8. 失恋
それからどこをどう歩いたか、記憶にない。気付けば街外れの丘まで来ていた。丘の上には廃墟が佇んでいる。昔、見張り台があったらしい。フェルナドは幼い頃から何か落ち込むことがあると、度々この場所に訪れていた。しばらくすると、離れていた護衛が帰城を促して、渋々帰るのが常だった。
腰を下ろした地面の冷たさが堪える。風は穏やかだったが、確実に体温を奪われていった。失恋の痛手に打ちひしがれ、ぼぅっとして廃墟の隣で街並みを眺めながら座っていると、微かに覚えのある香りが風に乗ってフェルナドの鼻腔をくすぐった。
「クラウディア嬢か」
クラウディアが言葉を発するよりも先に、フェルナドは何者かが近付く気配を感じていた。
「はい」
隣に立ったクラウディアは灯りを持ち、平民の服を身に纏っていた。今までの行動履歴から、尾行してフェルナドたちの様子を窺っていたと予想がつく。フェルナドが失恋したこともすでに把握しているだろう。
フェルナドは視線を王都に向けたまま、膝を抱えていた。
「お前には色々と骨を折ってもらったが……すべて無駄に終わったな」
クラウディアは緩やかに首を振った。
「いいえ。さきほどのアニエス様の態度ですが。現時点での好感度を表していて、今後の指針となる重要なものです。ただの通過点に過ぎません。まだ諦めるには早いですよ」
クラウディアは言いながらカンテラを置いて隣に屈んだ。とくに抵抗もなく草の上に直に腰を下ろす。
「なにをふざけたことを。私は振られたのだ」
クラウディアに一瞥もくれないまま、フェルナドは肩を落とした。下手な慰めの言葉は余計に心の傷を広げた。
「もう私に構わないでくれ」
「いいえ。放っておけませんわ」
立てた両膝を抱え込み、クラウディアは星の瞬く夜空を見上げた。
「鏡や窓を一枚や二枚割ったくらいで落ち込まないでくださいませ」
ここに来るまでのあいだ、仮面の呪いが発動して店のショーウィンドゥをいくつも割った。呪いが周囲にまで影響を及ぼすか否かはフェルナドの精神状態に左右される。
「違う」
そこまで見られていたのかと、フェルナドはさらに気分が落ち込んだ。
「今日これまでに五十枚以上は割っている」
「それはかなりの経済的損失ですわね……」
「そもそも今そういうことで悩んでいるのではない」
「お話を逸らせてしまい、申し訳ありません」
わざと話を逸らしたのだろうと思ったが無神経なのか、気遣いが空回っているのか、いまいちわからない。
「もうお帰りになりませんと」
フェルナドの肩に手を置こうと、クラウディアが腕を伸ばす。
「触れてくれるな」
仮面に近づいた手を乱暴に払いのけた。
「不躾でしたわね。申し訳ございません」
クラウディアは気分を害するでもなく、素直に謝罪した。逆にフェルナドのほうが気まずくなって、払いのけた手を力なく下ろした。それからあることに思い至って、ぐっと唇を引き結んだ。
「お前の狙いはわかっている。ナザレだろう?」
フェルナドは隣に顔を向けた。確信を持ってクラウディアを射抜く。
「お前は私とアニエスの仲を取り持とうとする間、ナザレとの接触を図っていた」
イグレイスやほかの生徒により、クラウディアの悪評はあちこちで学院の噂となって上ってくる。
「そしてアニエスもナザレのことが……」
先ほどの光景を思い出したのか、フェルナドがうじうじとして再び俯いた。
「……フェルナド様」
クラウディアはフェルナドのほうへ身を乗り出した。おもむろにぎゅっと両手でフェルナドの顔を両側から挟み、やや強引に自分の方へと振り向かせた。
「今からフェルナド様の長所を挙げ連ねていきますので、お聞きになってください」
挟んだ手にぐっと力が籠り、頬が寄せられる。クラウディアの手は氷のように冷たくて、フェルナドは身体を竦ませた。
「なにを」
思いもつかない行動に動揺して、フェルナドは抵抗するのを忘れた。
「声がよい。落ち着いていて穏やかで耳に心地良いです」
クラウディアは蒼く澄んだ、静かな瞳で仮面の奥をしっかりと見据えた。
「勉学も剣術も怠らず、文武両道でナザレ様に一切引けを取りません」
「……」
口を挟もうにも、両頬を挟まれていて喋りにくい。クラウディアは両手を顔から離すことはしなかった。
「努力家でそれを驕ることがない」
「知った風なことを……」
「頭の先から足の爪先まで洗練された所作も血の滲む思いで獲得されたものでしょう」
クラウディアは冷静に努力の成果を指摘した。クラウディアは立て続けにフェルナドの長所を挙げていった。
「格好良い」
