20. 噂の出所
一刻ほど過ぎて、フェルナドはベッドから起き上がった。急いで身支度をする。窓から階下の空中庭園を覗くと、ちょうどガーデンパーティが終わる時間帯だった。雪はすでに止んでいた。
医師からはしばらく安静にするように指示を受けたが、フェルナドはどうしてもクラウディアと話がしたかった。手の怪我を隠すために手袋をはめようとして、動きを止めた。血どころか、怪我の痕さえなかった。思い出すに傷はそう浅くはなかった。不思議に思いながら、とりあえず手袋をはめて私室を出た。
ちょうどパーティが終わった頃合いで、庭園の出入口はざわざわと人だかりができていた。
勢い込んで来たはいいものの、クラウディアに会って、何を話せばよいのか。何も考えていなかった。フェルナドは急に臆病風に吹かれた。庭園に面した柱廊のあいだをうろうろと行ったり来たりした。
(とりあえず、顔を見るだけでもいい)
ようやく意を決して立ち止まる。他の令嬢に見られると怯えさせてしまう可能性がある。物陰に隠れて様子を窺っていると、見知った顔が温室の出入口から出てくるところだった。
「アニエス」
廊下の角を曲がったところでアニエスを呼び止めた。見慣れた制服姿とは違い、茶会に相応しく着飾っていた。ドレスは全体的に淡い色で統一されていて、銀色の刺繍が雪華の如く煌めいていた。スカートの裾をたくし上げたドレープがアニエスの可憐な姿を引き立てていた。
「フェルナド殿下。お久しぶりです」
アニエスが淑女の礼を取って優雅に微笑んだ。フェルナドは挨拶もそこそこに落ち着きなく辺りを見回した。
「その、クラウディア嬢を見なかったか?」
「……」
アニエスはピタリと動きを止め、一度口を噤んだ。それからフェルナドの問いに答える。
「クラウディア様なら、ひと足先に帰られました」
フェルナドは訝しく眉を顰めた。
「しかし……パーティは今終わったばかりだろう?」
「……」
「アニエス?」
「存じ上げません。私もそろそろ失礼させて頂きます」
アニエスは頭を下げて早々、ぷいっと横を向いて歩き出した。フェルナドは素っ気ない態度のアニエスを腑に落ちない様子で見送った。
廊下の向こうから王妃レイティアが柔らかな微笑を浮かべつつ、侍女を連れたってフェルナドのもとに歩いてきた。
「フェルナド……」
「母上」
「着飾った令嬢を前にして、褒め言葉のひとつも出ないのですか? もう一度礼儀作法を叩きこむべきかしら」
レイティアは一語一語、区切るようにしてフェルナドを諭した。笑顔の中に静かに、しかし明確に怒りを滲ませていた。
「え。あ……」
フェルナドはようやく自分の失態に気付いて顔を青くした。といっても、仮面のせいで傍目にはわからなかったが。
「早く追いかけなさい」
レイティアの気迫に圧され、背筋を正して頭を下げる。フェルナドは踵を返してアニエスの去った方へ急いだ。途中見失ったが、馬車に乗り込む寸前のアニエスを捕まえて謝ることができた。
***
アニエスには改めて花を添えた謝罪の手紙を送った。そして年が明けてからは式典や行事で忙しく日々を過ごした。それから何日か経った頃、ようやく身の回りが落ち着いて、フェルナドは学院へと赴いた。
休暇中の学院は閑散としていた。その中で、重々しい雰囲気の護衛に囲まれたアニエスが、フェルナドの姿を見とめて手を振った。これから仕事のために神殿に向かうというアニエスに同行することになった。
道中、同じ馬車に向かい合わせに座った。
「ガーデンパーティでは、本当にすまなかった」
アニエスが苦笑して首を振った。
「いいえ、私も大人げなかったです。それより、あのとき何かありましたか?」
「いつものことなのだが……。クラウディア嬢の良くない噂を耳にした」
フェルナドの言葉に、アニエスは顔を曇らせた。
「クラウディア様と親しいフェルナド殿下なら、あのような噂は信じないと思いました」
アニエスは噂の内容を知っていた。
「別に親しいというわけではない」
「そうなのですか?」
アニエスは意外そうに目を丸くした。
「噂を信じているわけではない。ただ……出所が気になる。私に関係していることでもあるし、誤解は正したい」
じっと探るようなアニエスの瞳に、フェルナドは焦って言葉を続けた。
「クラウディア嬢は……何かと誤解されやすいだけで、そんなに根は悪くない……はずだ」
断言はできない。せっかくの擁護も尻すぼみになった。
「……私のせいです」
フェルナドを見つめていたアニエスが、やがて俯きがちになって口を開いた。
「……私のせいで、クラウディア様は汚名を被っているのです」
確信めいた口ぶりだった。フェルナドは続きを促した。
「前の、男子生徒との噂のことも。以前、私のことで生徒会の方々に呼び出しを受けて……。暴力を振るわれる寸前でした。たぶん、そのことが原因だと思います。ナザレ殿下は箝口令を強いていましたが……」
