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第三十一話

 ──カーヴェン西の外れ、山のふもとに湧く霊泉《澄天の湯》。

 辺境でも特に高名な癒しの地として知られるその湯処は、

 朱塗りの門をくぐった瞬間から、ふんわりとした湯気と静けさに包まれていた。


  岩と木と水が自然に組み合わされた風景。

 通路に敷かれた石畳には小さな霊符が刻まれており、

 空気の中には、かすかに“霊気”の揺らぎが満ちている。


 「……これは、確かに癒しね」


 エリュシアが小さく目を細める。


 「整ってますわね......」


 エスメラルダは、軽く袖を直しながら穏やかに頷いた。


 「これが……澄天の湯……」

 

 マリアは手を合わせるように湯屋を見つめている。

 

 「癒しの霊泉というのは、こうも空気が違うのですね……」


 「おー……これが辺境の湯か……!」

 

 レイドは興奮を隠せず、きょろきょろと辺りを見渡していた。

 湯煙の向こうに見える建物の構造や、

 香木のような香りに、興味が止まらない様子だ。

 

 そして──


 「よし、では各々用意を済ませてから入るとしよう!」

 

 イゼルカが満面の笑みで宣言した瞬間、場に軽い緊張が走る。

 明らかに何かを“仕掛ける顔”だった。


 「当然、男女別ですよね?」


 エリュシアが先手を打つように目を細める。


 「も、もちろんじゃ!」  


 イゼルカが胸を張る。が──


 「ただし、別館もあるからの! エリオス、お主はこっちじゃ」


 「え、俺!?」


  エリオスの目が見開かれる。

 指差された方向は、山の木立に囲まれた、静謐な離れだった。

 瓦葺きの屋根に霊符が張られ、僅かに違う気配が漂っている。


 「うむ。こっちはちょっと特殊な霊泉での?」


 「……それって、逆に落ち着かない気がするんだけど」

 

 イゼルカはまるで気にしていない。


 「おぬしは──そうじゃな、ロガルトに預けておこう」


 レイドは背筋を正す。


 「へっ? あ、あの、ロガルトって誰──」


 「俺だ」

 

