第一話
王都から遠く離れた小さな村。
家々を囲うように畑が広がり、昼時には煙突から白煙がゆったりと立ち昇る。
井戸の周りには畑仕事を終えた村人たちが集まり、陽気に水を汲み交わしていた。
便利さなどはないが、そこには穏やかな空気があった。
その風景を見下ろすように、屋根の上で寝そべる少年。
本を片手に、空を仰ぎながらページをめくる。
エリオス・ルクレイ。
この村で唯一、魔法を使えるとされる少年。
両親は魔法を使えないのに、なぜか彼だけが。
誰もその理由を知らない。
……いや、彼自身も知らなかった。
違和感はあった。
だからこそ、本を読み漁っていた。
けれどそれは探求ではなく、単なる“暇つぶし”だった。
ふと、下から村人たちの雑談が耳に届く。
「なぁ、去年の"アレ"、エリオスがやっつけたんだろ?」
広場で水を汲む村人たちが、井戸の周りで笑いながら話をしている。
「そうそう! 山の方から来たデカいやつだろ?」
「なんだっけ? やたら黒くて、口から炎吹いてた──」
「"炎なんちゃら獣"……とかいう、
王都の騎士団がやべぇって言ってた魔物だったよな?」
村人たちの記憶はあいまいである。
それほど、彼らにとって魔物はそこまでの脅威とは映らなかった。
「いやいや、騎士どころか、王都の役人が大慌てで
『ただちに避難してください!!』とか言ってたぞ?」
「んで、肝心の王都の兵は?」
「"安全を確保してから対策を講じます"とか言って、
どっか行っちまったよな」
「要するに何もしてねぇってことじゃねぇか!」
村人たちは愉快そうに笑いあっている。
だが、役に立たない王都への皮肉は村の格好のネタだった。
「で、結局、エリオスが何とかしてくれたんだよなぁ。
やっぱエリオスがいるなら王都の兵とか要らねぇんじゃね?」
「だよなぁ、"危険手当"とか言って
税金取られるばっかで、何もしてくれねぇし!」
「マジであいつら、税金回収しにくるためだけの連中じゃねぇか!」
「うちの村、もう"エリオス守備隊"でよくね?」
「おいエリオス!」
屋根の下から、村人がエリオスを見上げる。
「お前さぁ、あの魔物どうやって倒したんだ?」
エリオスは、しばらく考えて──
「……まぁ、流れで?」
その言葉に、村人たちが一斉にどよめいた。
「流れ!?」
「あれ確かA級魔物だぞ!? 話でも通じたのかソレ!」
村人たちの反応を見て、エリオスは曖昧に記憶を辿る。
巨大な異形の生物と戦ったことは確かにあったが、
それよりも昨日の猪狩りのほうが、鮮明に記憶に残っている気がした。
「いや、なんかまだ猪狩りのほうが記憶に残ってるような……?」
その発言に村人たちがまた騒ぎだす。
「おいおいおい! お前……"A級魔物"の意味、
わかってねぇのか!? 王都の兵が何十人がかりでも倒せないヤツだぞ!?」
エリオスは本を閉じ、空を仰いだ。
「だって……まあ、遅かったから?」
「遅かった!?」
「どんな感想だよ!」
エリオス自身、なぜか魔物の動きが急に遅くなった記憶がある。
だが、なぜそんなことが起こったのか、仕組みは今もわからない。
「うーん……動きが急に遅くなってたから、流れでやったら倒せた……ような?」
「やっぱり流れ!?」
「A級魔物を"適当に"倒すな!!」
村人たちは騒ぐが、エリオスは首を傾げるだけだった。
「ていうか、なんであんな強いのが村に来たんだろな……?」
その疑問に、村人たちは一斉に天を仰ぐ。
「それな!!」
「王都の連中、『魔物は絶対王都には近づかないように結界張ってる』
とか言ってたけど……」
「お前絶対そのせいだわ、
全部こっちに流れてきてるんじゃねーか!」
「いや、それもう魔物避けにされてね?」
「そういや去年も、やたら硬い狼みたいなやつが来たよな?」
「それは覚えてる、火を噴く犬だろ」
エリオスはそのことは覚えていた。
火を噴こうとしたら急に口をあんぐり開けて止まる面白い"犬"だ。
「犬じゃねーよ!」
「それ放置すると村の作物燃やすんだぞ!」
エリオスは肩をすくめる。
本当に知らないのだから仕方ない。
「いや、俺に聞くなよ。あれも別に強くは──」
その時、母・ポーラ・ルクレイの声が家の中から響いた。
「ほらー! 早く食べるわよ!」
エリオスは本を閉じ、手を軽く振って応じる。