人の口に戸は立てられぬ、ということだった。
どういう経緯でそうなったか、なんとなく想像がついた。クラウディアは強気な態度でホーネックたちを煽ったのだろう。
「私に関する悪評が広がり始めるたびに、決まってクラウディア様やほかの方の悪い噂が出回るのです。私の、聖女の心象を損なわないようにという、尊い方々の意向だと思います」
アニエスが眉根を寄せ、唇を噛んだ。両手を膝の上で強く握りしめる。
ホーネックやオディセン、ロイスは婚約者がいるにも関わらずアニエスに熱を上げている。その姿を見て、婚約者のいる男に擦り寄るとんでもない聖女だと厳しい目を向ける者たちはいた。そして当の婚約者以上に、その近しい者たちが主体となってアニエスを糾弾していた。
アニエスは自分の行いのせいで、悪く言われることは仕方ない。しかしそのせいで無関係の者にまで被害が及ぶのが許せないと語った。
「私では……ナザレ様たちを説得できなくて」
アニエスは噂の出所が生徒会だと思っているようだった。フェルナドの見立てではナザレはそういった手段を好まない気がする。ただ部下の仕業なら、不利益さえ被らなければ放置しておく可能性はあった。
いずれにしても、そうであれば噂の出所は把握しているだろうに、ナザレはフェルナドの前で白を切った。フェルナドは舌打ちしたい気分を抑えた。
「暴行未遂の件については、私の胸の内にしまっておく」
「私から聞いたことと仰っても構いません。でないと、クラウディア様は誤解されたままです」
アニエスの立場では、真実を打ち明けることは難しい。アニエスはフェルナドの口からクラウディアの噂を打ち消すことを望んでいた。
クラウディアならば、これ以上自身の悪評が広がったところでどうということはないだろう。露悪的に振る舞い、周りから疎まれることこそがクラウディアの望む状況だった。
「アニエス。気に病むことはない。クラウディアの悪評については、本当は……私のせいなのだから」
俯いたまま顔を上げないアニエスに、フェルナドはポツリと本音を零した。
「フェルナド様。クラウディア様と喧嘩したのですか?」
「喧嘩といえるほどのことは……なかったな」
クラウディアとも、ナザレとも。フェルナドは自嘲した。
フェルナドはあれから結局クラウディアに会うことができずにいた。城では衝動的に会おうとしたものの、いざ会おうとすると、具体的に何を話せばよいかわからなかった。謝って今までの行動を感謝すればよいのか、それとももう止めさせたいのか。再び協力関係に戻ることは、もうできない。
それに、いまいち自信が持てなかった。ひょっとすると、フェルナドの呪いを解くことが目的でなく、その先に何かあるのかもしれない。今まで他人から好かれることなどほぼなかった。思い上がった思考を、クラウディアを信じきることができない。フェルナドは他人から好かれる覚悟もなかった。
「私、リジェルとちゃんとした喧嘩をしたかった」
アニエスは窓の外へ視線を向けた。
「もっと早くから言いたいことをお互いに言って、喧嘩をして。できれば仲直りをしたかったです」
車窓を流れる人々を時折切なげに見送りながら、言葉を継いだ。
「でも、難しいですね。私は、未だに……言いたいことは言えませんから」
アニエスは自然に髪飾りに手を添えた。
物憂げな横顔を黙って見つめた。悲しい思いばかりさせる、ナザレのどこを好きになったのだろうかとフェルナドは不思議に思った。
(クラウディアも、私のどこが気に入ったのだろうな)
クラウディアがフェルナドたちについて熱く語ったとき、気恥ずかしかった。しかし同時にクラウディアの語るフェルナド像は、どこか遠い別の人物のことのようで、実感が伴わなかった。実際に会って理想とは違うと、幻滅しなかったのだろうか。それとも今も、物語越しにフェルナドを見ていて、現実を見ていないのだろうか。
(いずれにしても、クラウディアに頼りっぱなしではいられない)
アニエスにドレスを贈る算段でいた。二月には学院で舞踏会が開かれる。生徒たちの進級と卒業を同時に祝うものだった。
クラウディアの行動の理由がフェルナドの考える通りならば、呪いが解ける可能性があるということだ。そのためにアニエスを利用するという考えには至らなかった。アニエスには呪いの真相を正面から打ち明けて、助力を請うつもりだった。
これからは自分のことは、自分で切り開いていく。
すべてに絶望し諦めて、憎悪と、不信で蹲っていたフェルナドにアニエスは手を差し伸べてくれた。立ち上がってもなかなか踏み出せずにいたその腕をクラウディアは強引に掴んで引っ張った。
二人の恩に必ず報いるつもりでいた。
それからしばらくすると、二人の乗る馬車が神殿の前に辿り着いた。