 重々しい声とともに突然、背後から現れたのは重装の騎士──

 辺境騎士(ボーダーナイツ)団長、ロガルト・ヴァルミードであった。


 レイドは数歩後ずさりながら、姿勢を正す。

 「よ、よろしくお願いしますっ!!」


 「元気な奴だな、気に入った」


 どこか親しげな口調だったが、圧の強さは隠しきれない。


  その直後。

 彼の視線がつい、イゼルカとエリオスが向かう

 “特別湯殿”へと向いてしまった。


 「……そっちは、ダメなんですか?」


  レイドが無邪気な調子で尋ねた。

 ただの好奇心のつもりだったが──


 「すっごく気になるんですけど、 ”特別”って……?」


 イゼルカはチラと彼を振り返り、唇をゆるく吊り上げる。

 その目には、少しだけ“いたずらっ子”のような光が宿っていた。


 「……お主が入れば”一瞬でのぼせる”じゃろうな」


 「へっ?」


 レイドがぽかんと目を丸くする。

 その意味が理解できず、ただ呆然と立ち尽くす。


 「レイド君と言ったか、そっちはやめた方がいい」


  ロガルトの真剣な表情に、レイドはエリオスへと視線を向ける。

 その眼差しには、ほんのりとした憐れみが滲んでいた。


 「……な、なんかすごい怖いこと言われた気が!?」


 「まあ黙ってついてくるんじゃ!」


  レイドとロガルトがエリオスを哀れみ、

 エリオスが“別館”のほうへ拉致される。


 ──そして


 「……まあ、”特別な湯殿”という響きには、

 心惹かれるものがありますわね」


  さらりと、しかし確信に満ちた声で、

 エスメラルダがふわりと一歩を踏み出す。

 その足取りは軽く、裾をひるがえして、

 すでにイゼルカたちの方向に足を向けている。


 「……止まりなさい」


 冷ややかな声が響いた。


 「?」


  バシィッと背後から腕を巻き付けるようにして、

 エリュシアがエスメラルダを羽交い締めにする


 「……ちょっと、エリュシア?」


 「だめ」


 「わたくし、まだ ”行く”とも ”入る” とも言ってませんけれど?」


 「とても素直ね、宜しいわ……」


 エリュシアはじっと、真顔で彼女の耳元に低く囁いた。


 「あなた、どうせ ”自然と” 入るつもりだったでしょ。

 しかも、“エリオスと一緒に” っていう前提で」


 「ええ、だって彼が入るなら、そこに付き添うのが自然でしょう?」


 「自然じゃないから!!!」


 エリュシアのツッコミが裏返る。

 羽交い締めの腕に若干の力がこもる。

 マリアはそそくさと女湯へと逃げる。


 「……あなたの何が怖いって、

 “自分の望みのためなら、善悪のラインを曖昧にするところ”よ」


 「わたくしは、ただ……手に入れたいものに対して正直なだけですわ!」


 「それを”問題児”って呼ぶのよ……!!」


  エスメラルダはギリギリと足を踏み出し、

 エリュシアには額にじんわりと冷や汗。

 エスメラルダとイゼルカ、どっちが危険か──


 その天秤は、明らかにエスメラルダの方が重い。


 「お願い、ちょっとは ”理性” とか ”羞恥心” を持って……」


 「羞恥心?」

 エスメラルダは小首を傾げる。

 

 「持っておりますわ? わたくしにも」


 「どう見ても無いに決まってるでしょうがァァ!!!」


 羽交い締めたまま、そのまま横へズリズリと連行するエリュシア。

 

 (……私が止めないと、本当に突っ込む。

 イゼルカ様と違って、“自分の理屈”で行動するタイプだもの……)


 エスメラルダはされるがままになりつつ、

 「イゼルカ様では面白いことにはなりませんわ......」と、至極冷静に言い返す。


 「だからよ! だ か ら!!」


────────────────────


 ──別館湯殿へと向かう直前のこと。


 「すまぬが、ちと湯加減を見てくるゆえ、

 エリオス、お主は先に入っておれ」


 湯殿の手前、草履を脱ぎながらイゼルカがふと振り返った。


 「湯加減……って、自分で調整できるのか?」


 エリオスが首を傾げると、イゼルカはふふんと胸を張った。


 「当然じゃ。あれこれ好みに整える"カラクリ"があるのじゃよ。

 湯量と霊気の流し方を少し変えるだけで、効果がまるで違うのじゃ」


 「なるほど……それ、なんかすごいな。

 っていうか、管理みたいな事もするんだな......」


 「ふふ、案外そういうのも好きなんじゃよ」


 そう言うと、イゼルカはぴょんと廊下の角を曲がり、

 軽やかな足取りで調整室の方へと姿を消した。


 「……これで一安心、か」


 エリオスは温泉とやらにやや胸を高鳴らせ、

 のれんをくぐると湯殿へと向かった。


────────

 “澄天の湯”の奥、朱塗りの門から石畳の小道を進んだ先にあるのは、

 木立の影にひっそりと佇む離れ──《養麗殿》と名付けられた別館。

────────


 湯気は柔らかく、霊気と共に辺りを包む。

 結界のように静謐で、まるで俗世から切り離されたような空間だった。


 「……すごいな、こっちはこっちで別世界だ」


 脱衣所の戸を引き、エリオスが感嘆の声を漏らす。


 簡素ながら清潔に整えられた脱衣場。

 籠のような木の棚が並び、湯屋の奥には湯気が濛々と立ち上っている。

 空気は温かく、ほんのりと甘く香るような独特の芳香が鼻腔をくすぐる。


 (……なんか、気配が違う。魔力……いや、これが“霊気”?)


