつも、団扇で涼を送っている。
「でも……“鍛えられた”のだとしたら、
いずれは適応できる、ということですわよ?」
エスメラルダが涼しい顔で茶を口にしながら、
にっこりと微笑む。
「……いや、もう鍛えたくないんだけど……」
ロガルトとレイドも縁側で静かに腰を下ろし、
ああだこうだと熱い話に花を咲かせていた。
マリアはほっとしたように、タオルで髪を丁寧に拭いている。
──だが、その時だった。
ふと、マリアの手が止まる。
「……?」
空気が、わずかに引っかかった気がした。
そして、そのすぐ隣で。
「……む」
イゼルカもまた、霊気の流れに微かな乱れを察知していた。
同時に、二人が静かに視線を交わす。
「……霊の流れが……少し、濁ったような……」
マリアがぽつりと呟く。
その言葉に、メレーネがわずかに目を細める。
マリアは視線を巡らせ、静かに霊気を読むように空間をなぞった。
「……微細すぎて、気のせいかもしれません。ですが──」
言い終えるより早く、
ふっという風もないのに──
湯殿の入り口に貼られていた霊符の一枚が、“ふわり”と揺れた。
霊符は一瞬、墨色に滲み変わり、すぐに元の朱へと戻る。
周囲の誰も気づかない。
けれど、イゼルカはじっと目を細めたまま、空を見上げていた。
その瞳には、何かを“見通す”ような深い光が宿っていた。
「……この地で霊の揺らぎを感じるなら……」
イゼルカの声が、ふいに低くなる。
「ただの気のせいではあるまいな」
誰にも届かぬような小さな声だったが、
それは確かに、湯煙の中に冷たい波紋を落とした。
「……やはり、面倒ごとになりそうじゃ」
ふわりと髪が揺れ、金色の目が霧の向こうを見据える。
──空は、静かな月明かりに照らされている。
だが光があれば、そこに闇は必ず存在する。
見えない誰かが、境界の遥か向こうから、微かに蠢いていた。