「顔は仮面で見えないだろうが」
皮肉と受け取ったフェルナドは、苦虫を噛み潰したよう顔で睨み付けた。
「見えずとも私にはわかりますが、今は顔のことは言っておりません。内面のことです」
クラウディアがふ、と口元を緩めて表情を和らげた。柔らかに瞳を細める。
「いつだって周囲を傷つけないように振る舞っておられます」
いつも自信満々で勝ち気な印象の、意外な表情を目の当たりにして、フェルナドは意表を突かれた。クラウディアは市井に溶け込むためか庶民の労働着を着て、髪を三つ編みに結っていた。普段とは違って控えめな化粧をしていたが、それがかえってクラウディアの美貌を際立たせていた。
「……臆病なだけだ」
ふと、吐くつもりのなかった弱音を零した。クラウディアは揶揄することなく、曖昧に微笑んで視線を交わした。
「その慎重さで、ご自身の御心を守ってこられたのでしょう」
「ものは言い様だな」
フェルナドは力なく自嘲した。クラウディアが向ける眼差しはどこまでも穏やかで、静かな声だった。段々と真正面から見つめ合っていることに、フェルナドは気恥ずかしくなってきたが、クラウディアは特に気にした様子はない。
「優しい方です。でも優しすぎて侮られることもあるので、もっと厳しくなさってくださいませ。でないと不敬な者どもをぶん殴りたくなってきますもの」
「殴る……」
令嬢の口から物騒な言葉が飛び出したことに目を瞬かせる。
「あとは……うーん。意外とチョロいところがおありになります」
「……ん?」
「アニエス様のこととなると、途端にポンコツになる」
「……」
「ちなみにチョロいというのは、扱いが容易なことで、ポンコツというのは魔導具でいうところの性能が低いもののことを言います」
クラウディアは律義にフェルナドの知らない言葉を解説した。
「……」
クラウディアはそこで頬を挟んでいた両手の力を緩めて、そっと離した。フェルナドは近すぎる距離に今さら動揺して後ずさったあと、着崩していた服を整えて、確認した。
「最後のほうは悪口だったよな?」
「いえ、美点ですわ」
「……」
これまでうわべだけの美辞麗句を散々浴びてきた。賛辞を贈られた同じ人間から、それ以上の悪意をぶつけられた。だからこそ世辞かどうかはともかく、クラウディアが本心からフェルナドを励まそうとしているのがわかった。後半はあからさまに悪口だったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「そう、か……」
学院で悪名高いクラウディアに認められていたのは胸中複雑だったが、フェルナドを偏見なく評価してくれることは素直に嬉しい。クラウディアの瞳はアニエスと同様に澄んでいて、フェルナドに対する恐れも蔑みの色も見えない。フェルナドはクラウディアに対する見方を少しだけ改めた。
「うっ」
クラウディアが急に呻いて胸のあたりを押さえた。
「どうした?」
フェルナドの問いに、クラウディアはおもむろに両手を胸の前に合わせた。
「推しの照れ顔……供給をありがとうございます」
不可解な言葉を発し、クラウディアは両手を合わせたまま一度頭を下げた。息遣いが荒い。フェルナドは本気でクラウディアの体調を案じた。
「??」
大丈夫かと声を掛けようとして、止まる。両手を胸の前で組み、恍惚とした表情で瞳を潤ませフェルナドを拝む様は、さながら神に出会った狂信者のようであった。クラウディアは両足を揃え、両手を伸ばして上半身を前に投げ出した。
「貴重なご尊顔を拝し奉りまして誠にありがとうございます」
「!? 崇めるな!」
全身が総毛立つ。唐突で不可解な行動を薄気味悪く感じて距離を取った。
「少し調子に乗りましたわ……。申し訳ありません」
クラウディアは顔にかかった髪を耳の後ろに掻きあげながら、上半身を起こした。胸を大きく上下させて息を整える。
「いや……」
心は沈んだままだったが、それでもクラウディアの励ましと奇怪な行動のおかげで、いつもの調子を少しだけ取り戻せた。
フェルナドは先ほどのことを思い出し少し迷って、視線を泳がせた。
「先ほどのことだが。乱暴に払いのけてすまなかった。その、嫌だったというわけでなく……」
「はい。呪いの影響範囲がわからないから、遠ざけようとなさったのですよね」
弁明するフェルナドに被せるように、クラウディアは冷静に告げた。
「存じておりますよ」
「……」
地面に額をつけて勝手に人を拝んでいたかと思えば、冷静にフェルナドを観察している。
つくづく訳のわからない女だと、フェルナドは思った。