そのまま屋根から飛び降り、ふわりと軽やかに着地する。
「いつ見てもヒヤヒヤするからやめなさい!」
「大丈夫、何度も試してるから。」
「私が大丈夫じゃないの!」
呆れるポーラの後を追い、家へと戻った。
療養中の父・カイネスは、荷馬車から落ちて骨を折り、寝床でサボり癖を発揮している。
「おい、エリオス、ちょっと肩揉んでくれ。」
「いやいや、昼飯の時間でしょ。」
「ならば飯を食わせてくれ。スプーンを持つのも辛い……」
「それ、ただの怠けだろ。」
「違うぞ、これは立派な療養だ!」
するとポーラが険しい表情で腕を組み、ぴしゃりと口を挟む。
「なら昼食抜きね。療養には胃の休息も必要よ?」
「待て待て! それは聞いてない!」
今日も村は、どこまでも平和だった──少なくとも、まだこの時までは。
──昼過ぎ、食事を済ませたエリオスは、
自室のベッドの上に寝転がっていた。
窓からは穏やかな陽射しが差し込み、
外からはのんびりとした村人たちの声が遠く響いてくる。
(いつも通りの一日だな……)
彼はふと、小さく息を吐いた。
平和だが、どこか物足りない。
静かだが、どこか落ち着かない。
そんな不思議な感覚が胸をよぎる。
何気なく顔を横に向けると、
棚には魔法について書かれた数冊の古びた本が積まれている。
500年前に書かれた本、猪狩りの時に古物商から譲ってもらったものだ。
暇つぶしにでも読もうかと思い、手を伸ばしかける。
──その瞬間だった。
窓枠が激しく振動し、床や壁までが唸るように揺れ動いた。
思わずエリオスは身を起こす。
「なんだ……!?」
不穏な轟音が耳をつんざき、体の奥にまで振動が伝わってくる。
立ち上がり窓から外を覗くと、平和だったはずの村の景色が歪んでいた。
黒煙が空に向かって立ち昇り、かすかに悲鳴のような声が風に混じっている。
──日常は、こうして唐突に引き裂かれた。
村が一瞬で震え、衝撃が家々を叩き、腹の底まで響き渡る。
つい先ほどまで響いていた村人たちの笑い声は、すべて消え失せていた。
エリオスは即座に起き上がり、鋭い目つきで外を見つめた。
(今のは……魔法か?)
本能的に彼は理解していた。だが、この村に魔法を使える者は自分以外いないはずだった。
父カイネスは青ざめた母ポーラを抱き寄せ、彼女をかばっていた。
エリオスは無言のまま玄関に飾ってあった古びた鉄剣を掴み取る。
「待て、エリオス! 外に出るな!」
父の制止の声を無視し、エリオスは扉を押し開ける。
彼に躊躇はなかった。守るべきものが、この村にはある。
しかし──外に広がっていたのは、信じがたい異常な光景だった。
村は異様なほど静まり返り、風は止まり、世界そのものが色を失っていた。
空は血のように赤黒く染まり、
すぐそこに迫る夕闇とはまったく異質な陰気を放っている。
そして何より──村人たちが、どこにも見当たらない。
「君、面白いネェ……こんな村に『使える』奴がいたんだぁ?」
背筋を凍らせるような、低く不気味な声が響いた。
村の中心からゆらりと現れたのは、長い白髪を束ねた痩せぎすの男。
薄汚れた外套を羽織り、闇に映えるような狂気じみた目がエリオスをじっと見ていた。
「お前がこれをやったのか」
エリオスは怒りを感じている自覚があった。
だがそれを遥かに上回る静かな冷たさが、彼を支配し始めていた。
「まあ、偶然ってやつダナ。それよりサ、嬢さん見なかったかい?」
男はキシシ、と嫌らしく笑いながら問いかける。
「嬢さん?」
「ああ、そうだよ、ヒラヒラした服を着た青髪の貴族の嬢ちゃんだァ……知らねぇか?」
「知らないな」
「残念だナァ」
男は肩をすくめ、笑みを浮かべたまま村の中心部へと歩き始めた。
エリオスはその後を冷徹に追った。
「何でついて来るんだ?」
「何が起きたのか、確かめる」
「ああ、そう……ご自由にドウゾ」
男の足取りはひどく軽いが、
その背中には得体の知れない殺意が漂っていた。
歩みを進めるごとに村の光景は惨たらしさを増した。
壁や地面には焦げ跡と黒い血痕のような液体。
そしてエリオスはついに目にした
──村の中心で無残に散った、肉片と化した村人たちの痕跡を。
怒りも、悲しみも、その瞬間にエリオスの中で凍りついた。
「お、いたじゃん!」
男が愉快そうに指差す先には、血に汚れ、