  木製の戸を開けた途端、身体の内側までほぐされるような、妙な浮遊感があった。

 木立に囲まれた湯処は、

 まるで異界との境界にあるかのように静まり返っていた。

 白く立ち上る湯煙は霧と混ざり、

 木々の間を漂うたび、風景にほのかな魔力すら感じさせる。


 「まあ、ひとまず入るか」


  エリオスはやや圧倒されつつ服を脱ぎ、戸棚に収めると湯へと足を進む。


  そろりとつま先から、そして太ももまで。

 やや高めの湯温に慣らすかのように、ゆっくりと腰まで浸かる。


 「ああ、これは凄いや......」


  身体中の凝りがほぐれ、筋肉の緊張が抜ける。

 自然と肩まで浸かり、足を延ばして目を瞑る。

 まさに極楽という言葉通りだ。


 「はぁ……これは、危ないわ……寝る……」


 空を仰ぎ、ぼそりと呟いたその時──


 「お主、まるでおっさんじゃの」


 背後からからからと笑い声が響いた。


 「うわっ──!?」


 飛び上がったエリオスが振り向くと、

 そこには、湯けむりの向こうからふわりと現れる白い影──


  湯気の帳に包まれ、まるで霞そのものが形を取ったような姿だった。

 銀白の髪がふわりと揺れ、湯に触れるたび光が反射する。


 ──イゼルカ。

 一糸まとわぬ姿のはずなのに、不思議と“生々しさ”は感じられない。

 神聖で、どこか幻想的。

 まるで“湯殿に宿る守り神”でも現れたかのようだった。


 とはいえ、なのだが──


 「なっ!?」


 エリオスが半分湯に沈みながら顔を真っ赤にして叫ぶ。

 タオルで顔を覆うも、耳まで真っ赤だ。


 「湯に入るのに、布など要らぬじゃろう?」


 イゼルカはまるで“当然”という風に、にこりと笑う。


 「そ、それは……いや、違う! 文化的にというか! 心構え的に!」


 必死で理性を繋ぐエリオスを見て、イゼルカは面白そうに首を傾げる。


 「なにをそんなに慌てる。お主、人の皮にばかり囚われすぎじゃのう」


 イゼルカの声は、霧のように柔らかく、

 それでいてどこか鋭いものを含んでいた。


 イゼルカは湯に身を沈めたまま、しばらく黙ってエリオスを見ていた。


 霧のような湯気が、彼女の周囲で渦を描く。

 そのまなざしは、どこかじっと“観察”するような鋭さを持っていた。


 「……な、なんかずっと見られてる気がするんだけど」

 エリオスが、ちらりと目を向ける。


 「うむ、そうじゃ」

 即答だった。


 「今、お主の霊流を見ておった」


 イゼルカはそう言って、指先で湯を軽くすくい上げる。

 その動きに合わせて、湯面がほんのりと金色に揺れ、

 エリオスの周囲で“何か”が、わずかに撓んだ。


 「霊流……?」


 「うむ。魔力の根流、肉体と霊的気脈の間を流れる”霊力の流れ”じゃ。

 これは……普通の者には、見えぬ」


 エリオスは湯の中で、ほんの少しだけ緊張する。

 彼の力──「クロノディレイ」──は、いまだ正体のよくわからないものだ。


 「ふむ。やはり気になっておったことがあったのじゃ」


 イゼルカはゆっくりと身を起こす。

 その動作すら、波紋と霊気を伴うように静かで、幻想的だった。


 「お主の魔力の流れ、どこか”不自然”じゃと思っていたのじゃが──」

 

 「今は、それが”繊維”の影響であると確信できた」


 「繊維?」


 「うむ。お主が着ておった服──

 王都で ”貴族用の礼装” として与えられたもの。

 あれに織り込まれておる繊維のせいじゃ」


 「……あの服が?」


 「ふむ。本来は魔力の流れを宥めるための加工じゃが──

 お主のような、未確定の魔力を扱う者には、

 むしろ収束を強制しすぎて、特性を歪めているように見えたのじゃ」


 イゼルカは湯の中に手を伸ばすと、湯の流れを撫でるように動かした。


 「さっきまでより、今の方がずっと霊の揺らぎが自然じゃ。

 つまり、お主の魔法は裸の方が適しておるということじゃな」


 「裸の方がって言い方やめてくれませんか!?」


 エリオスが頭まで湯に沈みかけるのを、

 イゼルカは楽しげに眺める。


 「ふふ、戯言はさておき──

 お主の魔法、やはり ”理” に抗っておる」


 「理……?」


 イゼルカは湯の上で目を細める。

 その金の瞳は、まるで世界そのものを見通しているようだった。

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