苦しげな表情で剣を握る青髪の少女がいた。
白い戦闘服は引き裂かれ、肩で荒く息をしている。
「貴族様、さすがにもう限界?」
「まだ……貴方を殺せば、終わりよ……!」
震える手で黄金の剣を構え、少女は再び男に斬りかかった。
「怖い怖い。でもサ、無理だよネェ?」
男が指を鳴らした瞬間、空気が音を立てて軋み、ねじ曲がる。
逃げ場のない閉じた空間がエリオスを含めた全員を包み込む。
「爆圏閉域──」
瞬間的にエリオスは悟った。この男こそが、すべての元凶だと。
(こいつが、村を──)
その刹那──
世界が、静かに歪んだ。
男が放ったはずの破壊の衝撃波が、
まるで濃密な水の中を進むようにゆっくりと進んでいる。
青髪の少女の剣先もまた遅れ、
彼女自身がその異変に瞳を大きく見開いている。
「──またか、この現象……」
エリオスは静かに呟いた。
彼自身にも理解できていない不可思議な現象。
何故か『魔法』が止まり、世界が遅れる現象だ。
「なんだ……?なんなんだァ!? 何をした、貴様ァ!」
男の顔が狂気から一瞬にして困惑、そして恐怖へと変わる。
魔法が思い通りにならない──
その事実は、彼にとってあまりにも異常だった。
エリオスは淡々と、表情ひとつ動かさず男に近づいた。
その瞳には、怒りも動揺も存在しない。
達観、いやそれとも諦めか、
ただただ冷え切った静寂があるのみだった。
「な、なんなんだよ、お前ェ……!?
時間を止めたってわけじゃねぇ、これは──」
ジルヴァンはぎょろりと目を剥き、
理解を超えた異常性を前にして、震える声で問いかける。
「お前ッ、一体何者なんダァ!?」
エリオスは答えない。答える理由も、意味もなかった。
古びた鉄剣をただ静かに振り下ろした。
「チッ!」
ジルヴァンはとっさに自らの魔法を解除した。
異様な赤黒い空が消え、まるで夢が醒めるように青空が戻る。
「はぁ……なんてこったァ……。まさかこんな村に、
『禁忌』すら超えるヤツが居たなんてなァ……」
男は、動揺したように後退しながらも、徐々に楽しそうな表情に変わっていく。
「……禁忌?」
エリオスは冷淡に呟く。
だがその言葉に応えたのはジルヴァンではなかった。
「まさか──貴方、今の『魔法』が何なのか分かっていないの?」
青髪の少女が息を切らしながら、エリオスを見つめていた。
返り血を浴びながらも、その眼差しには誇り高い光が宿っている。
エリオスが無言のまま少女に視線を送ると、
彼女は震える指でエリオスを指し、唇を噛んだ。
「今、貴方が起こしたのは魔法体系そのものを覆す現象──
ありえない……」
彼女の声には驚きだけでなく、焦り、興味、恐れが入り交じっている。
「そうサァ、その嬢ちゃんの言う通りだぜェ……。
『禁忌を超えた』なんて可愛いもんじゃねぇ、
これは『世界の境界』を揺らがす力だァ!」
ジルヴァンは不気味に微笑みながら、自分を取り戻していく。
「さっきから意味の分からない話をするな」
エリオスは興味がない素振りを見せると、
ジルヴァンは愉快そうに笑い声を上げた。
「お前、自覚がねぇってのが更に最高だァ!
お前はおそらく、『次の特異点』だ──!
世界がひっくり返る、そんな変化の兆しなんだヨォ!」
「次から次へと、意味の分からない事を……」
エリオスの脳裏に、ふと読み漁っていた古い本の一文が浮かぶ。
500年ごとに魔法のあり方を揺るがす、
『境界の魔法使い』が現れるという言葉。
それはただの迷信かと思っていた。
「まさか……それが自分なのか?」
呟きは小さく、エリオス自身にも答えはない。
ジルヴァンは愉快そうに屋根の上へと跳び上がる。
「俺はジルヴァンだァ!お前の『力』に興味が湧いたぜぇ──!
次はもっとじっくり『遊ぼう』じゃねぇかァ!」
高笑いが遠ざかり、ジルヴァンは消えた。
静寂だけが取り残され、青髪の少女は剣を杖代わりにして立っていた。
「貴方──
一体何者なの?」
少女は戸惑いと畏れの入り混じった視線で、
エリオスを見つめていた。
しかし、エリオスは返答しない。
怒りも悲しみも、すべてが凍りついて動けない。
日常はあっさりと崩れ去り、自分の力に対する漠然とした
恐怖と戸惑いが、胸の奥深くを蝕んでいた
そしてただ、青い髪の少女の見つめる瞳だけが、
興味とも恐れともつかない複雑な色で揺れていた。